第10話:丞相の召喚
第10話:丞相の召喚
建寧の空は、都のそれとは比べ物にならないほど、青く、そしてどこまでも高かった。
南中の湿り気を含んだ風が、緩やかな丘陵を駆け抜け、二度目の収穫期を迎えた赤珠果の葉を優しく揺らしていく。葉擦れの音は、まるで穏やかな絹の衣擦れのようだ。陽光を浴びて珠玉のようにきらめく赤い果実は、この土地が死の淵から蘇ったことの何よりの証左だった。
そんな穏やかな午後の日差しが差し込む太守の館の一室で、劉玉蘭は、窓辺の簡素な木椅子に腰かけ、その光景を静かに眺めていた。都の、香と権謀術数が入り混じった息の詰まる空気とは違う、土と草いきれの匂いが、彼女の心を安らかに満たしてくれる。ここが、自分の居場所なのだと、彼女は日々実感していた。
そんな平穏を打ち砕いたのは、都から届けられた一通の書状だった。
馬を乗り継いで駆け付けた使者が恭しく差し出したその羊皮紙には、蜀漢丞相府の、荘厳で冷たい印が押されている。
若き丞相・諸葛瞻からの、突然の召喚命令だった。
「都へ…わたくしが?」
その文字を目にした瞬間、玉蘭の全身からすっと血の気が引いていくのがわかった。彼女の美しい翠玉の瞳が見開かれ、その形の良い唇が微かに震える。あの忌まわしい都の記憶が、蓋をしていたはずの心の箱から、奔流となって溢れ出した。
元婚約者・糜照の、自分を「駒」と断じた嘲笑。宦官・黄皓の、蛇のようにねっとりとした視線。そして、自らの命を刈り取ろうとした刺客たちの、闇にきらめく刃。
身を守るために、全てを捨てて逃れてきたこの聖域から、再びあの虎の穴に戻れというのか。
「……冗談では、ないわ……!」
彼女は、上質な羊皮紙を握りつぶさんばかりに、その細く白い指に力を込めた。爪が食い込み、掌にかすかな痛みが走る。その痛みが、かろうじて彼女をこの場に繋ぎとめていた。
「姫様! これは、またとない好機にございますぞ!」
そんな彼女の内心の嵐を知る由もなく、報告を聞いて駆けつけた書記官の董和が、顔を紅潮させて言った。その老いた瞳は、純粋な喜びと期待に輝いている。
「姫様のこれまでのご尽力が、ついに天子様や丞相閣下のお耳にまで届いたのです! しかも、丞相閣下自らのご召喚とあらば、これは姫君が閣下の庇護下にあるという、都の者たちへの何よりの宣言となります! 加えて、視察に来られている姜維将軍が護衛につかれると聞きました。もはや、糜家や黄皓派の者どもも、以前のように軽々しくは手出しできますまい!」
董和のその純粋な言葉が、恐怖に凍てついていた玉蘭の思考を、はっと現実に引き戻した。
そうだ、状況は、あの頃とは全く違う。
守られるだけの、か弱い皇女として都を追われたのではない。
今のわたくしは、この建寧という土地を、民と共にその手で蘇らせたという、揺るぎない実績と誇りを持っている。そして、「赤珠果」という、この土地が生み出した経済的な武器を手にしている。
(そうよ…これは逃げ帰るのではない。わたくし自身の足で、戦いに赴くのよ)
玉蘭の心の中で、一つの決意が形を成した。恐怖が消えたわけではない。だが、その恐怖を、燃えるような烈しい闘志で塗りつぶすことはできる。彼女はすっくと立ち上がると、その背筋を凛と伸ばした。その姿は、もはや怯える小鹿ではなく、自らの領地を守る女王の気高さに満ちていた。
「ええ、そうね、董和。これは、好機だわ」
***
一方、その頃。漢中での本務を離れ、南中の兵站視察という名目で建寧に滞在していた姜維の元にも、同じく丞相からの指令が下っていた。
彼は、太守の館の城壁の上から、夕暮れに染まる建寧の畑を、腕を組んで見下ろしていた。北の最前線で命を削る日々の中では、決して見ることのできない穏やかな光景。民が笑い、子供たちが走り回る。あの赤髪の姫君が、泥にまみれながらも守ろうとしたものは、これだったのだ。
その平穏を、自らの手で危険に晒さねばならない。
「…私が、姫様の護衛?」
届けられた指令書を読み、姜維は眉間に深い皺を寄せた。丞相の狙いは明らかだった。視察でちょうどこの地にいる俺を、都合よく護衛の任に就かせようという魂胆だ。
