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第13話:丞相の査定、麒麟児の苦悩

第13話:丞相の査定、麒麟児の苦悩

 南中の刺客との遭遇という、心臓に悪い波乱はあったものの、一団はその後何事もなく旅を続け、ついに都・成都の、天に突き刺さるかのように高い城壁を目にする場所にまでたどり着いた。

 数ヶ月ぶりに見る、都の姿。それは玉蘭にとって懐かしさよりも、むしろ思い出すだけで呼吸が浅くなるような息苦しさを感じさせるものだった。あの華やかできらびやかな街並みのどこかで、自分を嘲笑う者たちがいる。自分を憐れむ者たちがいる。そして、自分を利用しようと手ぐすねを引いて待っている者たちがいる。そう思うだけで、胃がきりきりと重くなるのを感じた。

 道中の戦闘で、姜維に守られたこと。彼の腕の中で感じた、不覚にも安堵してしまった自分。そして、その直後に突き放された、あの氷のような言葉。それらが、彼女の心を混乱させ続けていた。

 都の壮麗な門を通過し、一団は皇宮へと直接向かった。若き丞相・諸葛瞻からの直々の召喚である以上、まずは謁見を済ませるのが筋道だった。

 皇宮の、美しく手入れの行き届いた中庭で、馬車は静かに停止した。

 玉蘭は馬車を降りる前に、一度自分の身なりを整えた。建寧を発つ時に董和に持たされた、一番上等で、しかし決して華美ではない、深い森の湖のような紺色の漢服。髪も自分で結い上げたが、乱れはないはずだ。

 これは戦いだ。彼女は自分に強く言い聞かせた。

 丞相に、そしてこの都にいる全ての人間たちに、自分が辺境でただ朽ち果てていた哀れな女ではないと、その魂の格の違いを見せつけてやるための戦いなのだ、と。

 磨き上げられた漆塗りの廊下を進み、丞相府へと続く巨大な扉の前にたどり着いた。護衛である姜維も、その後に続く。

 衛兵が重々しい音を立ててその扉を開いた。

 その先には、息を飲むほど広大な空間が広がっていた。壁一面に整然と並べられた無数の竹簡。その全てが、この国の歴史と法、そして偉大すぎた先代丞相の知性の結晶である。そして、その最も奥。一段高くなった上座に、一人の青年が静かに座っていた。

 若き丞相、諸葛瞻 思遠。

 父の形見である絹の羽扇を静かに揺らし、その涼やかな瞳は、あらゆる嘘と欺瞞を見透かすかのような、冷たい理性の光を宿していた。その若さに似合わぬ神仙の如き佇まいは、見る者に畏敬の念を抱かせる。

 玉蘭は上座の前まで進み出ると、完璧な作法で礼をとった。

「若き丞相閣下におかれましては、ご健勝のことと心よりお慶び申し上げます。召喚に応じ、建寧太守代行、劉玉蘭、ただいま参上いたしました」

 諸葛瞻は穏やかな笑みを浮かべていたが、その瞳の奥は全く笑っていない。彼は、この辺境から来た型破りな皇女が、本当に国益に資する「逸材」なのか、それともただの「危険因子」なのかを、冷徹に見極めようとしていた。

「面を上げよ、玉蘭様。長旅、ご苦労であった」

 彼は上座から優雅に降り立つと、彼女の周りをゆっくりと歩きながら、その査定を開始した。

「さて」と、諸葛瞻は切り出した。「そなたの報告書は、拝見した。石灰による土壌改良、赤珠果の栽培、民と共に汗を流すその姿勢。実に結構。実に結構だ。だが、正直に言えば、あまりに理想論が過ぎるのではないかな?」

 その言葉を皮切りに、彼は次々と剃刀のように鋭い質問を浴びせ始めた。

「石灰による土壌改良は、果たして持続可能な農法かな? 土中の他の養分を急激に消費させ、数年後にはさらに痩せた土地になる危険性を考慮したか?」

「赤珠果の栽培、結構なことだ。だが、単一作物への過度な依存は、ひとたび凶作や病が起これば、領地経済そのものを破綻させる。その危険分散リスクヘッジはどう考えている?」

