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ショートストーリー

ヒトアラズのノチカ

作者:御影 夕介
 ノチカは四つのころ、人ではなくなった。
 皇の都から西へ何里か行った丘陵にあるミワナの村は、広がった台地にわきだす水が、その恩恵を人々に与えている。その性質から、かれらは都とほとんど関わりをもたなかった。村から出るもので、村は満ち足りていた。
 ある時もうけられた田主の一人娘は、生まれつき肌が弱く、日中外に出してやると、必ず焼けついたように赤くなって帰ってきた。母親ははらはらしていたが、父親はそのうち耐性がつくのだと言って、かまわずにいた。
 そのせいか否か、知らないうちに娘の胸から首の下にかけて、青白いぶきみな発疹が現われていた。古くからの医術を継ぐ翁は、それが「ヒトアラズ」の兆しだと言った。
「古い書物にはあるぞ。“非人ノ印在ル者人ニ非ズ。其ノ者必ズ獣ノ様ニ成リテ狂ヒ、不思議行フ”と」
 両親は幼いながら奇病を患うことになった、娘の運命をのろった。
 ノチカはそれから、封じられたと同然だった。一族は忌避され、だれも彼女に近づこうとしなくなった。日の光に当たれない彼女は夜ごと散歩にでかけたが、あるとき自分と同じくらいの子に出会うなり「化物」と呼ばわれ、それ以来外出もやめた。家庭教師から教えを受けたり、家事を手伝ったりして過ごした。楽しみといえば、月の明るい晩縁側に寝そべり、物語を読みふけることくらいであった。
 ところで彼女にはひとり親友がいた。山羊飼いのシクであった。
 シクは生まれてまもなく両親に死なれたので、村人のなかには「親なしのシク」と呼ぶものもいた。引き取ったものは祖父だったが、つい最近、かれも死んだ。それまでに生活のすべは十分身につけていたが、自分を養っていくだけで精一杯だった。シクは山羊のことなら何でも知っていた。ただ、山羊のこと以外は何も知らなかった。
 シクとノチカは偶然出会った。仕事に嫌気がさすと、シクは山羊を連れまわし、散歩だといってはそこら中を探索していた。それは村の中に留まるときもあれば、山の深くで迷い、一晩帰ってこないときもあった。一度などは隣村まで行って食事を盗み、村の大人たちに大目玉を食らった。そうした冒険の最中に、シクは田主の家の庭へ迷い込んだのだった。
「誰」
 いつものように灯火で巻物を読んでいたノチカは、草かげから突然少年が現れたので、心底肝を抜かした。人を呼ぼうかと思ったが、山羊に興味をひかれたので、やめた。手を差しのべ、勇気を出して触れてみると、まるで無反応だった。大人しい、と思った。
「リダというんだ。おれはシク」
「わたし、ノチカ」
 ノチカが巻物を見せてやろうとすると、山羊が急に舌を伸ばしてそれを食んでしまった。「困るわ」と眉にしわ寄せる彼女に、シクは「おれだって困る」と言って、笑わせた。そうしてふたりは打ち解け、友達になった。
 それからシクは毎晩のように現れ、ノチカの話し相手になった。山羊を連れて来るときもあったし、連れて来ないときもあった。雨の日でもずぶ濡れになって来た。そんなときノチカは衣を出してやり、いらないと言うシクに無理やり被せるのだった。シクはノチカの病気を少しも怖がらなかったし、明るい性格だったので、両親もよい友達ができたと喜んでいた。
「いつもひとりでいて、寂しくないのか」
 いつかシクはこう尋ねたことがあった。ノチカは驚いたようにかれの目を見、それからけたけたと声をたてて笑った。
「いまさら何を言うの。お父上だって母上だっているし、あなたも毎日みたいに来てくれるわ。寂しいなんて、あるわけないじゃない。それにこういう暮らしって、貴族みたいですてきだと思わないかしら」
「そうかな」
「そうよ」
 シクはその理由に自分が含まれていたので、心が躍りだしそうだった。
「それより、また村のみんなの話をきかせて」
 こう求められると、シクはいつも村の様子を面白おかしく語らないわけにはいかなくなった。厳格だと父親がいう農地の長も、シクの話では大変こっけいなようすだったし、子供たちがしているさまざまな遊びは憧れた。かれを通して見聞きすることで、ノチカは自分も村の一部なのだとしみじみ感じられた。シクが話しだすと、ノチカは夢中になって聞いた。昼の刻から彼の来るのを待ちわびていた。

