序 始まりの旅 伍
高祖劉邦が楚漢戦争を戦い抜き、項羽を垓下で下した事により漢という国は始まったと言えるだろう。それより数えること七代武帝の御世漢は全盛を迎え、更に下って十四代孺子嬰の治世の時に外戚であった摂政・王莽による史上初めての簒奪行為によって一度滅ぶ事になる。
摂政帝王莽は新朝を興し、周王朝を理想とした政治体制を作るが現実を省みることは無く、民心は瞬く間に離れていく結果となる。
各地で叛乱が相次ぎその中より後に光武帝と呼ばれる劉秀が頭角を現す事となる。
中華各地、特に河北を転戦しその勢力を蓄えた劉秀は、部下から四度の奏上を受けて遂に即位、都を洛陽とし漢朝を再興した。
高祖劉邦が興した漢、光武帝が再興した漢。二つを前漢と後漢。又は都が長安そして洛陽に合った事から西漢・東漢とも言われている。
両漢を合わせて約四百年の栄華を誇る大帝国漢。
しかしその栄華も銅臭政治と宦官の専横により斜陽の時を迎え始める。
宦官、特に中常侍を中心とした派閥と、皇帝の外戚を中心とした派閥の争いは熾烈を極めた。
外戚を中心とした派閥は清流派と呼ばれる。
外戚と宦官――
この両者の争いは後漢四代帝の時に始まる。和帝が即位したのはまだ九歳であった。
幼かった帝に替わり政治を執り行ったのは、皇太后でありその兄であった。
和帝はその後、宦官の力を借りて外戚の力を一掃。これをもって外戚と宦官が台頭し権力争いが始まったのである。
十一代桓帝の時代、遂に宦官が外戚を一掃した事により宦官勢力が一歩大きくなる。
宦官の権力増大に対し、外戚は士大夫(豪族)との徒党を更に強固にし自らを清流派と称し、専横と自らの利権追及を繰り返す宦官とその一派を濁流派と名付け批判を行った。
士大夫が強い影響力をを発揮した郷挙里選、地方の優秀な人物を官吏として推挙する制度であるが、これらすら自らの利権の対象として用いた事に反発した士大夫達の批判は凄まじいものであり、また儒教的思想からくる宦官は一人前の人物で非ずというのもそれらを更に烈しくさせた。
それらに対し濁流派は、
「清流派が朝廷を誹謗した」
と上奏、清流派はその主要人物を悉く捕らえられ禁錮刑に処された。
清流派は清流党とも呼ばれ、それらに所属した人物は党人と称されたことから
『党錮の禁』
と呼ばれることになる。
二度に渡るこれ等の権力争いにより統治能力は一気に瓦解し、地方叛乱や宗教的叛乱が後を絶たなくなりつつあるのが現状であった。
◆◇◆◇
その日、王都洛陽は曇天であった。
今にも泣き出しそうな空模様を横目に見つつ、その女性は足早に歩いていた。
「袁司徒様」
野太い呼びかけに鮮やかな金髪を靡かせて女は振り返った。
「これは朱将軍ではありませんか」
そこには、とてもその野太い声の持ち主とは思えぬほどの華奢な長身痩躯の男が居る。
朱儁、字を公偉という。
年の頃は四十台も半ばか、頭髪は既に白くなっている。貌には真横に一筋の刀傷。
自身の武芸は人並みではあるが、考に篤く知勇が他者より抜きん出ており漢王朝の武の柱石の一人である。
「中郎将の任、慣れましたかな?」
少女と思わせる程の小柄な彼女が、小首を傾げつつ問い掛ける。
「は、漸くに」
他者よりも頭一つ高い長身を折り曲げるように礼をしながら答える。
二人が並び立つと大人と子供以上の身長差が生じる。頭を下げているとはいえ袁隗を見下ろす形になっているが、朱儁はともすればこちらが見下されている様な感覚に陥っていた。
袁隗――
字を次陽という。名門・汝南袁氏の袁湯が三女として生を受けた。若い頃より才覚を発揮し各地の太守を歴任、姉よりも先に三公の地位に就いた。政治力に優れ現皇帝たる霊帝の覚えもめでたくその権力は濁流派の中心、十常侍をして無視し得ぬ程である。
生き馬の目を射抜く様な政治権力の世界で、十数年に渡り政敵に付け入らせる事無く地位と権力を保つ。
想像以上の過酷さと重圧である。
稚い姿とは裏腹な気宇な精神を有しているこの女傑は、無条件で敬畏に値する人物である。
改めて袁隗に対し畏敬の念を強くした朱儁に、
「その様に見つめられては面映ゆいですわ」
頬を染めつつ消え入るような声で発語した袁隗。
その姿は正に初恋の相手を前に居た堪れない幼子そのものである。その瞳が悪戯っぽく笑っていなければ。
「ははは、ご冗談を」
朱儁はそう一言返す。
冗談とは、私の態度かしら。それとも発言に対して?
