序 始まりの旅 拾壱
新野を抜け更に北上を続けること数日。一行は南陽郡の中心地・宛へと辿り着いた。
宛にて数日、今まで通り見聞を広げ、情報を仕入れるとそのまま北西へと歩を進める。その先には武関・潼関を経て、長安へと至る。
約四百年前、後に太祖・高祖と称される劉邦と西楚覇王と呼ばれる項羽がまだ同陣営にて、秦打倒の旗の下闘っていた時の話である。
当時の楚王である懐王は親しく二人を招き、こう言った。
「先に関中に辿り着いた方を関中王とする」
と。
項羽は、本隊を率いて趙から咸陽へと向かい、劉邦は別働隊を率いて西進をした。
項羽率いる本隊は全戦全勝であり、敵を見れば戦い、城があれば全て戦闘で落とした。
劉邦率いる別働隊は、降伏する者は許し、極力戦闘をせず先へと進軍する。
劉邦は彭城から陳留・開封を経て南陽へと至ると、そのまま武関・嶢関を策によって落とし咸陽へと入る。
咸陽はこの時代長安と呼ばれており、一行はその太祖が通った道を進んでいるのである。
「結局、この時の戦い方が後の楚漢戦争に大きく響いてくるのですよ」
「項羽による秦軍二十万大虐殺ですね」
風と稟が歴史談義を星と少年に語る。
「項羽はそれ以前にも、叔父を殺されたことを恨んで、叔父を殺した敵将が篭っていた城の住民も皆殺しにしています」
「それだけ殺しまくれば、天下もその手から転げ落ちて、他者の手に渡ってしまいますね」
二人の話を聞き、少年はその後の結果に思いを馳せ頷く。
「秦の圧政に耐えかねて各国で蜂起が多発し、叛乱が相次ぎました。今も同じ様な様相を呈してきています。一体どうなるのか」
「考えられるのは二通りだな」
稟の言葉に、星が答える。
「このままか戦乱が来るか、この二つだろう。お主はどう思う?」
星の視線は少年へと向けられる。
「そうですね」
そう言うと、少年は暫し無言を貫く。そしてこの頃は癖になったのか、思考の海に行っている時は腰に佩いた双剣の柄をなぞる様に触っている。
「このまま行けば当然、動乱の時代になるでしょう。秦打倒時の様に、いくつもの群雄が割拠する時代が来る、と思いますよ」
そういいつつ、どこか確信を持ったような口調である。
「外から眺めただけですが、内側から再建をするとすれば、既得権益や伝統等悉く壊さなければ出来ないでしょう。ですが……」
共に旅する三人に目を向け、少年は続ける。
「それには途轍もない労力が必要です。で、あるならば外に出て、外から叩き壊せばいい。そうすれば、守らなければならない伝統や柵など、いとも簡単に無視できるんですから」
自分の思う様な国が作れるのです、そう時代は流れますよ――
その後四人は、数刻の間語らいも無くそれぞれの思考へと泳ぎだしつつ歩を進めるのだった。
◇◆◇◆◇
人類が文明を持ってからの歴史が、人と人が出会った瞬間から生み出されるものだとするのならば、この少年が江東から荊州に至り、長安から洛陽に進むこの旅は正に歴史を動かす旅であったと言える。
本人達が意識したはずもないが、彼ら彼女らの出会いはこれから始まるであろう動乱にかなりの影響を及ぼしたからである。
正史にて少々の記述がある以外、演義には登場せず別伝すら建てられなかったこの少年の最大評価とはもしかすればこれら英雄を出会わせ、力を束ねさせたことであったかもしれない。
しかし、残りの御使いと称せられる二人についても同様の評価は必要であり、戦場に於いて、内政に於いて輝かしい足跡を残し、後に民衆に熱狂的に支持される演義にて曹孟徳や劉玄徳に関雲長、孫伯符等の主役と同等の人気を博す彼らと比較するのはかなり無理があるであろう。
とはいえ、ここまでの記述についても丹念に別伝を調べれば、この少年と行ったであろう出来事をそれ程苦労する事もなく見つけ出す事が出来る。
例えばであるが、趙雲伝にこの様な記述がある。
『趙子龍は若い頃旅をした。程仲徳と郭奉孝と出会い共にし、その後仲間を増やして江東から荊州へと至る。荊州にて黄漢升を知り、徐元直を彼より教わる』
この名前も出ぬ『彼』が、他の別伝にも多数登場するにおいて、敢えて名を伏せその存在を隠したのではないか、それ故正史いや歴史に埋没していったのではないだろうか。
ともあれ、まだ物語は始まってもいない。ここは話を進めて行く事とする
◇◆◇◆◇
王都・洛陽――
皇帝の居住区であり皇族と、認められた者しか出入りを許されない内廷の廊下を一人の女性が歩いている。
小柄な体躯、歩く度に揺れる黄金色の髪。
司徒袁隗その人である。
蝋燭が幾百と並べられているとはいえ、既に夜も更け始めた時間帯である。かなりの暗さであるが、彼女は迷う事も無く目的地へと辿り着く。
「主上、お召しにより参上仕りました」
「入れ」
「は!」
