第12話:氷の将軍と、炎の姫君
第12話:氷の将軍と、炎の姫君
建寧のささやかで、しかし心温まる収穫祭の翌朝。
玉蘭は、ずきずきと脈打つような重い頭痛と共に目を覚ました。昨夜、民たちに勧められるがままに陽気に飲んでしまったあの素朴な地酒が、思った以上に彼女の華奢な体にこたえたらしい。
身支度をなんとか整え、館の前に出ると、そこには既に都へ向かう一団の準備が完璧に整っていた。物資用の頑丈な馬車と、玉蘭が乗るための少しだけ上等な馬車。それらをまるで鉄の城壁のように取り囲むように整列した、姜維率いる黒鎧の兵団。
馬上で朝日を浴びる姜維の姿は、まるで鋼でできた彫像のようだった。その鉄仮面のような無表情からは、昨夜、彼女の笑顔に心を揺さぶられた男の面影は微塵も感じられない。
(この姫は、やはり都の人間だ。俺のような無骨な武人とは住む世界が違う。だが、それでも……あの笑顔を、俺は……)
馬上で玉蘭の乗る馬車を見守りながら、姜維は内心で激しく葛藤していた。芽生えてしまった恋慕の情と、決して交わることのない身分への諦め。そして、彼女がこれから向かう都の政争の渦に、彼女を巻き込んでしまうことへの、言いようのない罪悪感。彼は、この旅の間、自らの感情を完全に封じ込め、ただの「護衛」に徹することを、固く心に誓っていた。
民たちの温かい声援に送られ、玉蘭は馬車へと乗り込んだ。
姜維の低くよく通る号令と共に、一団はゆっくりと動き出した。
都への旅路は、建寧へ来た時とは比べ物にならないほど快適で、そして安全だった。姜維率いる北伐軍の精鋭は、噂に違わず驚くほど有能だった。野営地の設営、斥候による周囲の警戒、食料の調達、その全てが完璧に、そして静かに遂行されていく。
しかし、その完璧すぎる護衛は、玉蘭にとってある意味で非常に居心地の悪いものでもあった。なぜなら、護衛の総責任者であるあの忌々しい姜維が、ことあるごとに彼女の前に現れては、その氷のような態度で、いちいち神経を逆なでするからだ。
「皇女様、体調に問題はないか。顔色が優れんようだが」
休憩の度に、彼は馬車を訪れ、事務的な口調でそう尋ねる。
「……ええ、おかげさまで。何の不満もございませんわ」
(あなたのその鉄仮面を見るだけで気分が悪くなる、とは言えないじゃない……!)
「今夜は冷える。これを使え」
そう言って彼が無言で差し出すのは、上質な手触りの良い毛布だったり、湯気の立つ温かい薬湯だったりした。その細やかな気遣いは、彼のあまりにもぶっきらぼうな口調とは全く裏腹だった。
「……これはあくまで任務のためだ。貴女が風邪でも引かれては、護衛の任を果たせなくなる。勘違いするな」
彼は、必ずそう付け加えるのを忘れなかった。
(わかってるわよ! いちいち言われなくたって! この朴念仁! 石頭!)
玉蘭は心の中で思いつく限りの罵詈雑言を叫びながらも、差し出されたものをなぜか素直に受け取ってしまっている自分が、もどかしくて仕方がなかった。彼のその不器用な優しさが、かえって彼女の心を乱すのだった。
そんな奇妙な緊張感をはらんだ旅が始まって、三日目のことだった。
一団が昼なお暗い鬱蒼とした森の中の街道を進んでいた時、それは突然起こった。
「敵襲ッ! 前方に武装した一団! 数は……十数名!」
先頭を走っていた斥候の鋭く切迫した声が、森の中に響き渡った。
玉蘭が慌てて馬車の窓から身を乗り出すと、前方の道が異様な仮面をつけた男たちによって完全に塞がれていた。その統率された動き、そして装備の良さは、ただの野盗のものではない。
「全隊、戦闘態勢! 皇女様の馬車を死守せよ!」
姜維の雷鳴のような号令が飛んだ。兵士たちは即座に馬車の周りを囲むように完璧な円陣を組む。その動きには、一分の隙もない。
(この動き……南中の部族の戦い方に似ているが、どこか違う。まるで訓練された兵のようだ。まさか、都の政敵が差し向けた刺客か……!? 糜家か、あるいは黄皓か…!)
