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適当に書てみる創作意欲が出たので

作者: 今橋 卓杜

適当に書いてみる創作意欲が出たので

僕は散歩するとき最も勉強しているときといってよい。


机に座って紙とペンで書いているときでもなく、歩いているとき。


それは、まさに歩くという行為が思考を巡らせるのに最も適しているからだといってもよい。


それでは歩くとは何か。


歩くとはただ単に足を前後ろと交互に出す。走ることととの違いはそれに容量を割かなくてよいということだ。


緩やかにそして容量を少なく適度な量でしかも絶妙に止まっているわけではない。


その中途半端な感覚こそ考える隙を与え、そしてそのすきと余裕が止まっているときとは違うほど良い血流の流れによって脳を回転させるのだ。


ゆえに私は歩くとき最も哲学していると考えている。


そして周りの環境がゆっくりとまた適度に変化していくこともまたインスピレーションを与えるきっかけとなるだろう。


我々の能力のキャパというのは決まっているものである。


その容量を何所に割くかどれくらいの割合で使うかというものが私たちの生活面で大きな影響を与える。


自分の容量というのは100パーセント割くということはあり得ない。


そしてそれはいけないことだ。


ある程度余裕を持たせておかないと思考の幅やインスピレーションまたあらゆる刺激を受け取ることができなくなってしまう。


その思考の余裕に私たちが無意識で行っている考えるという活動があるのだ。


つまり私たちの意識できる意識というものを開集合とするとその補集合である私たちの意識できていない意識というしかし、また私に帰属している意識によって考えられているのだ。


それが私たちの無意識と呼ばれる領域でありそれもまた自分に帰属しているのだ。


その意識できる意識の部分に目を向けることこそまさに哲学の領域なのである。


開集合の補集合は閉集合だがその境界というものは刻刻と変化していて意識と無意識の境界は常に揺れている。


その無意識について思うことを書いてみる。


私はその無意識は有限であると考える。


その根拠は私が定義した容量というものが初めから決まっているということによる。


これは私の経験則からくるものだが経験則もまた根拠うとしてなりえる。


無意識を哲学するというのは意識が及ばないことが前提にあるためそれは不可能であると思われる。


ゆえに私は無意識を考えない。それこそまた哲学である。


つまりもっとも言いたいことというのは、歩くということが創造的な活動や考えるという活動において最もそのバランスというものを整えてくれるだろうということだ。


最後は少し手荒くなってしまったが何か創作活動がしたくなりとりあえずパソコンに向かってみた。


25歳の初学者の考えである。


2023/12/25 夕方




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