第15話:忠臣の諫言、すれ違う心
第15話:忠臣の諫言、すれ違う心
若き丞相・諸葛瞻によって、元婚約者・糜照との忌まわしい再会から一旦は救出された玉蘭だったが、彼女のその夜の受難は、それで終わりではなかった。
丞相自らが直々に関心を示した「時の人」となった彼女の周りには、まるで蜜に群がる虫のように、次から次へと官吏たちが群がってきたのだ。ある者は建寧の新たな特産品である「赤珠果」のその莫大な利権に与ろうと、蛇のようにねっとりとした甘い言葉を囁きかけ、またある者は、丞相の歓心を買うための足掛かりとして彼女に取り入ろうと、薄っぺらいお世辞を並べ立てた。
偽りの笑顔。そして、欲望にぎらついた言葉の洪水。
それは玉蘭が心の底から最も嫌悪する、宮中の醜い側面そのものだった。彼女は完璧な淑女の仮面を顔に貼り付け、当たり障りのない言葉でそれらを柳のようにしなやかにかわし続けていたが、その精神は確実にすり減る一方だった。
(もう、たくさんだわ……。早く帰りたい。建寧の、あの土の匂いがする場所に……)
そんな彼女の疲労困憊の様子を、広間の壁際にまるで装飾品の石像のように立つ一人の男が、苦々しい表情で見つめていた。
衛将軍、姜維。彼もまた丞相からの有無を言わせぬ命令で、この柄にもないきらびやかな宴への出席を余儀なくされていた。
彼の視線の先で、玉蘭はまたしても、最も厄介な人物に捕まっていた。魏の使者、鍾会だ。彼は、諸葛瞻が別の重臣と話し込んでいるそのわずかな隙を見計らって、まるで獲物を狙う猛禽のように、再び彼女に接近していた。
「姫君。先ほどの貴女の態度は実に見事だった。だが、この都ではその気高さはむしろ仇となる。孤立無援の貴女が、この魔窟で生き抜く術は一つ。より強大な力と手を組むことだ。私ならば…」
姜維の中で、何かが音を立てて切れた。
彼が憤っているのは、鍾会が敵国の人間だから、という単純な理由ではない。彼が憤っているのは、この都の全ての人間が、諸葛瞻でさえもが、玉蘭を「道具」としてしか見ていないという、その事実に対してだった。
彼女が建寧で、どれほど民を思い、泥にまみれ、苦悩し、そして笑い合ったか。その人間としての尊厳を、誰も見ようとはしない。彼らが見ているのは、彼女の才能、血筋、そして利用価値だけだ。都の貴族たちの甘い言葉と、その裏にある底知れぬ欲望。それは、数年前、彼が最も信頼していたはずの友に裏切られ、多くの部下を失った、あの忌まわしい記憶を呼び覚ます。
そして、何より彼を苛んでいたのは、そんな彼女を守るべき自分が、丞相の命令一つで、こうして何もできずに壁の花を演じている、その無力さだった。
彼は、これ以上見て見ぬふりをすることはできなかった。
姜維は、鍾会と話す玉蘭の元へと、静かに、しかし確かな足取りで歩み寄った。
「玉蘭様。夜も更けてまいりました。長旅の疲れもございましょう。そろそろお部屋へお戻りになられては、いかがですかな」
その声は、護衛としての務めを果たす、どこまでも事務的なものだった。だが、その言葉は、鍾会との会話を遮るには十分だった。
鍾会は、割って入ってきたこの無骨な将軍を一瞥すると、面白そうに口の端を上げた。
「これは、忠義な番犬殿のご登場ですかな。よろしい。今宵はここまでにしましょう。また、いずれお会いすることになるでしょう、赤髪の姫君」
彼は意味深な言葉を残し、優雅にその場を去っていった。
玉蘭は、この息の詰まる状況から救い出してくれた姜維に、感謝の念を抱いていた。
「……ありがとう、姜維」
彼女は、素直にそう礼を言った。
二人は、宴の喧騒から逃れるように、月明かりが差し込む静かなテラスへと向かった。冷たい夜気が、火照った玉蘭の頬に心地よかった。テラスの隅では、宮中の楽師が、物悲しい調子の『胡笳十八拍』を、静かに奏でている。その旋律が、まるで今の玉蘭の心境を映しているかのようだった。
しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは姜維だった。
「玉蘭様。都は、貴女様のいるべき場所ではございません」
その声は、真剣で、そしてどこか切実な響きを持っていた。