(あの姫を、再びあの政争の渦巻く魔窟へ、この手で連れ戻せというのか…)
それは、彼女を守るどころか、自ら危険の真っ只中に押しやることに他ならない。丞相の真意はどこにあるのか。また、この姫を政争の駒として利用するつもりなのか。彼の胸に、都の権力者への根深い不信が黒い渦となって渦巻いた。しかし、これは命令だ。衛将軍として、私情でこれを拒否することは許されない。彼は、己の無力さに唇を噛みしめ、このあまりに気重な任務を承諾するしかなかった。
***
都への出発を数日後に控え、玉蘭は来るべき戦いのための準備を着々と、そして秘密裏に進めていた。
館の厨房は、連日、甘酸っぱく芳醇な香りに満たされていた。玉蘭は、収穫されたばかりの赤珠果を使い、新たな加工品の試作に没頭していた。彼女が目指すのは、ただの保存食ではない。都の貴人たちの舌を唸らせ、心を奪うほどの、至高の逸品。都の権力に頼らず、この土地が自立するための、経済という武器を磨き上げるために。
「おおっ! この醤はすげえぞ! ただ焼いただけの硬い干し肉にかけるだけで、いつもの何倍も美味くなるじゃねえか!」
孟安をはじめ、畑仕事の休憩に戻ってきた男たちが、試食の輪に加わり、口々に感嘆の声を上げる。彼らのその子供のような喜びように、玉蘭も自然と頬が緩んだ。
そして、夜。
賑やかな厨房から離れ、玉蘭は自室の蝋燭の灯りの下で、密かに筆を取っていた。宛先は、都に残してきた忠実な老宦官、趙忠。
流麗な、しかしその一画一画に強い意志がこもった文字が、上質な紙の上を滑っていく。
『――趙忠、息災かしら。そなたに頼みがある。そなたの古い人脈を頼って、都と南を行き来する、信頼の置ける行商人を一人、手配してちょうだい。口が堅く、そして商才のある男がいいわ。その者に、わたくしの親書を渡し、すぐに建寧へ向かうように伝えて』
筆を置いた玉蘭の翠玉の瞳が、揺れる炎を映し、悪戯っぽく、しかし鋭い戦略家の光を宿してきらめいた。
「丞相閣下という巨大な龍と渡り合う前に、わたくし自身の『手札』を、一枚でも多く持っておきたいじゃない? 力で劣る者が勝つためには、情報と経済、その二つを制するしかない。これは、丞相の父、諸葛亮 孔明が遺してくれた書物と、この建寧の土が、わたくしに教えてくれたことよ」
数日後、趙忠が手配した、人の良さそうな顔の裏に抜け目のない光を宿した壮年の行商人が、息を切らせて建寧に到着した。彼は、玉蘭から試食させてもらった赤珠果の醤の、その衝撃的な味に、商人としての魂を揺さぶられた。
「こ、これは……なんという逸品でございましょう! 都の舌の肥えた旦那様方なら、きっと大枚をはたいてでも欲しがるはず! この味は、ただの調味料ではございません。料理そのものを、いや、宴の席そのものを変えてしまう力がございます!」
「…いいでしょう」玉蘭は満足げに頷いた。「ただし、これはまだ試作品よ。だから代金はいらないわ。その代わり、あなたに二つの仕事を頼みたいの」
「と、申しますと?」
「一つは、この醤を、都で最も影響力のある食通や、噂好きの貴婦人たちに、さりげなく届けること。もう一つは、都での評判を詳しく詳しく、丞相閣下にお会いするわたくしに報告すること。それが、あなたへの報酬よ」
それは、人の口から口へと評判を広める、古くからある、しかし極めて巧妙な情報戦略の始まりだった。行商人は、この若き姫君の、ただの可憐な貴人ではない、底知れない才覚に畏敬の念を抱きながら、深々と頭を下げた。彼のみすぼらしい荷馬車に積まれた、いくつかの醤と蜜煮が入ったその小さな木箱が、この貧しい辺境の地に、大きな大きな変革の風を呼び込むことになるとは、この時のまだ誰も知る由もなかった。
そして、出発の前夜。
玉蘭は、都の権力者たちに屈しないという自らの覚悟を示すため、そして、留守を預かる民たちの心を一つにするために、一つの決断を下した。
「董和! 孟安! みんなを集めて! 今夜、収穫祭を開きます!」
彼女の声は、これから始まる長い戦いの、決意の狼煙だった。