「水路建設の莫大な予算はどう工面している? 皇女殿下の私財だけではいずれ底をつく。その後の計画は? 結局は、国庫に無心するつもりか?」

 その質問はどれもこれも核心を鋭く突く、厳しいものばかりだった。玉蘭が建寧で必死に考え、実行してきた改革。その一つ一つが、彼の圧倒的な知性の前で、いかに近視眼的で、未熟であったかを、容赦なく暴かれていく。

 玉蘭は、必死に食らいつこうとした。

「それは……長期的に見れば、国の税収となり……」

「長期的に、か。その『長期』の間に、民が飢えれば本末転倒ではないかな?」

「商人との交渉は、こちらが価値を独占している限り……」

「独占? 笑わせる。都の商人たちは、すぐにでも代用品を見つけ出すか、あるいは結託して君の産品を買い叩きに来るだろう。経済とは、そんなに甘いものではない」

 丞相府の隅でその異様な光景を見守っていた姜維は、内心で舌を巻いていた。これは、面接だ。いや、尋問に近い。相手を徹底的に追い詰め、その思考の限界と、圧迫された状況下での対応能力を見極めるための、諸葛瞻流の「査定」なのだ。

(玉蘭様……大丈夫だろうか……)

 姜維の眉間に、無意識のうちに深い皺が寄った。彼は、丞相のやり方に憤りを覚えていた。年下の若造が、自分が認めた女性の功績を、机上の空論で切り刻んでいく。今すぐ前に出て、彼女を庇ってやりたい衝動に駆られる。

 だが、同時に、彼は丞相の指摘が、悲しいほどに的確であることも理解していた。一人の将軍として、国全体の兵站と未来を考えるならば、彼の懸念はあまりにも正しかった。

(俺は……彼女の味方をすべきか。それとも、国を思う丞相の正しさを認めるべきか…)

 忠誠と私情。その二つの間で、彼の心は激しく引き裂かれていた。

 玉蘭は、ついに完全に沈黙した。彼女の顔から血の気が引き、その翠玉の瞳は、自信を失って頼りなく揺れていた。建寧で芽生えたばかりの、か弱い自信の芽は、この若き天才によって、根こそぎ摘み取られてしまったかのようだった。

 諸葛瞻は、彼女が完全に沈黙したのを見計らうと、初めてその涼やかな瞳に、明確な感情の色を浮かべた。それは、純粋な感嘆と、そして面白い玩具を見つけた子供のような、きらきらとした光だった。

「……はっ、ははは! はーっはっはっは!」

 突然、諸葛瞻は腹を抱えて声を上げて笑い出した。

「見事だ、玉蘭様! 実に実に見事だッ! 私のこの問いに、ここまで食らいついてきた者は、そなたが初めてだ! その瞳、まだ死んではおらんな!」

(見事だ。だが、それ以上に…腹立たしい。この輝きは、俺にはない。父の七光りと囁かれ、常に過去の亡霊と比べられる俺には。…ならば、手に入れるしかない。この光を、俺だけのものとして、この知略の庭に囲い込む。俺の力で磨き上げ、俺の功績として、父の亡霊を超えてみせる…!)

「気に入った」と諸葛瞻はきっぱりと言い放った。「そなたは、磨けば光るどころではない。まさしく、漢室の『宝』となる原石だ。だが、原石のままではただの石ころに過ぎません」

 彼は玉蘭の目の前まで歩み寄ると、その顎にそっと指を添え、顔を上げさせた。

「私の元へ来なさい。その未熟な理想を、私が現実のものへと変えてみせましょう。その荒削りな才能は、私のこの知略という研磨剤があってこそ、真の輝きを放つのですよ。さあ、どうしますか?」

 それは、救いの手ではなかった。彼女の才能、功績、そしてその存在そのものを、自らの支配下に置こうとする、絶対的な為政者の、甘く、そして抗いがたい支配の宣言だった。

 玉蘭は、目の前のこの美しくも恐ろしい若き丞相に、言い知れぬ恐怖を感じた。

 そして、隅でその一部始終を見ていた姜維は、玉蘭を見る諸葛瞻の瞳に宿る、熱を帯びた独占欲のような光に気づき、胸に冷たいものが走るのを感じていた。

(この男もまた、彼女を己の駒として手に入れようとしている……)

 新たな、そしてより強力で、厄介なライバルの出現を、彼は予感していた。都の戦いは、今、静かに、しかし確実に幕を開けたのだった。

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