序 始まりの旅 漆
「順調に討伐は完了したようですね」
「は、これも偏に袁司徒様のお力添えの賜物です」
「フフフ、私ではなく天子様の遍く御威光のお陰です」
洛陽――袁隗の屋敷にある応接の間にこの家の主と朱儁が相対している。
「呉の郊外で野戦をした孫文台は、敵より少数ながら巧みに兵を指揮して大軍を分断、各個撃破をしたようです。黄龍羅及び周勃はこの野戦で斬られました。呉に篭った許昌でしたが、住民が城門を開けた為逃走する間も無く捕縛されたようです」
孫文台からの木簡を袁隗に見せつつ、朱儁は口頭で簡易に報告を行う。
「なお許昌ですが即日首を斬られました」
丁寧に木簡を丸めると女は朱儁へと戻す。
「朱将軍、よき者を教えていただきました。予想以上の成果であり、孫文台の能力です」
両肘を執務机につき指を組んでその上に顎を乗せる。
「さて、端的に聞きましょう。孫文台を洛陽に呼ぶか呼ばないか」
袁隗の言葉に朱儁は暫し瞑目をする。そして徐に目を開けると力強く返答をした。
『否』
と。
「まだその時期には至っておらぬと愚考致します」
「その根拠は?」
「それは……」
「そん話、わても聞きたいおす」
突如第三者の声が響く。
「む、義真殿か」
朱儁が振り向くと其処にはかなり身長の低い男が立っていた。袁隗よりも少し高い程度で朱儁の肩ほどまでしかない。しかしその身体の幅は朱儁の倍はありそうな感じに見受けられる。
姓名は皇甫嵩、字は義真という。
涼州は安定郡の出身であり、伯父に異民族討伐に功があった皇甫規がいる。文武に優れ詩歌や弓馬を習得したが、父の死去により世に出ることをしなかった。しかし、喪が明けて暫く後霊帝自ら彼を召した事により出仕を決意。伯父と同じく北辺守備で功を為し議郎・北地太守を歴任し、現在は朱儁と同じく中郎将に任命され、洛陽の守りをしている人物である。
「公偉殿、よろしおすな?」
「別段隠すべき事でもありません」
袁隗にちらりと視線を向けると、頷くのを確認して答える。
「単純な事です、彼女達には遊撃として働いて貰います」
「……成程そないゆーことおすか」
現在、全土は内乱の危機にある。それはここにいる三人の共通の認識である。
「彼女には我々の駒となり徐州、荊州そして揚州にて賊討伐に動いてもらう」
「しかしかて、虎と称しはるんモンをどない鎖で縛るんどすか?」
皇甫嵩の質問に朱儁は笑みを浮かべるのみで特に答えない。
「その辺りは朱将軍にお任せしましょう。我々は今正しくそこにあるこの累卵の危機を乗り切る手立てを講じなければなりません」
袁隗は両名を見ながらそう語ると一つ息を吐く。
「皇将軍には涼州にて目を光らしまた、人材を探してください。朱将軍は現状維持でお願いします」
「「は!」」
その両名の小気味いい返事に満足げに頷く。
「そないいえば、子幹ん姿が見えまへんが?」
「蘆将軍には河北へと行って貰ってます」
袁隗の言葉に二人は成程と頷くのであった。
◇◆◇◆◇
「わが姓は黄、字は漢升。この度は我が子璃々助けていただき礼を申します」
女の名乗りを聞いた時、少年は少し頬が動くが誰にも気付かれることはなかった。
「俺の名前は大和です。大和史崇」
「私の姓は趙、字を子龍という。よろしく頼む」
「璃々は璃々だよ。お兄ちゃんお姉ちゃんありがとう」
女の子の紹介に二人は頬を緩める。
互いの自己紹介が済み他愛ない話をしていると、璃々がすやすやと寝息を立てだす。
怖い思いをし、母親に会えた安堵感から疲れが一気に出たのだろう。
「黄漢升殿はここに住んでおられるのですか?」
「ええ、この江陵で県尉をしております」
県尉とは今で言う警察長官である。
「どうかこのまま漢升、と呼んで下さい」
娘の恩人に謙ってもらっては困る、と。
「では漢升さん、と」
少年の返事に女はにっこりと微笑んだ。
「漢升さん、この辺りは最近どんな感じですか?」
「そうね、まだこの辺りはそれほど乱れてはいないわね。ただ、ガラの悪い人が増えては来てるわ」
「それでは、まだ賊が蔓延るまでは悪くはなってないという事ですか」
ふむ、と少年は小さく頷くと顎に指を当て考え出す。
「大和殿よ、何をそんなに思案されているのだ?」
趙雲が少年の様子に問い掛ける。
「そうですね、今日の璃々ちゃんの誘拐騒ぎについて、少し思う所がありまして」
そういうと、虚空を睨むように考えに耽る。
「ふむ、漢升殿。かなりの武の腕前と見たが後で一手、手会わせどうだろうか」
「ふふふ、子龍殿には敵わないわ。それに私はコチラの方が得意で」
そう言うと弓を引く仕草をする。
「それは残念だ」
心底残念そうに趙雲は肩を落とのだった。
「失礼なことを聞くのですが、漢升殿は誰かに恨まれる様な事は?」
いつの間にか、和気藹々と語る二名に少し驚きつつ少年が訊ねる。
「この様な仕事してますので、無いとは言い切れませんわ」
唇に指を当てるようにして、少し垂れた目を困ったように顰める。
