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第11話:収穫祭の灯火、二つの視線

第11話:収穫祭の灯火、二つの視線

 玉蘭の鶴の一声で、建寧に何十年ぶりかの収穫祭が開かれることになった。明日には遠い都へと旅立つ、敬愛する姫君の壮行会も兼ねているとあって、村の空気は特別な熱気を帯びていた。

 普段は静寂に包まれている太守の館の前庭が、その日だけは、人々の活気と笑い声で満ち溢れていた。男たちは慣れない手つきで大きな焚き火を組み、女たちはそれぞれ家で自慢の料理を持ち寄り、子供たちはこれから始まる宴に胸を躍らせて、きゃあきゃあと甲高い歓声を上げながら走り回っている。

 その光景の中心で、玉蘭は甲斐甲斐しく立ち働いていた。

 いつもの気品ある漢服ではなく、動きやすい木綿の作業着に身を包み、赤く燃えるような髪を無造作に後ろで束ねている。額にはうっすらと汗が浮かび、白い頬には醤を煮詰める際についたのであろう、愛らしい煤の跡がついていた。その姿は、都にいるどの貴婦人よりも生き生きとして、生命力に満ちた輝きを放っていた。


「姫様、本当にこのようなことをしてよろしいのでございますか……?」

 祭りの準備に奔走する玉蘭のその傍らで、書記官の董和が心配そうに問いかけた。

「収穫祭など、この建寧ではもう何十年も開かれておりません。食料に余裕などございませんでしたし、皆、日々の厳しい暮らしで精一杯でしたから……。このようなことをして、都からお咎めがあるやもしれませぬ」

 玉蘭は、出来立ての赤珠果の醤がなみなみと入った大きな壺を、よいしょとテーブルに運びながら、きっぱりと答えた。

「だから、やるのよ、董和。今までできなかったからこそ、やる意味があるの」

 彼女は一度手を止め、集まってきた民たちを、慈しむような眼差しで見渡した。畑仕事で逞しく日焼けした男たちの顔。赤珠果の仕込みで指先を赤く染めた女たちの笑顔。そして、無邪気に走り回る幼い子供たち。

「収穫を祝い、日々の労働を労い、そして明日への活力を得る。祭りには、そういうとても大切な役割があるのよ。いいこと? わたくしたち、ただ生き延びるためだけに働いているんじゃないの。豊かに、そして笑って生きていくために働いているんだから。忘れちゃだめよ」

 その言葉は、董和だけでなく、周りで聞いていた民たちの胸にも深く深く響いた。姫様は、我々の暮らしを、そして心を、見ていてくださる。その確信が、彼らの間に温かい連帯感を生んでいく。

 玉蘭はふいと顔を背け、少し照れたように付け加えた。

「ま、まあ! これはわたくしが都に行く前の、ただの壮行会みたいなものよ! あなたたちがわたくしの留守中に怠けないように、釘を刺しておくだけなんだからねっ!」

 そのあまりにも彼女らしいツンとした物言いに、民たちからくすくすと温かい笑いが漏れた。彼らはもう、この若き美しき女主人の、素直じゃないその優しさをよく理解していたのだ。


 陽が西の山々の稜線にゆっくりと落ち、空が深い深い藍色から、やがて星々のきらめく漆黒へと姿を変える頃、収穫祭は始まった。

 中央に組まれた焚き火がぱちぱちと心地よい音を立てて燃え上がり、周囲を柔らかなオレンジ色の光で照らし出す。テーブルの上には決して豪華ではないが、心のこもった素朴な料理がずらりと並んだ。少し硬い黒パン、塩茹でしただけの芋、そして今日の主役である赤珠果をふんだんに使った料理の数々。

「うめえ!」「最高だ!」「姫様、万歳!」「赤珠果、万歳!」

 あちこちで歓声が上がる。人々は普段はめったに口にできないご馳走と、粗末だが味わい深い地酒に酔いしれ、肩を組んで大声で故郷の歌を歌い、覚束ない足取りで踊った。子供たちは焚き火の周りを甲高い歓声を上げて走り回り、その愛らしい頬は醤と興奮で真っ赤に染まっていた。

 それは、この建寧郡が本当に何十年ぶりに取り戻した、「祭り」の温かい光景だった。


 玉蘭は、そんな賑わいの輪から少しだけ離れた、館の石の階段にちょこんと腰掛けて、一人静かにその光景を眺めていた。手には、地酒がなみなみと注がれた素焼きの杯がある。

 民たちの、心からの笑顔。その一つ一つが、彼女の少しささくれ立っていた胸に、温かい柔らかな光を灯していく。都の、虚飾と腹の探り合いに満ちた宴とは違う、本物の温もりがここにはあった。

(ここが……ここが、わたくしの居場所なのね……。わたくしが、守りたかったものは、これだったのね…)

