序 始まりの旅 弐
隊商は一路、曲阿へ向かっていた
下邳から東へと進み、南へと向き替え旅を続けると淮陰へと至る。
淮陰を抜け更に進み、一週間後には海陵へと辿り着いた。
ここから船へと乗り込み、長江を南西に進む事二日、曲阿に入港。
曲阿より陸路を東に行くと呉へと至り、西に向かうと秣陵へと辿り着く。
曲阿に着いた一行だが、ある報せに麋竺が顔を顰めさせている。
「呉周辺で叛乱、ですか」
出来れば海陵を出る前に知りたかったですな、と麋竺が零している。
淮陰より海陵までの広陵一帯は太守・趙昱が治めている。その統治振りは国の模範とすべきと言われるほどであり、旅の間一度も襲われることは無かった。
「まあ、居辛くなった賊共は長江を渡って暴れやすい場所に来た、という処ですかな」
趙雲の呟きに頷く。
「このような事を申すと語弊がありますが、呉でも会稽よりでの叛乱です。我々の行き先で無いのが幸いです」
我々の目的地は秣陵ですからな、そういって麋竺は出発の準備をする為に離れた。
「して、大和殿はどう思われましたかな?」
ニヤリと意地の悪い笑いを浮かべ、紅い槍の少女は少年に聞く。
「特に何も」
が、素気なく少年は答えた。
「無辜の民が襲われているのに何も感じないと?」
「俺が今やるべき事は麋先生とその一行を護るべき事で、見ず知らずの人間を護ることじゃあないですよ。それに……」
「それに?」
「目に見える人間を助けるので今の俺には手一杯です。それ以上の事はちょっと無理ですね」
苦笑をし、両肩を少し上下させて答える少年。
「何を言う、私とお主であれば千程度の賊なら、瞬く間に切り伏せる事が出来よう!」
そう言うや否や、蝶の様な白い袖を翻し愛槍の龍牙を一振りさせ、風切音を発生させた。
「また無茶を言いますね趙子龍殿。俺如きにそんな事は無理ですよ」
「それに賊が千程度とは限らないのですよー」
今まで姿が見えなかった風と稟が連れ立って現れる。
「少し情報を集めてきたのですが、かなりの規模のようです」
「そうなのです、今回の叛乱の首謀者は黄龍羅及び周勃というお名前のようですねえ」
この二名、元は数の少ない山賊の頭目と副頭目であった。しかし長江の北側から逃げ出してくる荒くれ者を少しずつ配下に加え、気が付けば数千を越える大規模の集団になった。
当然、これだけの規模の山賊になると官軍から目をつけられる。
呉の太守はこの時、任命を受けながら赴任せず不在の状況であった。しかし山賊は当然討伐しなければならない。
仕方なく、任官している者だけで討伐軍を編成し、出撃をした。
しかしそれでも相手は、ただ暴れるだけで規律のない集団と、統制の取れた官軍であれば勝つのは明白。討伐は時間の問題だと思われた。
事実、官軍は接敵する賊に対して連戦連勝、中には見ただけで退却を始める集団も出はじめた。
所詮は賊、鎧袖一触、楽な討伐戦だ――指揮官は完全に敵を侮り、その空気は次第に下位の兵たちにも伝染し緊張感も規律も無くしていった。
しかし、それこそ黄龍羅と周勃の二人が仕掛けた計略だった。
油断し緩みきっていた官軍の陣地に一夜、突如押しかけたのである。
官軍は逃げ惑うばかりで山賊に散々に打ちのめされ、ほうほうの体で呉に逃げ帰ると堅く門を閉じ閉じこもってしまった。
その結果、わが世の春よと、賊は大暴れしているのである。
「現在はその数を一万にまで増やしているそうです、いくら星といえど一人で倒すのは無理でしょう」
稟が眼鏡の位置を直しつつ問いかける。
「ははは、私一人であれば無理であろうが、大和殿が居ればどうということは無いであろう?」
「いやいや、そこで俺に問いかけられても……、そもそも何故俺がそんな大軍と二人で闘わねばならないんですか。俺はそんな数を相手に生き延びれるほど強くないですよ」
手をひらひらと目の前で振りながら少年が拒む。
「それに、趙子龍殿は俺の事を強い強いと言うけどそんなに強くないですって」
