序 始まりの旅 壱
響きわたる怒号。
鳴り響く剣戟。
百人程が、二組の集団に別れて闘争を繰り広げている。
但し圧倒的少数、僅か二名を集団と数えてもよければだが……。
ヒラヒラと、白い蝶の様に袖が翻る。
群がる敵を交わし、蜂の様な一撃を躊躇いなく敵に叩き込む。
槍が一閃するたび複数の敵が吹き飛び、返す一撃で更に倍の敵が弾け飛ぶ。
「ふむ、やはりこの程度の匪賊共など相手にならぬか……」
少女は手応えのない相手に不満を感じつつ確実に賊を仕留め続ける。そしてチラリと横目に轡を並べて闘う相方を見る。
相方は少女と対照的な戦闘を繰り広げていた。自身の様に圧倒的速度で攻撃を躱すのではなく、必要最小限の動きで紙一重で交わしていく。また、神速の一撃で敵を屠る自分に対し、見た目にはゆっくりとした、十分に目で追える程の速度で叩き込まれる攻撃が、何故か相手は躱すことも捌くことも出来ず一撃を貰って崩れ落ちていく。
「いやはや、やはり世間は広いな。この様な武人が未だ世に潜んでおるとは」
少女は一人呟く。その口元には笑が溢れる。
「趙子龍殿、闘いの最中に余所見をして笑うとは余裕ですね」
少女の名は趙雲といい字を子龍という。
冀州常山郡真定県の出身で、自身『常山の昇り龍』と呼ぶ豪傑である。後に『子龍一身之胆也』と称されるその勇猛さと合わさって頭角を現すことになる。
「はははははは、貴殿の様な武人を見ると嬉しくなるのは当然であろう。この後にでも一戦如何か?」
大輪の花が咲いた様な邪気なき笑みを浮かべて問い掛ける。
「冗談はメンマだけにしてください。仕事を終えたら俺は寝るんですから」
嘆息して少年は答える。答えると同時に拳を一閃、胴を強かに打たれた賊は声を上げる間も無くもんどりうって倒れる。
「む、メンマを冗談とはどういう了見か! 一度お主にはメンマの素晴らしさを説諭してやらねばなるまい。その為にもやはり一戦しなければな、逃げるでないぞ」
ニヤリ、と物騒な笑を浮かべて容赦なく賊を駆逐していく。
「……はぁ」
少年は溜息を一つ。
「な、なんて奴らだ!」
「俺達じゃ歯が立たたねぇ!」
「に、逃げるぞ!!」
二人の圧倒的な強さにその数を十数人にまで討ち減らされた賊は、一人が逃げ出したことによって残りの全員が一目散に逃げ出す。
「残念、逃がさない」
少年がそう独語すると、凄まじい速度で走り出す。
同じように趙子龍も駆け出し、瞬く間に逃げ出した賊に追いつき、打ち倒していく。自分の眼前を逃げている賊を全て倒しきる頃には、あの相方も倒しきっているだろう。
さて、いかにして刃を交えるか――
少女の思考は既に、少年との駆け引きへと向かっていた。
高祖劉邦が興し、光武帝劉秀が中興を果たした大帝国漢。
この当時最大規模の領土と人口を誇る巨人は、だがしかし着実に滅びの一途を辿ろうとしていた。
北方と西方より鮮卑や匈奴、それに羌族が国境を深く進攻して略奪を繰り返し、中央で皇帝の外戚と宦官が権力争いに明け暮れていた。
当然の事ながら中央の目は地方に届くことも無く、地方領主は民より税を搾取し自身の権力に溺れていた。
時代は、動乱へと進み始めていた。
ここはそんな時期の一地方、徐州南東部広陵へと向かう街道――
賊を退け、稽古と言う名を借りた一騎打ちをやろうと期待した眼差しで流し見してくる趙雲を無視して、少年は少し先の岩場の影に向かう。
岩とはいえ、それは小さな丘に匹敵するほどの大きさだ。その影に数十名を数える人影と、大きな荷馬車が数台。そして先頭の馬車には大臣然とした中年の男が座っていた。
「お待たせしました麋先生。賊は追い返しました」
「おお、有難うございます。これで安全に目的地に向かうことが出来ますな」
そう報告をする少年に、麋竺は笑みを浮かべて応対する。
そんな二人の会話にそこに居た全員が安堵の表情を浮かべる。
中肉中背で豊かな口髭を蓄えた麋竺は一つ合図をする。その合図に合わせて奉公人たちが荷馬車に群がりガラガラと動き出した。
「いや、お二方がいらして大変助かります」
満面の笑みを浮かべ再度麋竺が礼を言う。
荒涼とした大地、幾筋かの轍が同じ方向に伸びている。何千何万と行き来をした証を刻まれた街道を今、一行は東へと進んでいる。
麋竺は年の頃三十半ばの背の低い男である。
背の割にはがっしりとした体躯。しかし肥満ではなく鍛えられた体躯である。
口髭が豊かで顔には常に笑みが浮かんでいる。
徐州・下邳にて商人としてその名を響かせている男である。暴利を貪らず下は民から上は太守に至るまで皆に信頼を受けている。
麋竺は今、本拠地の下邳より江東にある抹稜へと商いをする為に隊商を率いて向かっている最中である。
本来であれば大量の護衛を雇い入れ、商売敵や盗賊等に備えるべき旅なのだが、