 彼女は無意識のうちに、その形の良い唇に柔らかな、本当に柔らかな笑みを浮かべていた。心の内から自然に込み上げてくる、穏やかで満ち足りた本物の笑顔だった。


 ***


 その光景を、二つの異なる場所から、二人の男が見つめていた。

 一人は、姜維。

 彼は、祭りの喧騒から少し離れた暗い館の回廊に、腕を組んで佇んでいた。部下たちは彼の許しを得て、祭りの輪に加わり、建寧の民と酒を酌み交わしている。

 彼の視線は、輪の中心から少し離れた場所に座る、一人の女性の姿に釘付けになっていた。

 劉玉蘭。

 焚き火の光に照らし出されたその横顔は、姜維が今まで見たどんな高価な宝石よりも美しく、そして気高く輝いて見えた。風が彼女の赤い髪をそっと揺らすたび、まるで炎の精が舞い降りたかのような、幻想的な光景が生まれる。そして、何よりも姜維の心を鷲掴みにしたのは、彼女のその表情だった。

 彼が知る彼女はいつも美しい眉間に皺を寄せ、怒っているか、ふてくされているか、そのいずれかだった。だが、今彼の目に映る彼女は、全く違った。

 その唇には穏やかで慈しみに満ちた笑みが浮かんでいる。民たちのその素朴な笑顔を、まるで自分の喜びであるかのように、どこまでも優しい目で見つめている。

(あれが……あの姫の、本当の姿なのか……)

 ドクン、と。姜維の心臓が大きく、そして不規則に跳ねた。

(今までは、彼女の『才覚』や『理想』に、亡き丞相の影を見ていた。だが、違う。今、俺が見ているのは、ただ、民の幸せを心から喜び、笑う、一人の…か弱い、しかし何よりも美しい女の姿だ。ああ、そうか。俺は…亡き丞相の理想ではなく、この女の、この笑顔を守りたいのだ…)

 彼はその時、はっきりと自覚した。この感情は、もはや忠義や尊敬などという言葉では説明がつかない。一人の男が、一人の女に抱く、どうしようもなく深い恋慕の情なのだと。

(民と共に笑い、民の幸福を自らの幸福とする。これこそ、亡き丞相が目指し、俺が命を懸けて守ろうとしている「漢室の光」そのものではないか……)

 国への忠誠心と、彼女への尊敬の念が、彼の胸で熱く燃え上がった。だが、それだけではなかった。その気高い横顔、風に揺れる赤い髪、そして、ふとした瞬間に見せる無防備な笑顔。その全てが、彼の心をどうしようもなく掻き乱す。

(……守りたい。この光景を。そして、この女の笑顔を、俺が……)

 彼はその時、はっきりと自覚した。この感情は、もはや忠義や尊敬などという言葉では説明がつかない。一人の男が、一人の女に抱く、どうしようもなく深い恋慕の情なのだと。


 ***


 もう一人は、遠く都にいる諸葛瞻。

 彼の執務室の机の上には、建寧に潜ませた密偵からの、詳細な報告書が置かれていた。そこには、玉蘭が収穫祭を開くに至った経緯と、その目的が冷静な筆致で分析されている。

『――劉玉蘭、都への出発前夜、収穫祭を挙行。目的は、自らが不在の間の民心の結束と、士気の高揚にあると推察。また、祭りの席で、自らが開発した“赤珠果”の新たな調理法を披露し、その商品価値を民に再認識させる狙いも窺える。極めて計算された、人心掌握術と見るべき』

 諸葛瞻は、その報告書を読みながら、薄い唇に冷ややかな笑みを浮かべた。

「……面白い。実に面白い姫だ。ただの慈悲や感傷ではない。祭りでさえも、自らの戦略の一環として利用するか。その冷徹なまでの合理性、ますます気に入った」

 彼は、窓の外に広がる都の夜景を見つめた。きらびやかな灯りは、まるで宝石箱をひっくり返したかのようだ。だが、その光の下で、どれほどの欲望と裏切りが渦巻いていることか。

「早く会いたいものだ、皇女。そなたという最高の『駒』が、私のこの盤上で、どれほどの舞を見せてくれるのか。楽しみでならんよ」

 彼の瞳には、彼女の才能を独占し、自らの知略の庭で育て上げたいという、純粋で、しかしそれ故に恐ろしい、支配者の欲望が燃えていた。


 建寧の温かい灯火。

 それは、一人の男の心を恋慕で焦がし、もう一人の男の心を冷徹な独占欲で燃え上がらせていた。

 三人の運命が、この夜を境に、否応なく一つの場所へと収束していく。

 玉蘭はまだ、自分が二人の英雄の、あまりに巨大で、そしてあまりに対照的な想いの中心にいることを、知る由もなかった。


 そして、祭りの翌朝を迎えた。

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