第14話:宴の仮面、三つの視線
第14話:宴の仮面、三つの視線
若き丞相・諸葛瞻との嵐のような謁見は、玉蘭にとって予想外すぎる結果に終わった。
破格の支援の約束と、「漢室の宝」という甘い言葉。だが、彼女の心は少しも晴れやかではなかった。あの若き天才の、全てを見透かすかのような鋭い瞳。彼女という人間を、まるで面白い新しい駒か、あるいは極めて有用な戦略の一部のように品定めする視線。それが玉蘭にはどうにも落ち着かなかったのだ。彼の庇護下に入ることは、檻に入れられることと同義ではないのか。その問いが、彼女の胸に重くのしかかっていた。
その日の夜、玉蘭の元に、侯爵家が主催する宴への招待状が届いた。丞相からの「ぜひとも顔を出すように。建寧の未来のためにも、都の者たちに顔を売っておく必要があるだろう」という、事実上の命令付きで。
「……あの策士め、余計なことを……!」
玉蘭は、この宴が、諸葛瞻が彼女を「自分の庇護下にある重要人物」として都の者たちに知らしめ、彼女の政敵である糜照や黄皓派を牽制するという、明確な政治的パフォーマンスの舞台であることを見抜いていた。
出席すれば、それは彼の庇護を受け入れ、彼の駒となることを、都の者たちの前で認めることになってしまう。だが、断ればどうなる? 弱冠23歳で丞相の座に就いた、あのプライドの高い若き天才の顔に、真正面から泥を塗ることになる。建寧への支援など、夢のまた夢と消えるだろう。
結局、わたくしに選択肢などないのだわ。気が重かったが、出席しないわけにはいかなかった。
宴の会場である侯爵家の壮麗な広間は、灯籠の煌びやかな光と、貴族たちの華やかな、しかしどこか空虚なざわめきに満ちていた。
そこに、劉玉蘭がその凛とした姿を現した瞬間、会場の全ての空気が、一瞬にして凍りついた。
彼女が纏っていたのは、建寧の澄み切った夜空を思わせる、深く静かな紺色の漢服。昼間の謁見と同じ、決して華美ではないその衣服は、このきらびやかな宴においては、むしろ異質なほどの存在感を放っていた。過度な装飾は一切ない。だが、その最高級の絹の生地と、完璧に計算され尽くした仕立ては、彼女のしなやかで引き締まった肢体を、他のどんな派手な漢服よりも美しく、そして気高く引き立てていた。
辺境での厳しい経験が、彼女から皇女らしいか弱さを奪い去り、その代わりに生命力に満ち満ちた野性の輝きと、何ものにも屈しないという強い意志を与えていたのだ。
彼女の登場に、上座に座っていた諸葛瞻は、満足げに羽扇を揺らした。彼の狙い通り、全ての視線が彼女に注がれている。
玉蘭は群がる官吏たちを当たり障りなくあしらっていたが、ついに最も会いたくない人物に捕まってしまった。
「――玉蘭」
背後からかけられたその甘く、しかし彼女にとっては呪いのように聞こえる声。
元婚約者、糜照。その表情には以前の傲慢さはなく、どこか憔悴しきった焦りの色が浮かんでいた。彼は、玉蘭が丞相の寵愛を受けたという噂を聞き、自らの失策を悟り、慌てて関係修復にやってきたのだ。
「玉蘭、頼む。話がしたいんだ。あの夜のことは全て私が愚かだった! だが、君がこれほどの才覚の持ち主だったとは、私としたことが見抜けなかった。君のその力、丞相閣下も認めておられる。君と私とが再び手を組めば、この国で我々を超える者はいなくなる! どうか私の妻となって、この国を共に治めさせてはくれないだろうか!」
その言葉は愛の告白ではなく、あまりにも計算高く、醜い政治的な取引の申し出だった。
(この男は、まだ何もわかっていないのね……)
玉蘭は心の底から湧き上がってくる激しい軽蔑を、かろうじて無表情の仮面の下に隠した。
「糜照様。わたくしが欲しいのは権力ではございません。お引き取りくださいまし」
「建寧の、あの何もない辺境の土地が、この私よりも大事だと言うのか!?」