 そうして日々は続いていたが、シクにとって、その終わりは突然おとずれた。
「半月までもうすぐだな」
 馬飼いのナトが出し抜けに言うので、シクは首を傾げた。
「なぜ半月の日など気にするんだ。何か用事でもあるのか」
 驚いたのはナトのほうだった。
「お前、知らないのか。お前が一番よく知っているものだと思っていたが」
「だから何をだ。いいから早く話せ」
 二日目の月は、うっすらと暈をかぶっていた。
「ヒトアラズのしるしは、子供のうちはただのできものにすぎない。しかし、大人になればすぐにでも変化が現われるという」
「獣になるというやつか」
「そうだ。シク、落ち着いて聞け。ヒトアラズは、獣になる前に殺すのが掟だ。うつる病ではないから、発症までのあいだは生かしておくことが許される。だがそれも、十五の歳の最後の半月の夜までという決まりだ」
「そんなこと、だれが決めたんだ」
「皇さまさ」
 シクは取り乱し、歩きながら怒りをぶちまけた。だがそのうち急に大人しくなった。ナトも隣で黙っていた。しばらくして、シクが尋ねた。
「それは皆も知っているのか」
「いや。おれは長を都へ乗せていったとき、たまたま聞いただけだ。その長の用というのが、役人に処置を頼むことだったのだ。ほかに事情を知っているのは、本人と家族くらいのものだろう」
「何てことだ」
 ふたりはそれきり言葉をかわさなかったが、ナトの馬小屋につくと、シクが低い声で言った。
「頼む。おれに馬を貸してくれ。ノチカを役人に殺させはしない」
 面食らったナトは声を荒げた。
「おい、気は確かか。お前が出て行ってどうにかなる問題ではないんだ」
「西の国エクナイに、ヒトアラズが集まり、安らかに暮らす地があるという。ノチカが言っていた」
「そこへ行くのか。この目で見たことこそないが、ヒトアラズは人間ではないんだぞ。人間でないものがどうして集まって暮らせる。それに西は蛮族の国だし、役人は追いかけてくるに決まっている」
「蛮族といえど、役人といえど人だ。ただの人間だ」
 ナトは何も言えなかった。

 半月の夜は冷え、静かだった。役人たち、村の長、ノチカとその家族は社の前にあつまり、たいまつの灯にてらされながら、じっと時を待っていた。
「執り行う」
 長が言うと、時が動きだした。ノチカは父に手をひかれ、燭台の前に腰をおろした。村の長はその正面に来、手を合わせて祈った。役人の長官はその横で、炯炯とした目を射ながら、まばたきもせず立っていた。
 祈りが終わると、老いた長が言った。
「別れのあいさつを」
 白い装束に身を包んだノチカは、頭布を少しひっぱり、あたりを見わたした。風が吹き、たいまつがぼうぼうと鳴った。
「なにも申しあげることはございません。私はこの時までに、済ますべきことをすべて済ませておきましたから」
 言葉がとぎれたが、終わりというふうにも見えなかったので、みな黙っていた。
「ただひとつ、お願いがございます。黙とうを。死にまみえる人たちのために、静粛なる黙とうを」
「承った」
 長は立会人たちに目を閉じるよう指示し、さっきと同じように両手を合わせ、詩吟のような声で言った。
「黙とう」
 あたりはいっそう静けさが増し、無音に近くなった。役人のひとりは耐えかねてうす目を開け、ノチカの姿が、ともしびと影の織りなす混沌のうちにあったのを見た。だが不意に彼を打つような畏怖が襲いかかったので、まぶたは再び固く結ばれた。
 すると突然、社はどよめきに満たされた。
「君、これは厳粛な儀式なんだよ。ふざけてはいけない」
 長官はいかめしい顔をし、馬にまたがったシクを制した。シクは答えず、驚いて息を弾ませているノチカにするどく言った。
「乗るんだ」
 シクの視線は彼女の眼をとらえたが、その瞳がさしたものを見て、はっとした。ノチカの父が白い衣をまとい、刀を握っていたのである。シクは儀式の次第を悟り、腹が溶けそうに熱くなった。
「来い」
 手を伸ばしたが、ノチカは動かなかった。役人たちは物置にしまっておいた武具を取り出して、威嚇のかまえをとった。
「来い」
 もう一度叫ぶと、ノチカは鞍に飛び乗った。シクは手綱を思い切りひっぱり、鞭打って駆け出した。
「射て」
 役人の長の合図で、矢はいっせいに放たれ、流星となって森に消滅した。役人のひとりが長官にこう告げた。
「あの者は河を下り、港へ出るに違いありません。ここへ来るときに、川辺に小舟があったのを見ましたから」
 役人の長は大声で、部下たちに指示をだした。
「半分は馬で追え。半分は私とともに河へ回れ。三人はここに残れ。けして取り逃がすな」
 ことのはじまりから終わりまで、ノチカの父親はぴくりとも動かず、ただ宙を見つめていた。