少年の言葉に、紅い槍を持つ少女がむう、と眉間に皺を寄せる。
「まあどのみち私達は麋子仲さんのお供で秣陵行きなのですよ。進行方向が完全に別向きなのでどうしようもないのですよ」
風の言葉にがっくりとした趙子龍だった。
◇◆◇◆◇
曲阿港を出発した一行は、一路西へと向かう。
目的地は秣稜。江東でも屈指の人口を誇る県である。
秣陵――後に建業と改名しさらには建康、江寧そして現代では南京と呼ばれる。
秣陵は元々、春秋時代に呉という国が築いた都市である。戦国時代に入ると楚が占領する金陵邑とした。
後に秦が中華全土を統一事業達成すると始皇帝を名乗った始皇帝が全国を巡幸を開始した。ある時その巡幸がこの地に及ぶ。
『この地は王者の気を持っていますぞ』
望気者、と呼ばれる随行者が始皇帝へと語ったという。
王者の気――この国の王都になる、という事である。若しくはなる事が出来るというこであろう。
その言葉に始皇帝は激怒したという。
『中華の王者は咸陽だけである!』
と、言ったかは定かではないがその行動はより過激であった。
その地の民を動員し、山を削り地勢を変え気脈をかえようとしたのである。そして、『金』という文字を消し『秣』という文字をあて『秣陵』と変えたのである。
秣とは、馬や牛の餌であり金の様に価値が無く家畜の餌程度の物である、という始皇帝の意思表示であった。
「その様な歴史のある場所なのですが、今のところは誰も治めていないのですよー」
風が馬車の荷台に揺られながら今から行く場所の説明をしてくれる。
「その為治安もあまり宜しくは無いのですが、暴利を貪ろうとする役人も余り居ない為商売としては良い場所なのです」
治安が悪い分危険が大きいんですがね、麋竺がそう続けた。
「ただ彼の地には今、とても頼りになる人物が駐屯しておりまして」
私はそのお方に荷を運んでいるのです、と麋竺は莞爾と笑ったのであった
曲阿から秣陵まで約三日。
一行は遂に秣陵へと辿り着いた。
その秣陵の城壁には幾つもの軍旗が翻り、その中に一際大きくはためく赤地に『孫』と標されている牙門旗。
その旗の下にある門の前には十数の騎影が立ち塞がっている。
「遠路遥々よく来てくれた、麋子仲殿」
その中の一人、一際大きな威を放つ人物が歩み寄る。
赤い髪に褐色の肌、額に赤く十字架のような刺青が彫られている。鋭い眼光は虎の如く、その身より発せられる覇気は猛る虎の如し。
鮮やかな紅色の鎧を纏い進んでくるその女傑――
姓は孫、名は堅、字は文台
江東の虎と呼ばれし猛将であった。
孫堅文台――
その武名は江東から荊州、徐州、豫州に掛けて特に鳴り響いていた。
曰く、一人で大軍を率いている振りをして江賊を撃退した。
曰く、わずか数人で数千の軍に突撃し賊将を一刀の元斬り倒した。
瞬く間に広がった彼女の名声と武勇に役人は彼女を召出し、県尉(地方都市の警察長官、又は軍事長官の事)へと任命した。
任官後も彼女の活躍は留まらず、今は下邳県丞(県令の補佐役)にまで位を昇らせていた。
「これは孫県丞、御久しゅうございますな」
そう言って麋竺が礼をする。
「下邳城からここまで問題なかったかい?」
「護衛のものがよく働いてくだいました。それに広陵よりは趙太守、曲阿よりは孫県丞のお陰で一度も賊には出会わず良い旅でした」
「はははは、煽てても何も無いよ」
気持ちよい笑い声を上げ、満更でもない笑顔を浮かべる。その際に重い金属音が鳴り響いた。
「進捗状況は如何ですかな」
麋竺の問い掛けに孫堅はフンと鼻を一つ鳴らしにやりと笑う。
「陶太守はかなり気を揉んでおられる様だね。かなり傷んでるからね、そう簡単には直りゃしないさ。まあ、もう少し時間を掛ければ問題は無いだろう」
「赤蓮いいか?」
やれやれだ、といった感じの彼女に一人の偉丈夫が声を掛ける。
孫堅と対を為す様な形の、蒼い縁取りをした白い鎧。
がっしりとした体格に、口周りに蓄えた黒い髭には少し白いものが交じり始めている。