と、ホホホと笑いつつ思索する袁隗。
「袁司徒様、此処で会えたは天恵と言うもの。実は少し討議して頂きたく」
そんな袁隗を置き去りにしつつ朱儁は話を進め始める。
「討議、ですか。さて、何事か出来しましたか?」
そんな朱儁な態度に何かを感じた袁隗は直ぐ様政界の女傑として相対する。
「実は江東の件にて――」
その言葉に袁隗はピクリ、と眉を動かす。
「黄龍羅と周勃の叛乱なのですが、実はその後ろに更なる大規模な叛乱軍が要るようなのです」
一度言葉を切った朱儁に対し、無言で先を促す。
「会稽は句章にて妖しげな術を使い宗教を興した許昌なる人物が、恥知らずにも陽明皇帝を名乗り住民と周辺の賊を扇動していると」
「では先の二名は、無知無能にして破廉恥の極みたるその人畜が先駆けだと?」
「は!」
袁隗の発した、無機的な台詞と無表情が合わさって、その場の温度が数度下がったかのような感覚が朱儁に襲い掛かる。
「……それで?」
「は、その周辺の太守や官軍でははっきり言いますが返り討ちに遭うのが関の山、某が直接討伐の指揮を……」
「それはなりません。貴殿はこの洛陽の最後の護りなのです。出征など認められません」
朱儁の言葉を最後まで言わせずに袁隗は拒絶をする。
「ならば、推薦したい者が居ります。どうかその者をお引き立て頂きたく」
「ふむ、朱将軍が推薦するのならば間違いはないでしょうが、その者の才は如何程のものですか?」
「武に於いて遠く及ばず、将の器は井戸と大海ほどに差がありましょう。勿論その者の方が某よりも優れております」
朱儁は無能ではない、現王朝内おいてかなりの才能を有する人物だ。
その朱儁が自らよりも、数倍能力があるという。
彼がそういうのであればそうなのだろう。だが…
袁隗の瞳が、ある意味を持って鈍く光っているのを朱儁は見つける。
「その者、義侠心に富み忠孝に親しい人物です。王朝に、ひいては我等に仇なす事はあり得ません」
正確に彼女が危惧していた事柄に返答をする。
「分かりました、ならば私の権限において許可をしましょう」
鷹揚に頷いて許諾を与えた。
「不敬にも天子様に弓を向け、あまつさえ自ら僭称をし天下を禍乱ならしめたる大罪許し難し、速やかに駆逐せよ」
「は!」
袁隗の言葉に膝まづき頭を下げる。
「頼みました、それで朱将軍」
先程の苛烈な物言いが嘘の様に穏やかになった袁隗が言葉を紡ぐ。
「その者の名はなんと言うのですか?」
朱儁はその問い掛けに一度舌で唇を濡らしてから答えた。
「は、孫堅文台、と。江東の虎と呼ばれし猛将です」
大和と孫堅達が出会うおよそ一ヶ月前の出来事であった。
◆◇◆◇
一艘の船が長江を遡上している。
秣稜を出発しておよそ十数日。船は江夏を遥かに望んで水面を滑っている。
「行雲流水、世は全てこともなし、か。いや、この船上だけがそうで遥か大地には怨嗟とそれを発端とした争乱が溢れ出し始めている、か」
黒髪黒眼の少年が独りごちる。
少年は今、船の屋根の上で一人寝転んでいる。頭の下で腕を組み全身に太陽を燦燦と浴びて物思いに耽っていた。
出航する直前の事――
「私も行くわ」
彼女達に面会を要望すると直ぐに通され実は、と出発のことを話すと返ってきた言葉が冒頭の言葉であった。
薄い桃色の髪を持つ少女の台詞に、黒髪褐色の美少女は額に手を添えて大きく嘆息した。
「雪連、頼むからそういうバカな事は言うな」
「え~、私は本気なんだけどなぁ」
「それがバカな事だというんだ! 文台様にどう言い訳するんだ!」
「冥琳が大栄と一緒に戻って巧く理由をでっち上げてくれれば問題ないと思うな」
その発言に美周郎は拳を握り締め、祖茂は胃の辺りにそっと手を当て、少年は苦笑を漏らした。
「孫伯符殿、少しお話をしようか」
周瑜の声に底知れぬナニカが混じっている。
それを一瞬で感じ取った孫策はやりすぎた、と逃げ道を模索する。
「準備とかもあるし、お話する時間はないかなぁ、って思うんだけど」
「何の準備かは知らんが、お話をする時間は十分にたっぷりとあると思うんだがな」
ヒクヒクと口元を痙攣させつつ逃げようとする孫策。
ヒクヒクと目元を痙攣させつつ追い込もうとする周瑜。