「丞相閣下は、貴女を利用しようとしておられる。あの鍾会という男もそうだ。彼らは、貴女の才能と血筋にしか興味がない。貴女自身の幸せなど、微塵も考えてはおりません」
「わかっているわ」玉蘭は力なく答えた。「でも、逃げるわけにはいかないの。ここで逃げれば、建寧はいつか必ず、彼らの政争の駒にされてしまう。わたくしは、戦わなければならないのよ。この都で、わたくしのやり方で」
その強い瞳を見て、姜維は彼女がもはや自分が守るべきか弱い姫ではないことを悟る。そして、彼の心に、深い深い葛藤が生まれる。
彼女は、丞相の力を借りてでも、自らの理想を成し遂げようとしている。それは国のためを思えば、正しい道なのかもしれない。だが、そうなれば、彼女はますます都の泥沼に深く囚われ、かつて建寧で見せた、あの心からの笑顔を失ってしまうのではないか。
俺は…彼女に、ただ幸せでいてほしいだけなのに。
その、どうしようもなく純粋な想いが、彼の口から、不用意な言葉となってこぼれ落ちた。
「……丞相のやり方が、本当に正しい道だと、お思いか」
彼の声には、彼の意図とは裏腹に、彼女の決意を断罪するような響きがあった。
「亡き孔明様が目指されたのは、権謀術数渦巻く都の勝利ではない。民の安寧、そのものであったはず」
彼は、テラスの向こうに見える、きらびやかな宴の灯りを見つめた。
「あそこでは今頃、貴重な南中の荔枝が水菓子として振る舞われ、兵士たちの半年分の俸給に値する美酒が、惜しげもなく注がれていることでしょう。しかし、北の最前線では、兵たちは粟の粥をすするだけで、凍える夜を耐えている。これが、今の蜀の現実です。丞相は、その現実から目を背けておられる」
それは、彼女の身を心から案じるがゆえの、忠臣としての「諫言」だった。
だが、今の玉蘭には、その言葉の裏にある彼の真意を汲み取る余裕はなかった。孤独な戦いを決意した彼女にとって、その言葉は、信じていたはずの唯一の味方からの、あまりに手厳しい「否定」にしか聞こえなかったのだ。
(都の男たちは皆、わたくしを『駒』としてしか見ない。丞相も、魏の使者も、結局は同じ。でも、あなただけは違うと思っていた。あなたは、わたくしをただの皇女としてではなく、一人の人間として、その目で見てくれていると。この息の詰まる都で、わたくしが唯一心を許せる、最後の砦だと、そう信じていたのに……!)
「……あなたに、何がわかるというの!?」
玉蘭は、感情的に叫んでいた。その声は、悲しみと、裏切られたという思いで震えていた。
「わたくしは、わたくしのやり方で、建寧を、民を守ると決めたの! 亡き丞相の理想? それはあなたの理想でしょう!? わたくしには、わたくしの戦い方がある! あなたはただ…あなたはただ、黙ってわたくしを守るという、あなたの任務だけを遂行していればいいのよ!」
それは、彼の心を信じきれなかったがゆえの、あまりに酷い、そして残酷な言葉だった。
その言葉を聞いた瞬間、姜維の顔から、すっと表情が消えた。
彼の瞳に宿っていた、彼女への心配や、恋慕の熱が、まるで冷たい水を浴びせられたかのように、一瞬にして消え去った。残ったのは、ただの氷のような、空虚な色だけだった。
「……御意」
彼は、鉄仮面のような無表情で、短くそう答えた。
そして、機械のように完璧な作法で、深く、深く一礼すると、何も言わずに彼女に背を向け、闇の中へと去っていった。
残された玉蘭は、自分が口にしてしまった言葉の重さに、はっと我に返った。
自己嫌悪と後悔の念が、嵐のように彼女の胸に吹き荒れる。
彼を傷つけたくなかったのに。
ただ、信じてほしかっただけなのに。
なぜ、あんな酷いことを。
彼女は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。月明かりの下、その美しい翠玉の瞳から、一筋の熱い涙が、音もなくこぼれ落ちた。
二人の間には、もはや修復不可能なほどに、冷たく、そして深い亀裂が走ってしまった。
そして、この痛々しいすれ違いこそが、後に彼らを襲う、さらなる悲劇の、静かな引き金となることを、まだ二人は知らなかった。