雇い主の我がまま? 応えます。6
リビングダイニングの扉を菊子はそっと開けた。
ダイニングスペースに車椅子に座る雨の姿が見えた。
雨は小説のページを捲っている。
その顔は真剣で、小説のシーンは今、どんな場面何だろうと菊子は想像した。
こんなに読書にのめり込んでいるところを邪魔するべきじゃない事は分ってる。
でも、言わないと、と菊子はリビングダイニングの中に「失礼します」と声を掛けて入った。
雨が小説から顔を上げて菊子の方を見る。
「菊子、ノックを忘れてる」と、にやっとして雨は言った。
「ごめんなさい」
菊子は頭を下げる。
そうだ、ここは他人の家。
部屋に入る時はノックくらいしなくちゃ。
菊子が反省していると雨が柔らかい笑顔で「冗談だよ。俺に何か用事?」と言う。
「はい。あの、私、お皿を割ってしまって」
暗い声が菊子の口から出る。
「どんな皿?」
訊かれて菊子は、「ホルモン焼きが載っていたお皿です。あの、日向さんから十万円するお皿だって聞きました。あの、申し訳ありませんでした。私、弁償いたしますので」
そう言って菊子は深々と頭を下げる。
居たたまれなさに菊子は目頭が熱くなる。
初日からこんな失敗。
根を上げる前にクビになってもおかしくない。
菊子は自分の粗忽さがとてもみっともなく感じる。
そんなみっともない自分を雨に見られているのがとてもいやな感じだった。
「菊子」
名前を呼ばれて、「はい」と菊子は返事をする。
頭は下げたままだ。
これから叱られるのか、呆れられるのか、笑われるのだろうか、と菊子の頭は色々な事を考え巡る。
「顔を上げな」
嫌だ。
でも、菊子はゆっくりと顔を上げた。
顔を上げて見た雨の表情は普通だった。
笑ってもいないし、怒ってもいないし、悲しんでもいないし、侮りもしない、普通の顔をしていた。
「弁償はいいよ。次から気を付けてくれたらいいから」
そう雨は言う。
普通の顔で、何て事ないって顔で。
菊子は堪らなくなる。
「そんな訳には行きません! 弁償させて下さい! お願いします。そうで無いと私の気が済みませんから!」
菊子はそう言って勢い良く頭を下げた。
怒られた方がマシだ。
笑われた方がマシだ。
この人の優しさに甘えるくらいなら。
菊子はきつく唇を結んだ。
「菊子、顔を上げて」
優しい声。
「上げません。弁償させて下さい」
菊子は震えた声を上げる。
「困ったな」
部屋が静かになる。
菊子は両手を力を込めて握った。