 しばらくふたりは無口だったが、河のそばを通りかかると、ノチカがひとりごとのようにつぶやいた。
「ねえ、川が海につながっているというのは、本当なのかしら」
「本当さ。おれはじいさんとホカレの入り江へ行ったことがある。そばには大きな河口があった」
 矢が少しばかり左腕の肉をけずったので、手綱を持つ手に振動がひびいた。ややあって、ノチカが同じような調子でぼそりと言った。
「わたし、ずっとこのままでいたい」
「それじゃ困る」
 蹄の音に、シクの笑い声が混じった。
「それじゃ、なにも始まらないじゃないか。これからなんだよ、楽しいのは」
「そうね」
 ノチカが浮かない顔をしていたので、元気づけようとして、大きな声で言った。
「そうだ、海へ寄ろう。エクナイへは遠回りになるが、海へ寄って、うまい魚を食おう。ノチカは焼いた川魚か、海のやつでも、干物の味しか知らないだろう。新鮮な海の魚は、最高だぞ。大きさだって半端じゃない。おれだって一匹食いきれないくらいだ」
 おどけてみせる。ノチカははにかんだように笑った。それが嬉しいので、シクも笑顔を取り戻した。枝間に半月が隠れては見え、隠れては見えしていた。

 街道の関所にたどりついたのは、一日後の昼であった。この関所は、馬で旅をするにはどうしても通らなければならない箇所である。そのため役人たちは、あの晩からずっと特別の警戒をつづけていた。山奥の村から逃げたヒトアラズについてのふれ書きが人々の注意を集め、町はそのうわさで満たされていた。
 シクはノチカと馬を隠し、関に抜け穴がないものか調べたが、徒労に終わった。肩を落として戻ると、ノチカは寝息をたてていた。これまでろくに休まず来たのだから、無理もなかった。彼女の日よけを直し、そばで横になったものの、どうも体が重く感じた。そこでシクは宿をとることに決め、行ってひとり分の部屋を借りた。あとでひそかにノチカを連れてきたとき、彼女はふたり分払うべきだと言ったが、シクは「どうせ追われる身だ」と言ってごまかした。
「そういえば、これを渡し忘れていた」
 晩に行李からシクがとりだしたのは、ノチカが常に塗っていた薬だった。
「どうしてこれを」
 ノチカは驚きを隠せなかった。それは田主の家の寝室にしまってあったはずだからだ。半月の夜、だれもいない部屋から勝手に持ち出してきたのだと知ると、彼女は「あきれた人」とため息まじりに言った。
 そのころ、ナトを知る男が宿を通りかかり、その馬がつながれているのを見た。彼は女将に自分の友人が来ていないかたずねたが、どうやらいないようだった。しかし彼女も客の身の上をあやしんでいたので、かれらは共にこっそりと部屋の戸をのぞいた。すると、そこに十五、六ほどの少年と少女が眠っていたので、「これは」と思い、すぐに役人に知らせるため出ていった。
 物々しい格好で宿をかこんだ役人たちは、灯りを消してひそんでいたが、準備が整うと、そのうち屈強なふたりが戸を開け放った。罪名をすばやく読み上げると、彼らに抵抗を許さないまま、首尾よくシクとノチカを取り押さえた。ある役人が女将にむかって言った。
「ヒトアラズは見つけしだい、直ちに抹殺せねばならん。悪いがこれもひいてはお前のためだ」
