第一章:灰の中の目覚め
長崎市坂本町。
南に浦上川を望み、丘の斜面に建てられた木造の家が並ぶ一角。
そこが、田島初音の住まいだった。
川沿いには時折、釣りをする男たちの姿があり、子どもたちはその背中を見ながら川辺で泥団子を作って遊んだ。
市電が走る音が谷間にこだまし、遠くには大浦天主堂の尖塔がのぞく。
夏の空は高く、入道雲がもくもくと空を押し上げていた。
その日、昭和二十年八月九日、午前十一時過ぎ。
初音はいつも通り、母と一緒に昼の支度を手伝っていた。
「初音、うちわで炊き立てのごはん、少し冷ましておいてくれる?」
「うん、わかった!」
七歳の少女の手に、竹で編まれたうちわが握られていた。
お櫃から立ち上る湯気は、夏の暑さに混じって、かすかな甘い匂いを含んでいた。
母の背中は細く、少し疲れたように見えたが、振り返った笑顔はどこまでも穏やかだった。
縁側には小さな風鈴が吊るされていて、風が通るたびに小さく鳴っていた。
『ちりん……ちりん……』
近所の子供の笑い声が遠くで聞こえる。
誰かがラジオをつけていた。
『本日も晴天なり……』
それは、いつもと変わらない、けれどもどこか薄い紙のように儚い日常だった。
次の瞬間、それは音もなく破られた。
閃光。
思考よりも早く、光が視界を埋め尽くした。
その直後、爆風が谷を駆け下り、家々を吹き飛ばしていく。
耳をつんざくような轟音とともに、初音の身体は宙に浮いた。
次に気づいた時、彼女は潰れた家屋の柱の影に倒れていた。
頭の中が真っ白で、目だけがぐるぐると世界を追いかけていた。
「……おかあさん……?」
かすれた声が、炎に包まれた静寂の中に溶けた。
初音がいた坂本町は、爆心地からわずか700メートル。
長崎医科大学附属病院が近くにあり、多くの医師や看護師が働いていたその一帯は、数秒で壊滅した。
いつも渡っていた橋は崩れ、学校のあったはずの方向からは黒煙が立ち上っていた。
鳥が飛ばず、風が動かない。
世界が壊れた音を、耳の奥に焼き付けたまま、初音はゆっくりと身を起こした。
彼女の夏は、そこから始まる。
平和な音の記憶と、失われた声とともに。
そして、焼けた街の向こうで、初音はひとりの少年と出会うことになる。
その出会いが、彼女の「未来」を変えることになるとは、まだ知らなかった。