丁寧に後ろに流された黒い髪にも白髪が混じっているが、壮年と言って差し支えの無い年代の人物だ。
「そろそろ日が暮れる、今日の作業はそろそろ終わらせようと思うんだがどうだ?」
その偉丈夫の言葉に、少し考えてから彼女は頷く。
「それじゃ手配を頼むよ、それが終わったらまた来てくれ」
了解、とその偉丈夫が答えると兵に向かって終了の準備を伝達していく。
「相変わらずのオシドリ夫婦ですな」
城壁に暮れ往く巨大な夕陽に向かって去り行く背中を見つつ、麋竺がからかう様に声を出す。
「ああ、羨ましいかい?」
堂々と惚気る江東の虎、その顔は夕陽の所為かそれ以外の何かが原因なのか、自分の真名の如く赤く染まっていた。
一行は孫堅が用意してくれた宿舎で荷を解き寛いでいる。
「ふう、今日はゆっくりと寝れる」
とは、一人の少年の言葉であり、
「今宵は酒とメンマがさぞ美味かろう」
とは、赤い槍を持つ白い少女の弁である。
「姓は孫、名は堅、字は文台という。以後よろしく頼むよ」
県城の少し大きめの食堂。
鎧を脱ぎ、武装を外した孫堅が一同に名乗る。
腰まで届く赤い髪、胸元が大きく強調され腰まで深く切り込みの入った旗袍は赤紫で統一されており、白い色で縁取りされている。
「某は孫国という、字は孟呉。孫文台の夫だ、まあ入り婿だがな」
わははと笑いながら偉丈夫、孫国が自己紹介をする。
鎧を脱いだ下からは、見かけにたがわぬ体躯を誇っている。 褐色の肌に白い丈の短い上衣に長い筒袴が更にその体躯を際立たせている。
二人とも戦場で鍛えた身体であり、無駄な部分が何処にもない。
覇気と鍛えられた肉体が、二人の強さと存在を更に傑出させている。
「しかし麋子仲殿、中々の人物を連れておられるな」
そう言った孫国は、麋竺の背後に居る四人を見る。
そこには二名の知に秀でたであろう少女と、武勇にも統率にも優れた才を持つであろう少女。そして、もう一人。
(儂や赤蓮の覇気を浴びても顔色ひとつ変えんとはな。何も感じておらん? いや、それはあるまい)
少年を注意深く、しかし失礼にならない程度に眺める孫国。
「どうかされましたか? 孫孟呉様」
そんな孫国の様子に少年が訊ねた。穏やかな声、そして表情。
「む、不躾であったな謝罪しよう」
同時に軽く頭を下げる。
「いえ、御気になさらないでください」
頭をお上げください、という少年の言葉に孫国は素直に従う。
上げると同時、少年の隻眼と目が合った。右目を奇妙な黒い物体で覆い、左目のみが孫国を見つめている。
「この目、ですか?」
少年の問いに反射的に頷く孫国。そんな二人の取り巻く雰囲気に周りのものは声も掛けられず凝視している。
「大したことはありませんよ。幼少に少しありまして、現在に至ってるだけです」
全く説明にもなっていない返事を返す。その顔にうっすらとした笑みを浮かべて。
(……成程な)
重ね重ね済まぬ、そう再度謝罪しつつ孫国はひとりごちる。
「よろしいですかな、孫副将。そろそろ、彼女等を紹介したいのですが」
麋竺の場の空気を変えようとする発言に全員が同意する。
「母様、入るわよ」
その時、声と同時に出入り口より三人の女性が入ってきた。
「私たちをのけ者にして宴会なんて許さないんだから」
「そうじゃそうじゃ、酒は皆で飲まねばいかん」
「雪蓮、祭殿も客人の前だ。みっともないことをしないでくれ」
「何よ冥琳、一人だけいい子にるつもり?」
そして三人の女性がワイワイと騒ぎを齎した。
「三人とも客人の前だ、静かにしないか」
孫堅がやれやれと首をふりながら三人を窘める。
「済まないね、礼儀という言葉をどこかに無くして来た様な娘でね」
「母様には言われたくないわね。それに端から礼儀なんて持ってないわよ」
「頼むから最低限の礼儀位は身につけておくれ」
もう遅いわよ、と雪蓮は答えるとある一点に視線を留める。
「へぇ、貴方面白いわね」
それが江東の小覇王、孫策白符の少年に対する第一声であった。