糜照の声がヒステリックに大きくなった、その時だった。
「おやおや、これは見苦しい。振られた相手にすがりつくとは、さすがは大功臣のご子孫、なかなかに見事な執着心ですな」
不意に、横から涼やかな、しかし明らかな侮蔑を含んだ声が割って入った。
声の主は、一見するとただの上質な絹の衣服をまとった、優雅な顔立ちの青年だった。だが、その瞳の奥には、周囲の凡人たちを見下すような、鋭い知性の光が宿っている。
「ど、どこの者だ、貴様は!」糜照が色をなして叫ぶ。
「これは失礼。私は、魏からの使節団に同行している、ただの書記官でして。名を、鍾会と申します」
鍾会。その名に、周囲がわずかにどよめいた。魏の若き天才と噂される男。彼がなぜ、このような場に。
鍾会は、情けない糜照を一瞥りすると、すぐに玉蘭へとその興味深そうな視線を向けた。
「貴殿が、建寧の姫君ですな。噂はかねがね。痩せた土地を蘇らせ、新たな産品を生み出したとか。実に興味深い。ですが、いかがですかな。丞相閣下の鳥籠に収まるには、その燃えるような翼は、あまりに大きく、そして美しすぎるのではないか?」
彼の言葉は、玉蘭を賞賛しているようで、その実、諸葛瞻への明確な挑発だった。
「私の主君は、貴殿のような才覚を持つ者を、正当に評価するお方です。もし、この蜀という小さな国が窮屈に感じられるようでしたら、いつでも我が魏へお越しになるといい。我々は、貴殿に鳥籠ではなく、大陸という、どこまでも広がる大空そのものをお与えできる」
その不遜極まりない言葉に、それまで静観していた諸葛瞻が、ゆっくりと立ち上がり、彼らの元へと歩み寄ってきた。
「――魏の使者殿。私の『宝』に、あまり気安く触れていただきたくないのだが」
諸葛瞻の声は穏やかだったが、その瞳は全く笑っていない。
「彼女は我が漢の皇女、そしてこの私の庇護下にある。貴殿のような異国の者が、口を挟むことではない」
「これはこれは、若き丞相閣下」鍾会は優雅に一礼する。「庇護、ですか。それは、聞こえがいい言葉ですな。私には、その才能を独占し、美しい檻に閉じ込めておきたい、という風にしか聞こえませんが?」
バチッ、と。
目に見えない火花が、二人の天才の間で激しく散った。
玉蘭を挟み、蜀の若き丞相と、魏の若きエリートが、互いの腹を探り合う。それは華やかな宴の裏で繰り広げられる、国家の存亡を賭けた代理戦争の縮図だった。
玉蘭は、自分がただの「宝」や「駒」として、彼らの間で取引されているという屈辱に、唇を強く噛みしめた。彼女は、どちらの男にも与しない。
彼女は、二人の天才の視線が交錯するその中心で、すっと一歩、後ろに下がった。
「お二人とも、ご高説、痛み入ります。ですが、わたくしの翼が、籠に収まるものか、あるいは大空を飛ぶものかは、このわたくし自身が決めますこと」
彼女はそう言うと、二人の男に完璧な一礼をし、誰の手も取らず、ただ一人、その場を毅然と立ち去った。
残されたのは、呆然とする糜照と、互いを睨みつけながらも、その口元に獰猛な笑みを浮かべる二人の天才だった。
(面白い……。面白い女だ)諸葛瞻は、彼女の予想外の行動に、支配欲を一層掻き立てられていた。
そして鍾会は、確信していた。
(諸葛瞻の威光にも、俺の誘いにも靡かず、ただ自らの翼で飛ぶことだけを考えている。あの瞳…あれは、飼いならされる者の目ではない。世界を喰らう者の目だ。……ああ、そうだ。俺がずっと探していたのは、これだ。俺の孤独を理解し、俺と共に、この退屈な世界を破壊できる、もう一人の俺。……魂の片割れ。間違いない。お前は、俺の女になるべき存在だ)
都は、魔窟だ。
玉蘭は、過去の亡霊だけでなく、現在進行形の、もっと厄介で、もっと強力な二つの野心に、その身を狙われている。彼女は、この巨大な盤面の上で、ただの駒でいることをやめ、自らが打ち手となることを、この夜、静かに決意したのだった。