「そうですよね、だとすると奴等の狙いは漢升殿の命ではない。ということですか」
「……ほう、だとすると大和殿は、彼等は漢升殿自身を欲した、と?」
「まあ」
黄忠が首を掲げると羽の髪飾りがしゃらり、と揺れる。
「そう考えるのが妥当かな、と思います。しかし、いくら魅力的な女性とはいえ、夫君と子供がいる女性に手を出そうなどとは……」
言葉にしてから少年ははっとして顔を挙げる。案の定、趙雲はニヤニヤしており、黄忠はあらまぁ困りましたわ、と頬を染めながら少し嬉しそうに微笑んでいる。
「なるほど、どうりで大和殿は一緒に旅をしている我等に何もせぬ訳だ。ぼせ……ゴホン、姉的な年上の女性が好みであったか」
一部の言葉に異常な威圧感が襲い掛かった為趙雲は言葉を選び直し、しかし少年を玩具にするのは止める気配はない。
「はぁ……そんなに褒めて欲しいなら後で褒めてあげますよ。趙子龍殿だけ褒めれば厄介ですので、他の二人も一緒に褒め称えてあげますから」
「扱いがぞんざいではあるまいか? 抗議致すぞ」
少年の吐いた毒に憤慨する趙雲を無視して、少年は話を進める。
「最初は璃々ちゃんを攫い人質にして漢升殿の命を奪う為か、と思ったのですがどうやら違うようですので、次に考えられるのは人質までは同じですが漢升殿の命ではなく貴女自身を望んだ、端的に言えば肉体関係、若しくは婚姻関係ですね」
ですがそうなれば夫君が邪魔になるはずなのですが、と続ける少年に、
「夫は璃々が生まれて直ぐに亡くなりました」
それ以来母娘二人で生きています、という告白。
「申し訳ありませんでした」
告白を聞き少年は謝罪をし、趙雲は押し黙る。
もう随分前のことなので気にしていませんわ、と語る黄忠に再度謝ると少年は言葉を紡ぐ。
「心当たりは?」
「あります」
素早く短い返事。
「この江陵の県令蔡瑁です。以前より熱心なお誘いを受けておりました」
しかし、何度誘われても結婚を申し込まれても頷かなかった。
それに彼に限らず全てお断りしています、とい女は言う。
「なるほど、いつまでも振り向かない事に業を煮やし実力行使に出た、という処ですかな」
そうですね、と少年は同意すると女に目を向ける。
「今回は俺たちが居たので何とかなりましたが、次はそう上手くいかないでしょう」
そして蔡瑁が、大人しく引き下がるとは思えない。
「大丈夫です、幸い近くに私の友人が官途にも就かず遊んでおります。その者を呼び寄せますわ」
紫の長い長い髪を風に靡かせながら女は少年に頷く。
「この恩は終生忘れません、何かあればお力になりましょう」
真剣な瞳で女は宣言する。
少年はそんな黄忠の言動にゆっくりと首を横に振り、
「何もしていませんよ、どうかご自由に自分の道を歩んでください」
と伝える。
女はにっこりと微笑みながら分かりました、と答える。何故かその笑みと返事に少年は得体の知れない感覚を覚え、趙雲はジトっとした視線を少年に向けるのだった。
◇◆◇◆◇
「……という事が有ったのだ」
その日、一行は早々に江陵を旅発ち一路北上している。
「益州には向かわないのですか?」
戯志才のその言葉に少年は一つ頷くと襄陽を経て、宛そして洛陽へと進む積もりだと答えた。
「それ以外に行けるとすれば大回りをして長安くらいでしょうか」
「ではではー、襄陽より宛を経て長安へと至り洛陽に入る旅にしましょうー」
長安はまだ行った事が無いので見聞してみたいのですよーと言う程立。
姦しくこの旅について話し込む三人を遠めに眺めつつ少年は一人考える。
曰く、やはり世界は広い、と。
秣稜での夜、ここが自分の知っている世界とは近くて遠いのだと再確認した。しかし、黄忠との出会いで更にそれを肌で感じる。
(この様子だと曹孟徳や劉玄徳、司馬仲達や諸葛孔明等も全て女性な気がしてきました。自分の持っている知識はあまり当てにならないかも知れないですね)
大きく溜息を吐き一人考えに耽っていると、いつの間にやら三人の少女が黙ってこちらを見ている。
「……何でしょう?」
「いや何、大層な溜息を吐いて遠い目をしておるお主を見ると、年上の姉に恋煩いをしておる少年のように見えると思ってな」
趙雲はいつの間にか、大和殿ではなくお主と言う様になっていた。特に少年も咎める様子は無かった。
「……は?」
「どうせ、漢升殿の大きな胸や旗袍の切れ目から見えておった脚線でも思い浮かべ、煩悶としておったのであろう」
「おいおい兄ちゃん、ここに三人も美女が居るのに他の女に懸想するとは度し難いすけべやろーだな」
宝慧を操って程立は少年に毒を吐き、少しは私を構うのですよーと言い。
「そんなに大きな胸がいいのですか!」
と、何故か戯志才は胸に異常に怒りを顕し、何を想像したのか盛大に鼻血を噴き出し、程立に首筋をトントンとされている。
「色々と理不尽ですね、全く」
その様を高笑いしながら見ている趙雲をじろりと睨んで少年は一人呟く。
この三人との旅は、やはり面白い――。