 女将は冗談ではないという顔をしていたが、反対はもとより意味をなさなかった。彼女が引っ込むのとほぼ同時に、役人の刃がノチカの喉を切り裂いた。
 血がしぶきをあげ、体が動かなくなったと思われたころ、突然ノチカの手が男の腕を捕らえ、それを引きちぎった。さっきと同じように赤い潮がほとばしり、ちょうちんが濡れて消えた。見ると、噴き出した血液は意思をもったかのように這いだし、ノチカの体に戻っていった。四肢は脈動し、変形し、みるみるうちに人の姿を失った。「化け物め」と叫び鎮めようとするたくましい男がひとりふたり異形に討たれ、その光景は凄惨を極めた。
 シクは夢のような気持ちで一部始終を眺めていた。静かになった部屋にたたずんでいる生き物は、たしかにうわさに聞く獣のようでもあり、またかすかに人間のようでもあった。尾にも似た突起が伸びた様は猿に近かったし、爪は熊ほど鋭かった。特に奇妙と思えたのは、背の中心にひとつ、わき腹にひとつ、ふくらはぎのあたりにひとつずつ生え出した翼のような器官が、はたはたと頼りなく動いていることだった。
 獣はシクの衣をくわえると、窓からとび出した。信じられない速度で駆け出したそれに振り落とされないよう、シクはしっかりと首筋にかじりついた。

 獣は一晩中駆けつづけ、何里もの距離を進んだ。そのうち速度が落ちてきたなと思うと、急にしがみついていた体の表面がぬめりだしはじめ、各部の凹凸が溶けるように滑らかになってきた。東の空が白んだころにはほとんどもとの姿に戻っており、今はむしろシクのほうが彼女を支えていた。
 近くで朝の仕事をしていた男に訳を話すと、家で休ませてもらえることになった。聞くと、なんとかれは舟を持つ漁師で、このあたりは浜のつづく海岸だと言った。シクは驚き、ノチカの超常を恐れて身震いをした。
 昼、目を覚ましたノチカは海が見たいと言ってきかず、ついにシクも押しきられて出かけることになった。海が見える場所まで来たとき、ノチカはそこでしばらく立ちつくしていた。
 隠しておこうとも思ったが、どのみちどうやってここへきたかの説明がつかないので、シクはころあいを見て昨晩のことを話した。
「わたしは平気だわ」
 思ったほどノチカが動じなかったので、シクはなんだか拍子抜けしてしまった。しかしそれは彼女に異形となったあいだの記憶がないからで、実際に恐怖を目の当たりにしたのは自分なのだと考えると、急に不安がこみ上げてきた。
「おれは大丈夫だろうか」
 するとノチカはすぐさまほほ笑んで言った。
「大丈夫よ。大丈夫だから」
 ふたりとも口には出さなかったが、思いのなかにはあの半月の夜のことがあった。
「だから、もうその話はしないで」
「わかった」
 沈黙に耐えかね、シクはまたおどけて冗談を言った。
「こんな話を知っているか。海というのは巨人の風呂で、波はかれらが体を洗っているから立つんだそうだ」
「へえ、そうなの。これだけ広いのだから、使いでがあるにちがいないわ。それにしても巨人というのは、よほど綺麗好きなのね。波は絶え間ないもの」
「そうだ。汗をかけばすぐにでも流さずにはいられない。海が塩からいのも、じつはそのせいなのさ」
「まあ」
 人と人でない人のふたりは、肩を並べ、声を上げて笑った。

