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まゆという人形

作者: 鵜川 龍史

「あ、啓君だ」

 鍵を開けて扉を開けると、琴子が遥に靴を履かせていた。十分に用意したはずの「ただいま」の一言を飲み込んでしまって、咳き込む。

「な、何してるの」

「遥が公園にまゆちゃんを置いてきちゃったみたいなの。ちょっと探してくるから待っててね」

「ぱぱー、まっててね」

「人形だろ。明日じゃだめなのか」

「遥、まゆちゃんがいないと、ごはん食べないのよ」

「はるか、まゆちゃんないと、ごはんたべないの」

 詰まった息を、何とか吐き出す。

「今日は早かったんだね」

 再び息を飲む。琴子から視線を逸らさないように注意する。

「いつもどおりだろ。それより、人形なら俺が探してくるよ。公園っつったって、こんな時間じゃ危ない」

「でも、啓君、どんな人形か覚えてるの」

「ご飯の時に、いつも遥が抱っこしてるやつだろ」

 遥の頭を撫でながら、琴子から視線を逸らす。俺を見上げる遥の目つきまでが疑念に満ちているような気がする。

「そう。たぶん砂場か、その近くのベンチにあると思う」

「オッケー。分かんなかったら電話するよ」

 置いた鞄からスマホを取り出す。不自然ではないはずだ。遥を見ながら手を振って扉を閉める。早歩きでエレベーターに乗り込み、天井を仰いで深い溜息をつく。

 琴子は頭が弱いくせに、妙に勘が鋭い所がある。人形の名前を付けたのも琴子だ。今日だって、わざわざ外回りを早めに切り上げて麻友に会ってきたんだ。いつもどおりの時間だ。早くなんてない。

 肩から緊張が去って、エレベーターのボタンを押していないことに気づいた。動揺しすぎだ。琴子は何も知らない。

 団地の公園は点いている外灯がほとんどない。故障しているわけではなく、電気代の問題らしい。入居したての頃、掲示板に張り出された広報誌に、仰々しい意見文が載っていたのが忘れられない。そういう場所なのだ、ここは。頭を搔いて嫌な気分を削り取る。ざっと見回すが、窓からの光は届かず、よく見えない。懐中電灯を持ってくるべきだったが、まだ家には戻りたくない。普段は公園の外周を歩くだけなので、中の様子は知らない。次第に目が慣れてきて、砂場らしきものがブランコの向こうに見える。

 すぐに探す気にもなれず、ブランコに座って空を見上げる。さらに体を反らすと、うちの灯りが目に入った。琴子は悪い女ではない。善良かどうか、という話ではなく、女として、だ。娘ができた後も、美しいスタイルを維持しているし、家族で出かける時には化粧を欠かさない。近所の奥さん連中とは比較にならない。だからなおさら、どうして琴子が団地暮らしにこだわるのかが分からない。

 気がつけば、家から足が遠のいていた。大学の頃付き合っていた麻友とは職場の同僚でもある。昔の関係を復活させるのは簡単だった。

 ブランコに勢いを付ける。そう。琴子と結婚すれば、俺の人生に勢いがつくんだと思っていた。美人で料理上手、誰も憎まずいつでも笑顔の女。彼女がいさえすれば、今いる所を離れて、彼方まで飛んでいけるんだと思っていた。ジャンプ、大きく弧を描いて着地。しかし、ここは砂場だ。膝を叩いて、体に言い聞かせる。人形を探そう。

 砂場にはそれらしい物は見えない。縁の木枠の所にも。ベンチはどこだ。スマホを取り出し、懐中電灯代わりにかざした。右手の植え込みの方から小さな悲鳴が聞こえた。近づくと重なった二人の人影が見えた。後ろにいるのが男で、前にいる女のスカートがめくれ上がっている。顔を伏せてスマホをポケットに突っ込んだ。

「誰も来ないって言ったじゃん」

「知らねえよ。あのおっさんがわりいんだよ」

 公園の反対側へ歩きながら、火照った体が二つ背後から去っていくのを感じる。それと共に、十分に冷ましたはずの俺の体が、再び熱を帯びていくのを感じる。しかし、それは麻友が生み出す快感とは程遠い、胸を焦げ付かせるような熱だ。革靴に砂がまとわりつく。

 よく見ると、目の前にもベンチがある。スマホを取り出して光を当てると、見覚えのある人形がそこに座っていた。ただ、それは、娘の抱いていたものなのか、俺が抱いていたものなのか、はっきりしなかった。

泉鏡花の俳句「山姫やすゝきの中の京人形」をモチーフにしています。

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― 新着の感想 ―
[一言] 秦に勧められて見てみました。俳句からここまで想像できるのは凄いです。
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