目前視
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
はーい、じゃあみんな、呼吸については理解できたかな?
我々人間が呼吸の際、吐き出しているものは何か? そう二酸化炭素だね。
植物が呼吸の際、吐き出しているものは何か? そう酸素だね。
人間は酸素を取り入れ、植物は二酸化炭素を取り入れようとしている。もろもろの細かい点をのぞけば、人間と植物は互いに利を持つ関係といえよう。
とはいえ、これらのやり取りは肉眼ではあまりよく分からない世界の話。
見えづらい世界は、我々にとって認識や理解が進みづらいものであって、事態がどのように進んでいるか把握が難しい。
逆に見える世界であるなら、判明が簡単なぶん、やばいことが起きている証拠かもなあ。
存在感の薄かったはずのものが濃くなっている。こいつが異変でなくて、なんと呼ぶ?
先生の昔の話なんだが、聞いてみないかい?
先生もみんなくらいのとき、植物が呼吸をしていると知って、意外に思ったんだよ。
気孔なんかを顕微鏡で見たけれど、「こいつ、本当に仕事をしてんのか?」と疑問に思ってしまうほど。
当時はこうして理科の先生やるとか、みじんも頭になくってね。肉眼への信頼度がめちゃくちゃ高かった。
自分の眼でじかに見えないことは、何もかもフェイクの可能性を帯びている。
編集作業の存在を知ったばかりの当時の先生は、大きなショックを受けていてね。何かを通して見るあらゆる情報を疑ってかかるようになっていたんだ。
思い込んだら極端になっていくのも、この年頃の特徴で、顕微鏡でのぞいた景色だって怪しいこと、怪しいこと。
そもそも、本当に自分たち人間が二酸化炭素を吐き出しているのかさえ、疑ってかかっていた。
ゆえに、実際に息するような植物を目にしたら、そいつへ興味を持ってしまうのは自然なことだったかもしれない。
近所にあるお寺の夏祭りの帰り道で、そいつがはじめに刺激してきたのは嗅覚だ。
タバコに似た臭い。
先生の家だと、家族は誰も喫煙はしない。けれども、年に何度か親戚で集まるとき、ヘビースモーカーのおじさんが来るから、副流煙そのものはたびたび味わっている。
そのおじさんが吸う銘柄の香りと、よく似ている気がしたんだ。
つい鼻で嗅ぐまま、ふらふらと足を向けた俺は、寺から田んぼを挟んで向かい側。
分離帯も路側帯もなく、用水路のフタとアスファルトが広がる細道へ来ていた。そのフタの金網となっている部分の一角。すすきに似た背格好の緑色の草たちから、強く強く臭いを感じることが分かった。
5本ほど連れ立つ彼らは、かすかな風に吹かれて、舟をこぐようにうつむいたり、背筋を伸ばし直したりするような動きを繰り返す。
そのうつむくタイミングで、穂先から白い煙らしきものが、ほんのり吐き出されるんだ。
あたりを包む夜の暗さの中、その色ははっきりと先生の目に映った。先生にとっては、揺るぎない真実に感じられたわけだ。
植物も呼吸をする。その事実、認めざるを得ないだろう。
しかし、ここから見える他の草たちは、同じような状態に陥っていない。ただこのすすきもどきだけが、この現象を見せている。
――この草のみの特徴? あるいは病気か何かにかかっているとか?
珍しいもの、関心をひくものに出会うと、つい観察してしまう癖はこのころからだったな。
しゃがみ込んで、そのすすきもどきの仕草になお目を凝らす。タバコに似た臭いは、吐息の数がかさむにしたがって、どんどん弱まっている気がした。
タバコだって、吸って吐いていればいずれ終わりがやってくる。この草たちも同じで、吐くことの限界へ近づいてきたか?
が、よく見ると自然に薄まるべきだろう煙が、先生から見て左手から右手へと流れていくようになり始めている。
風の向きに逆らうその動きは、何かに吸い込まれているかのような……。
先生は、ついとそちらへ顔を向けた。
「黒」がうずくまっていた。
先生の視界の先、ほんの一メートルほどのアスファルトの上に、夜の闇よりなお暗い、黒色をした人影ほどの大きさの、何かがいたんだ。
なぜ分かったかというと、先ほどまで見えていた道路の反対側に立つ小さなアパート群。
それが黒色の影の大きさの部分だけ、完全に隠されてしまっているからだ。
大きさこそ人ほどだが、縦にしたラグビーボールのごとき形をした影は、ほどなくゆるゆると先生のいる方へ近づいてきた。
近かったとはいえ、さほど速くないのが幸いした。
何歩か下がり、余裕を持ってかわす先生の前で、その影ははっきりとすすきもどきが吐き出す煙を、そのうちへ吸い込んでいったんだよ。
影は先生の目前、金網の上をかすめるように動いていく。地面と半紙一枚ほどのわずかな間を開け、滑っていく影はまもなくすすきもどきへ完全に重なった。
通り過ぎたときには、すすきもどきは根っこから姿を消していたんだ。
それだけにとどまらない。夜闇に浮かび続ける黒は、用水路の端から田んぼの一角へ降り立ち、なおも全身を続けていく。
まだ緑色をたたえる苗たち。その一列へ完全に重なるようにして。
影の通るところ、そこは初めから何も植わっていなかったかのごとく、湿った土をさらしていくのみだ。
目にしたことなら、過度に信頼する先生はもうその場から逃げるのを優先したね。帰り際に何度も振り返って、あの黒が追いかけて来やしないかと、気が気でなかったよ。
あれももしかしたら、神隠しの原因の一端かもしれない。あんな気配の何もないもの相手じゃ気づく間もなく巻き込まれるだろう。
以来、昼夜を問わず暗いところは警戒している先生だが、幸か不幸かあいつは目にしていない。
あのすすきもどきの煙を吸ったがために見えていたのだとしたら、すすきもどきはまたいずこかで生え、知らぬ間にあいつをいざない、消えていくのかもしれない。