 それから三日歩き、エクナイの国に入ると、さらに四日歩き、そうして求めていた場所に辿り着いた。古くから言い伝えられ、恐れられている地の名はコントウといい、ひとつの山全体が侵されざる領域であった。
 そうしてある日、そのふもとの門を司るゲンボクという老丈夫がいると知り、出かけて行って、ヒトアラズが安住する地だと聞いて来たとかれに話した。ただし、ノチカがヒトアラズだということは黙っていた。すると、かれは言った。
「よろしい、満足するまで見ていきなさい。しかし今日は疲れているであろから、明日にするといい。休むところがないなら、部屋を貸してやろ。さあさあ、こっちだ」
 シクとノチカはもてなしを受け、それぞれに部屋が与えられ、そこで休むことになった。ノチカと離れて寝るのはミワナを出てから初めてだった。シクは心配に思ったが、疲れていたため、すぐに眠りに落ちた。夢も見ないほど深い眠りであった。
 翌朝、食事をしていると、丈夫が言った。
「あの子らが来るのは夕方だよ。ヒトアラズは日の光に弱いのだ。日が暮れるころになったら、共に畑のほうへ行こう」
 すると、ノチカが尋ねた。
「ヒトアラズはここで何をするのですか」
「仕事をするんだ」
 ふたりは意外に思って驚き、顔を見合わせた。丈夫が去った後、かれらは話しだした。
「まさか仕事をしているとは。安住の地とは言っても、おれたちが思っていたものとは少し違うようだ」
「でも、言い伝えの場所は本当にエクナイにあったのだから、それだけでもほっとしたわ」
「ノチカ、きみはここに留まるつもりか」
「そうね。もうどこの村にも住めないもの。わたしはどんな仕事をするのかしら」
「きみが留まるなら、おれもここに留まる。おれはまた山羊でも飼えばいい」
「ありがとう。あなたが良いのなら、わたしもそうするわ」

 日没が近づいたころ、ふたりは丈夫に連れられ、畑に来た。もうそろそろだ、とかれが言うと、東のほうから、獣のような姿をした生き物が何十何百と、群れを成してやってきた。それぞれが全く違う容貌だったため、シクが関所の宿で見たものと、ある部分では似ており、またある部分では似ていなかった。かれらは小屋から鍬や鋤を取り出すと、めいめい印にそって地面を耕し始めた。
「どうかな、よく働くであろ」
 丈夫はかれらが山、海などでさまざまな仕事をしていると説明した。真面目で、素直で、とても利口だとも言った。聞きながら、シクはこう考えていた。
(たしかにかれらは利口だ。道具を使い、丈夫の指示通り働いている。だがこれは、人ではない! 心がないのだ。本能で動いているに過ぎない。これでは、おれの山羊と同じだ)
 ノチカを見ると、平然とした顔でこの光景を眺めていた。だが、どうしても何か言葉をかけることはできなかった。その顔が、自分が彼女の異形となった姿を見たときの顔に似ているかもしれないと思ったからだ。夕闇の中、ただ、ざくざくという音だけが山々にこだました。
 次の日起きてみると、部屋にノチカがいなかった。考えたあげく、身投げかもしれないと思い、近くに川か湖がないか丈夫に尋ねると、飲むための水を汲む川を教えられた。行くと、川はミワナのそれを思い起こさせる懐かしい流れだった。そして、すぐに彼女は見つかった。しかし、その姿は変わり果てていた。
 大きさは小ぶりな丘ほどにもなり、表面は乳白色で、茹でた卵のようにつやつやして弾力があった。さわるとひんやり冷たく、体液でべとべとしていた。壁はそこここに腕のようなものを生やし、それらはまさぐるように宙をかいていた。
 山に登ると、全身が明らかになった。形は勾玉に近く、玉の真ん中には大きな眼がひとつはめこんであった。まぶたが開閉を繰り返すたび、体が脈打って、血液がゆきめぐった。先ほど見た腕は、産毛として肌全体を覆っていた。シクはそれを見て、背すじがぞっとした。正直、不気味で醜いと思った。こうなっては打つ手がないと、絶望した。
 帰って丈夫に話すと、かれはこう言った。
「ヒトアラズは身体の病ではない。心の病だ。心の姿を身体にうつしだす奇病だ。そしてその姿は、ときには獣のようにも見える」
 それに対してシクが言った。
「では、人の心を再び取り戻せば、姿も人に戻るのでしょうか」
「わからぬ。が、試してみるがよかろ」
 その晩、シクは考えた。
(ノチカはいつも平気だと言っていたが、ちっとも平気などではなかったんだ。どうしておれは気付いてやれなかったんだろう! おれは彼女を助けているつもりだったが、実はその反対だったんだ)
 次の日からシクは、ノチカが自分が人であったことを忘れないよう、今まであったいろいろな出来事を語り続けた。来る日も来る日も欠かすことなく、昼夜語り続けた。乳白色の壁を登り、騒ぐ腕にあいさつをし、眼球の淵にあぐらをかいて、彼女に語り続けた。シクが彼女に語ったのは、例えば次のようなことだった。
「きみがもしあの時、黙とうを求めなかったら、おれは草かげから出ることができなかったろう。しかしおれは、必ずきみがそうすることを知っていたんだ。きみの読んでいた物語の主人公たちは、敵に討たれるとき、いつもそうしていたから」
「漁師の家で魚をごちそうになったとき、はじめは刺身を気味悪がっていたが、甘くて旨いと言っていたな。次に海へ行ったときには、おれがもっと旨い魚を釣ってやる。ミワナにも土産に持っていこう。なに、うまくやればいいのさ。あそこの連中は、役人が嫌いだからな。そういえばナトのやつ、西には蛮族ばかりだなどと言っていたが、そんなことはなかったと言ってやろう。実際見たこともないくせに、間抜けなやつだ」
「毎日、きみの発疹を見るたび、息が止まりそうになっていた。どんどん広がっていくのだもの。薬がなくなってからは始終かゆそうにしていたな。おれは替ってやりたかった。心配すると、いつも平気だといってごまかした。でも本当は違ったんだ」

