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第1話:偽りの愛

第1話:偽りの愛

 降り注ぐ灯籠の光が、鏡のように磨き上げられた漆塗りの床に砕け散り、無数の星屑を映していた。軽やかな古琴の旋律が、貴婦人たちの衣擦れの音や、官吏たちの腹の中を探り合うような虚ろな談笑と溶け合い、むせ返るような香と酒の匂いを満たしている。蜀漢の都・成都、その宮殿で開かれた宴は、度重なる北伐の戦費で疲弊しきった国庫の惨状が嘘であるかのような、虚飾の絢爛さに満ちていた。

 その光と喧騒の渦の中心で、一人の姫が、まるで氷の彫像のように静かに佇んでいた。

 りゅう 玉蘭ぎょくらん

 父である皇帝・劉禅の娘。だが、彼女の価値は、それだけではなかった。

 彼女の髪は、蜀の地では稀有な、燃える炎を思わせる赤みを帯びていた。それは、漢王室の血脈に、建国の祖・劉備が娶ったという古の神の巫女の血が、数代ぶりに色濃く発現した証と、宮中では密かに囁かれていた。彼女は、法的な継承権を持つ皇子たちとは別に、民衆や、いまだ漢に心服せぬ南中の少数民族たちから、ある種の神聖なカリスマとして畏敬の念を集める、神託の子。その存在そのものが、傾きかけた王朝の最後の「正統性」を担保する、極めて危険で、そして重要な切り札だった。

 その神聖な髪は、今宵、勝ち気な彼女の性格を映すかのように、複雑かつ大胆な髷に結い上げられている。幾重にも重ねられた衣は、夜空の最も深い紺色を絹の光沢で表現し、その白い首元には、婚約者である糜照び しょうから贈られた大粒の南海真珠が、彼女の冷え切った心を見透かすかのように、冷たい輝きを放っていた。

 完璧に整えられた淑女の微笑みの裏で、玉蘭は落ち着きなく婚約者の姿を探していた。

(この婚儀が持つ意味を、あの男は本当に理解しているのかしら)

 この婚約は、父帝が下した苦渋の決断だった。莫大な富を背景に、宦官・黄皓と結託し、国政を壟断しかねない勢いを見せる糜照。彼に、この「神の血」を宿す玉蘭を嫁がせること。それは、糜照に蜀漢一の権威を与える危険な賭けであると同時に、彼を皇室という枠の中に縛り付け、その力を内側から制御しようとする、父の最後の策だった。

 その時、官吏たちの囁き声が、残酷に彼女の耳へと届いた。

「……糜照様、またもや張家の姫君とご一緒に、庭園の方へ……」

「何を言っておる。あれは力を見せつけているのだよ。神の血を引く姫君を娶るほどの俺が、別の女を侍らせても誰も文句は言えまい、と。あの赤髪の姫君は、糜家と黄皓様にとっては、権力を完全に掌握するための『お飾りの玉座』でしかないのだからな」

 張姫。そして、お飾りの玉座。

 その言葉を聞いた瞬間、玉蘭の心臓が、氷の爪で抉られた。

(やはり、そうか。あの男が見ているのは、わたくしではなく、わたくしに流れる『神の血』だけ…)

 彼女は、気づかないふりをしていた。国の未来のためだと。だが、その自己欺瞞は、もはや限界だった。

 彼女は、誰にも気づかれぬよう、そっと庭園へと続く回廊へと向かった。月見台の前で、彼女は決定的な言葉を耳にする。

「玉蘭か。ああ、あれはただの駒だ。あの神聖ぶった血筋は利用価値がある。だが、それだけだ。第一、あんな鉄の仮面を被ったような可愛げのない女、抱く気にもなれん」

 世界から、音が消えた。

 怒りよりも先に、どうしようもないほどの屈辱が、彼女の全身を支配した。

 だが、劉玉蘭は、ここで泣き崩れる女ではない。彼女は、凍てついた心を、漢の皇族として、そして神の血を引く者としての最後のプライドで塗り固めた。

 月光の舞台へとその身を投じた彼女は、集まった全ての者たちの前で、凛とした声を響かせた。

「糜照様! この場をお借りしまして、貴方様との婚約を、正式に破棄させていただきますわ!」

 宣言と共に、玉蘭は翡翠の玉佩を糜照に投げつけた。

 それは、一人の女の愛への決別であると同時に、蜀漢の宮廷を二分する、内乱の火蓋が切って落とされた瞬間でもあった。

 嘲笑、同情、憐憫、そして、これから始まる政争を前にした興奮と恐怖。あらゆる感情が渦巻く視線の中を、彼女は決して振り返らず、自室へと去っていく。

 重い扉を閉ざした背後で、彼女は崩れ落ち、慟哭した。悔しい。悲しい。そして何より、そんな男に自らの神聖な血の価値を委ねようとしていた自分が、愚かで惨めで、許せなかった。

 鏡の中の泣き腫らした自分を睨みつけ、彼女は誓った。

「こんな政治的な贄なんて、真っ平よ! これからは、わたくしのためだけに生きてやるわ! わたくし自身の力だけで……!」

 偽りの愛が死んだ夜、一人の女が自らの血の宿命と向き合い、本当の自分として生きることを誓った、始まりの瞬間だった。

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