「助けていただいた恩義を返す善い機会ですね」
と言って少年が声を上げ、
「ふむ、まだ江東には行っていなかったな。面白そうだ、どれ私も行こう」
と、偶々逗留をしていた少女、趙雲が同行を申し入れた。
「ああ麋子仲殿、路銀尽きた我等を奇特にも助けていただいた恩、この旅でお返しいたそう。何この趙子龍あるかぎり、賊の百や二百どうという事も無い。こやつも居る、大船に乗ったつもりで護衛はお任せくだされ」
その彼女の一言で何か思うところがあったのであろう、麋竺は護衛を彼女等以外必要最低限しか雇わなかった。
「星殿が行くのならば私達も一緒しましょう。私達も江東は見ておきたい」
「そうですねえ、見ておいても損はないと思うのですよー」
と、趙雲と一緒に旅をしていた少女二名も一緒に来ることになった。
星、というのは趙子龍の真名、というものである。
姓は趙、名は雲、字は子龍、真名は星。
これがこの『世界』の名前である。但し、真名は本人が認め託した者以外は呼んではいけない神聖なものであり、うっかり言おうものならずんばらりん、殺されても文句を言えないのである。
「それにお兄さんを観察するには丁度良いと思うのですよ」
「風!」
「と、稟ちゃんがー」
「あ、貴女という人は……」
風、と呼ばれた少女は、姓名を程立字を仲徳という。
兗州東郡東阿県の生まれである。人よりもかなり小柄であり、頭部には不思議な塔を模った被り物をしている。しかし、その智謀は他の追随を許さず、見識の確かさと先を見通す眼力によって、己が主人を確実に勝利者へと導いた才人であった。
もう一人の少女、名は戯志才、真名を稟。
頴川郡陽翟県の人で、後に『その智、神算也』と謳われた名参謀である。戯志才、とは偽名であり、本名は郭嘉、字を奉孝という。若年より洞察力に優れ、将来の見通しの確かさからその名は有名であった。しかし、本人はそれを好まず偽名を使い、俗世間から離れて見聞の旅に出た。その中途まず程立と出会い、意気投合をして共に旅をし、さらにその後、趙雲とも出会い三人で各地を巡っている。いずれ見えるであろう自身の主君を探して。
「でもでも、凛ちゃんもそれなりに気になっているのでしょう?」
風の問いかけに、凛は眼鏡を押さえつつ溜息を一つ。
確かに興味を引かれる対象である事を郭嘉も自認する。何故か会って直ぐにあの風がお兄さん、と呼びかけた事も十分に驚嘆に値する事であろう。
程立はのほほんとした少女に見られるが、その実軍師としての能力と策を実行する力と冷徹さを兼ね備えている。その彼女がなんのてらいも無くお兄さんと呼ぶのだ。当然気になる。
更にもう一人の同行者星。彼女も並々ならぬ興味を少年に持っているのが良く判る。武に関しては全くの素人、才能は無いであろう自分でも判る、星の武は他者から抜きん出ている。多分この中華でも五指に入る武の体現者。
その彼女が呟いた一言。
「私より強い、か。世界は広い」
彼女自身、今まで星以上の武人を見た事が無い。
若しや中華最強とは彼女では、とまで考えていたその彼女が呟いた一言。当然興味持っても当たり前であろう。
更に、存在感又は醸し出す雰囲気と言ってもいいだろう、他の人と違い捉えきれないという事も彼女の生来の気質に訴えかける。
今此処で彼を逃せば、もう二度とこんな人物には出会えないのではないか――
強迫観念にも似たその思いは、彼女のその裡に育ち始めている。それは風も同じであろう。
また腰に吊るした武器、彼はカタナと言ったか、あのような武器は今まで見た事がない。
自分達の知識の外にあるモノを持ち、纏い、捉えきれぬ少年。
そして、彼女の観察は更に具体的に少年の身体的特徴にまで及びだす。
長身、とまではいかないがそこそこの身長の高さと痩せ型だが鍛えられた体躯を持つ少年。
「何故よく鍛えられてると知っているのですか~」
「昨日、彼が中庭で上半身裸で素振りをしているのを見まして、って風! 人の考えを読まないで下さい!」
「ぐぅ」
「寝るな!」
「おぉ!?」
後に嘉奉孝はしみじみと述懐したという。風のあの能力だけは理解できない、と。
風の邪魔により、稟の思考はそれ以上先に行く事は無かった。
彼女は何とはなしに、少年の後姿を捉えている。
少年が身体を動かすのに付随して、襟足辺りで括られている髪がヒョコヒョコと動くのを見て少し癒されている自分を自覚する。
衣装と装備、それ以外は身体的には私達と変わりが無い何処にでも居る普通の青年期に入りかけている少年。
しかし、醸し出す雰囲気、星殿が認める程の武を体現者、意志の強さと理知的な輝きを放つ瞳。興味をそそられて当然だ。
この旅の中で彼を少しでも捉える事ができるであろうか。
大和史崇――やまとふみたか、という人物を。