 月はめぐり、一年ほどたったある日、丈夫のもとに役人が大勢やって来て、こう言った。
「異形どもをせん滅せよとの、国司の御命です。どうか門をお開けください」
 これに対し丈夫は言った。
「かれらはわたしの子供のようなものです。国司は民の子を殺すのですか」
「ですが、もはや人ではないではありませんか。四年前、東方の国ヒラトを滅ぼしたのは、たった一頭のヒトアラズであったことを、あなたはご存知のはずです」
「どうか帰っていただきたい」
「丈夫、あなたを傷つけることは、我々の本意ではありません」
 さて、そのしばらく後、例によってシクがノチカに語っているところへ、丈夫が急いで来て、こう告げた。
「役人が何百と来て、あの子たちを刀で斬っている。もうすぐここにも手が回るであろ」
 シクは驚きあせり、抵抗する策がないか考えはじめた。そこへひとりの役人が来て、言った。
「これも獣か。なんと大きい」
 するとシクはかれに向かって叫んだ。
「ノチカは獣ではない。人間だ」
「そうか、ならば証拠を見せてみよ」
 シクが何も言えないのを見ると、役人はノチカに斬りかかり、腕を三本落とし、肌に断裂を作った。かれが鮮やかな血を浴びたと思うと、ノチカの眼からは涙が溢れ出してきた。それは勢いを増し、押し流されてしまいそうになったので、三人は山の高いほうへ逃れた。涙は怒涛となり、川を荒れ狂い、ついに谷を飲み込んだ。異形と役人たちの多くが、それに溺れて死んだ。三人は長いあいだ、そのさまを眺めていた。
 近寄ってみると、涙を流しつくしたノチカは、一部は異形のままであったが、ほとんど人間の形に戻って、倒れていた。それを見た役人は、「たしかにこれは人のようだ」と言った。シクが声をかけると、彼女は気がつき、泣きながら言った。
「シク、わたしは人になりたい。もう一度、人として生きたい」
 シクが歓んでいると、隣で丈夫が言った。
「それは良い。うまくやれば、人よりも良い形になるかもしれぬ」

(了)

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