姜維の脳裏に、最悪の可能性がよぎった。都の政争の汚い手が、早くもここまで伸びてきたというのか。もしそうなら、この姫の存在は、自分が思っていた以上に危険なものなのかもしれない。
仮面の男たちが、雄叫びを上げて襲いかかってきた。
だが、その刃が兵士に届くよりも早く、一陣の黒い疾風がその間に割り込んだ。姜維だった。
彼はいつの間にか馬から飛び降りると、まるで重力を感じさせないほどの神速で槍を構え、賊徒の必殺の攻撃を、火花を散らしながら寸前で弾き返していた。
そこから先は、玉蘭にとって、まさに圧巻という言葉しか見つからない光景だった。彼の槍術は、もはや戦いというよりも、芸術的な舞踊の域に達していた。槍の穂先が閃くたびに、賊徒が一人、また一人と悲鳴を上げて地に倒れる。それは無駄な殺戮ではない。急所を的確に打ち、戦闘不能に陥らせる、完璧に制御された武だった。
美しい、と玉蘭は柄にもなく思った。あの無礼で傲慢で朴念仁な男が、槍を握った時、これほどまでに気高く、そして恐ろしいほどに美しく戦うとは。彼のその姿は、彼女が今まで見てきた宮中のどんな舞よりも、人の心を激しく揺さぶった。
不意に、兵士たちの鉄壁の陣形をすり抜けた一人の狡猾な賊が、玉蘭の乗る馬車に向かって一直線に突進してきた。
「姫様ッ!」同乗していた侍女の悲鳴が上がる。
玉蘭が恐怖に凍りついた、その刹那。
鋼のように強靭な腕が、玉蘭の華奢な体を力強く引き寄せ、馬車の外へとまるでお人形のように軽々と引きずり出した。
「きゃっ……!」
何が起こったのかわからぬまま、玉蘭は硬い硬い胸板に強く抱きとめられていた。鼻腔をくすぐるのは汗と鉄と、そしてなぜか不思議と安心するような男の匂い。顔を上げると、そこには姜維の真剣な美しい横顔があった。彼は、いつの間にか賊を倒し、彼女を守るために戻ってきていたのだ。
「……無事か」
戦闘は、あっという間に終わっていた。
玉蘭は、まだ姜維のその逞しい腕の中にいることに気づき、はっと我に返った。顔がカッと炎のように熱くなった。
「……は、離しなさいよっ!」
彼女は慌てて彼の胸を小さな手で突き飛ばし、距離を取った。
姜維はそんな彼女の精一杯の強がりを意に介した様子もなく、ただ黙って彼女の全身に異常がないかを確認するように、その黒い瞳を走らせた。
「……怪我はないようだな。……よかった」
最後にぽつりと呟かれたその言葉は、驚くほど穏やかで、心の底からの安堵の色が滲んでいた。
その声を聞いた瞬間、玉蘭のうるさい心臓がまたきゅっと甘く締め付けられるような感覚に襲われた。
(この男は、本気でわたくしを……)
だが、姜維はすぐさま鉄仮面を被り直した。
(いかん。これ以上深入りすれば、この姫を都の泥沼の政争に巻き込むことになる。俺の感情は、彼女にとって危険なだけだ。俺が守るためには、彼女を遠ざけねばならんのだ……)
彼は意図的に、冷たい言葉を口にした。
「……そなたのせいだ」
「……はぁ? 何を言っているの?」
「そなたのような足手まといがいると、こちらの迷惑だという自覚を持て。都に着いたら、二度とこのような危険な旅はするな」
その言葉は、彼女を突き放すようで、その実、彼女の身を案じる想いの裏返しだった。
「……っ! 最低! あなたなんて大嫌い!」
しかし、その真意が伝わるはずもなく、玉蘭は深く傷ついて馬車へと戻ってしまった。
残された姜維は、閉ざされた馬車の扉を、苦しげな表情で見つめていた。
(……すまない。こうするしか、そなたを守る方法を俺は知らんのだ……)
不器用な将軍の想いは、すれ違ったまま都へと向かう。
だが、二人の心の中には、もう無視できない、互いへの強い印象が、炎のように、あるいは氷の棘のように、深く深く突き刺さってしまっていた。この息の詰まる旅路は、まだ始まったばかりだった。