場の圧迫感が物理的に人体に影響を及ぼそうかという状態にまで登り詰めるが、それを一瞬で壊す出来事が発生した。
「孫伯符様、洛陽より御使者がお越しになられました! 今、大広間にて県丞と副将軍が応対中であります。直ぐに孫伯符様を呼ぶように、との事であります」
その言葉に場は一瞬にして別な緊張感が生まれる。
「分かった、すぐに向かう」
祖茂が伝令にそう告げる。
「さて、何だと思う?」
孫策の問いに周瑜は腕を組み黙考をする。
腕を組んだ瞬間、その豊満な胸が大きく寄せ上げられその場に居る男二人は目が釘つけになった。
そしてそんな二人にジトっとした目線を送る孫策。
「……、アレは私のだから上げないわよ」
「そうか、アレは孫伯符殿のか。……仕方ないですね、観察だけで妥協するとしましょう」
褐色の肌に紅い旗袍が映える少女の言葉に、少年は臆せず答え、祖茂はゲフンゲフンと咳を数度して明後日の方に視線を飛ばす。
「そうね、貴方が我が軍に来てくれるなら貸してあげてもいいわよ?」
少女の言葉に、少年はむう、と唸って考え始めた。
そんな少年をニマニマとニヤつく様な笑みを浮かべる少女の頭上に、拳が叩きつけられる。
「いったーい!」
「コレは私のもだ、雪連のものでもなければ人に貸すものでもない!」
凄まじくイイ笑顔で拳を振り下ろした体勢のままジロリと周瑜が少年を見据える。
「観察も止めていただきたいのだが」
「了解!」
少年が最敬礼をして返事をする。
「申し訳ありませんが、なるべく早く……」
駆け込んできていた伝令は所在無さげにそう呟くのだった。
四半時後、既にその場に使者は居ない。朱儁からの指令書を渡すと即座に戻ったのだ。
「皇帝を自称する偽帝許昌を討つべし、ねぇ」
指令書を封切った孫堅はそれを孫国に渡してポツリと漏らす。
「母様と父様の努力が実を結んで、中央までその武名が届いたからこその指令と考えるべきかしら?」
「そう考えるのが妥当だろう、しかし……」
言葉を詰まらせて、黒髪の少女は回ってきた司令書に目を落とす。
そこには洛陽からの命令が書かれている。要約すれば、
『汝、孫堅文台に命ずる。偽帝許昌を手勢で撃滅すべし。会稽周辺の官軍のみ一時的に指揮できる権限を委譲する。以上』
であった。
「矜持だけがやたらと高い官軍が協力をするとは思えないわね」
「ああ、下手をすれば指揮に従わずに逆に敗れる事も有り得る」
孫文台率いる軍は実はほぼ全て私兵である。旗揚げ以降勢力を大きくし官位を得ているとはいえ、実質は義勇軍の色が濃く徐州以外の官軍は彼女達の指揮を良しとはしないだろうと思われた。
紅い髪を掻きあげて江東の虎は決断をする。
「大栄、即座に軍を準備させよ。そして麋子仲殿に糧食及び武器の用意を頼んできてくれ」
「は!」
祖茂は一礼して宿舎を出て行く。
「母様、これは好機よ」
「……それは勘、か?」
「ええ、ただの勘。でも自信を持って確実だと言えるわ」
「そうか、ならば指を銜えて傍観をする事は無い。我等の武名を天下へと鳴り響かせ打って出ようではないか」
母娘の二人は不敵な笑みを浮かべて頷き合う。
「という訳で、今回は一緒に行け無いわ」
孫策の言葉に、少年は肩を竦める。
「次回を楽しみにしておきますよ。まあ孫文台様と孫伯符様が指揮をし、孫孟呉様と周公瑾様が補佐をするんです。烏合の衆が幾千幾万集まろうと敵ではないでしょう」
「そうかな? 戦いは数でもあるぞ?」
「鼠が幾万集まろうと虎に率いられた軍団には敵いませんよ、油断さえしなければね」
周瑜の皮肉めいた言葉に少年は答える。
「武運を遠い船上から祈っておきますよ」
そろそろ、孫家軍は偽帝討伐を始める頃合だろう。
少年は船上より、これから訪れる動乱に思いを馳せる。自分には何が出来るのか。そして――
上半身を起こしガシガシと頭を掻くと一言。
「まあ、とりあえず流されますか」
「大和殿、その様な場所に居たのか、こっちで一緒に昼餉を食そうではないか」
取りあえず様子見を決め込んだ少年に、趙雲が声を掛ける。
声の方に視線を転じれば、そこには少年に着いて来た三人の少女が手を振っていた。
「彼女達も物好きだねぇ」
そう独りごちると、少年は応、と答えて三人の下へと向かうのだった。