海陵王と楊伯雄(下)
今回は『金史』巻八十二 列伝二十の海陵諸子伝と巻百五 列伝四十三の楊伯雄伝を見ていきます。まずは海陵諸子伝から。
皇子の慎思阿不が亡くなった直後、楊伯雄は宮中で宿直し、同じく宿直していた者とこう話し合った。
「宿王が死んだのは宮中ではなく宮殿の外で育てたからだろう。世話役がどれほど気を配ったところで、父母の側近くで育てるのには及ばない。我が国の慣習を尊ぶべきであった。」
ある者がこのことを海陵王に話すと、海陵王は激怒して楊伯雄に言った。
「汝は臣下であり、主君の行いより慣習を重んじるとは何事か。宮中の事は汝の口出しすることでは無い。朕は近頃体調が優れず、たびたび政務を休んで数人にしか会っていないが、政務は全て私室で決裁している。死刑を直ちに決定できないが、囚人の死が遅れるだけであろう。任官が多少遅れたところで何の問題があろうか。
朕は余暇にはたびたび教坊の音楽を聴き楽しんでいる。『書経』に「内には色事に耽り、外には狩猟に耽り、酒を飲んで音曲に耽り、外部と隔絶する。これだけで国は滅ぶ。」とあるが、これは君主がそれらに耽り国事を顧みないことを戒めたものである。私は外に聞こえるほど音楽を演奏させているが、宰相が勝手な人事をしたり下吏が賄賂を受け取ることは決して許さない。
外部には密かに話し合う者がいるだろうが、汝は諫官なのだから、言うべきことは公然と言うべきである。言われて従わないのであれば、それは朕に非がある。それを密かに話し合うとは何事か。」
楊伯雄が答えた。
「陛下は最高の徳を持った方であり、それを陰で批判するつもりはありません。愚かな臣の失言は万死に値します。陛下には憐れみをかけられますように。」
海陵王は「本来なら汝を殺すところであるが、今はただ杖刑二百に処そう。」と言い、杖刑が四十回に至ったところで近臣を遣わしてこう伝えた。
「汝は即位前からの旧知の者である。今は特別に赦そう。」
ここまでは『金史』巻八十二 列伝二十の海陵諸子伝からです。
息子が死んで悲しい時に、信用していた楊伯雄が陰で非難していたため殊更に腹が立ったのでしょう。
余暇に気晴らしで音楽を聴いていたことが、後世で逸楽に耽ったとの非難になりますが、死刑の決定などは熟議しており、体調が悪いなりにも真面目に政務に取り組もうとしていたようです。
以後、楊伯雄とは疎遠になり、『金史』巻百五 列伝四十三の楊伯雄伝には続きとしてこうあります。
海陵王が宋遠征を諮ると、楊伯雄は「晋の武帝は呉を平定する際、全てを将帥に任せました。陛下がわざわざ総指揮をする必要はありません。」と反対したが容れられず、起居注に降格となって、以後再び海陵王に拝謁することは無かった。
海陵王が滅びて世宗が即位すると、その直言と有能さを気に入られて昇進を重ね、海陵王の没後十二年目に六十五歳で亡くなります。