それと同時に扉が内側に開き始める。
「袁司徒様、どうぞ」
顔を上げずに扉の前に控えている袁隗の頭上より玲瓏な声が降り注ぐ。
「失礼仕ります」
顔を上げる事無くそのまま室内へと入る。
「主上におかれましては……」
「その様な挨拶など良い、面を上げよ」
「は!」
眼差しを少しづつ上げていき、そして顔全体も上げていく。
目の前には自分よりも少し大きいな体躯の女性が着座しており、とても女性らしいメリハリの着いた女性が脇に控えている。
(いつ見ても二人も御子をお産みに為られているとは思えないわね)
自分の事も人には言えないがと、心の中で呟く。
薄い薄い紫色の中に先だけが赤みがかっている髪。軽く波打ったそれは、色素が抜けたような白い肌と相まって神秘さと同時に空虚さが感じられる。紫水晶を切り出したような瞳は大きくしかし、その美しさは幼さを多分に含んでおり、彼女の年齢と比例するように浮世離れした感を演出していた。
後漢王朝第十二代皇帝・劉宏その人である。
年齢は既に三十代に少し足を入れている筈であるが、まだ十代半ばといわれても誰も疑わないであろう。
その斜め後ろに控えている女も劉宏とは違った艶美さがある。
姓は蔡、名を琰、字を昭姫という。
腰の後ろまで伸びる白銀の髪は、月光が雪原を輝かせるような幻想的な美しさを帯びている。切れ長の大きな目、闇夜の如き暗さ程の黒い瞳は艶やかに輝き、唇は紅くその小さな様は緋牡丹の様に美しい。
「蔡昭姫殿も居られましたか」
袁隗の確認に薄っすらと笑みを口元に湛えて軽く会釈をする。
「この様な時刻に済まぬな」
「勿体無いお言葉、畏れ多い事で御座います」
劉宏の言葉に袁隗は額づくが、劉宏に声を掛けられ直ぐに頭をあげた。
「して、何の様な御用向で御座いましょうか」
「うむ……」
袁隗の問い掛けに対し、しかし直ぐに劉宏は答えない。
暫し何かを考えるように小首を傾げ言葉にしあぐねている様だが、幾度か小さく頷くと玉音を発した。
「朕の問いに隠し立てする事無く答えよ。良いな?」
「はっ!」
「後何年持つ?」
「……はっ!?」
主語も何も無く直截的な質問に流石の袁隗も詰まる。
「主上、それでは袁司徒様でなくともお答えになる事は出来ないかと」
「む、そうかの?」
「はい、何が後何年持つのか解りませぬ」
袁隗はその会話を耳にしつつ冷や汗を流す。そしてチラリと視線を蔡琰へと向ける。その視線を敏感に感じ取ったのか彼女もまた此方へと視線を返し小さく頷いた。
その瞬間、冷や汗が脂汗へと変わる。
「袁司徒、漢はどれほど持つ?」
劉宏の問い掛けに、袁隗は沈黙を持って答える。
先程まで上げていた顔はまたも下を向いている。
「朕は感じておる、いや聞こえておると言い直した方が良いかの。この漢という国が上げている悲鳴を。苦痛を伴う喘ぎをな」
十常侍共は何も言わねばばれぬと思っておるようだがの。
と言の葉を紡いだ。
御主は朕に隠し事はせぬよな? と、言外に圧力が掛かる。
(ああ、やはり聡明であられる……)
そして、袁隗は下唇を血が滲むほどきつく噛みしめ、遂に答えを口にした。
◇◆◇◆◇
悄然とした背中を晒して袁隗は回廊を戻る。
先程までの皇帝との秘密裏の会合が心を暗澹とさせていた。
悄悄とした深更の闇を割いて歩いているとわずかに気配を感じた。
その気配に気付き顔を上げるとそこには、十常侍が一人・張讓が佇んでいた。
「これはこれは袁司徒様、この様な夜更けに内宮から戻られるとは何事か出来しましたかな?」
宦官特有の甲高い声を猫撫でにしてニタリ、と形容する様な気味の悪い笑顔を貼り付けて尋ねてくる。
「これは張中常時殿、夜も更けようというこの様な刻限まで宮殿に居られるとは、骨折りでございますね」
「我等は常に王朝の、そして主上の為に御奉仕しておりまする。夜間だとてそれは変わりませぬ。袁司徒様にその様な御言葉を戴くほどの事ではございません」
張讓の言葉に袁隗は一瞬顔が引き攣りそうになるが、意思と筋肉を総動員してそれを何とかとめる。
貴様等がしておるのは専横と金儲けのみであろうが――
袁隗は胸の内でそう思い浮かべつつ、顔には笑顔を貼り付ける。
「その御心、真に善きものです。主上もさぞお喜びあそばられましょう。何、今日は有難きことに母として、また女性として御言葉を戴いただけの事です。何事も出来しておりませぬよ」
「左様で御座いましたか。差し出がましいことを聞き真に申し訳ございません。これも職務上止むを止まれぬ事ゆえ、どうか御寛恕たまわりたく」
爬虫類のそれに似た気味の悪い顔だ、特に縦に長い瞳が気味が悪い――
張讓の視線が此方に向く度、鳥肌が立つような気分になる――
埒外の事を思考しつつ、袁隗は鷹揚に頷く。
「張中常侍殿の役処でもあるのです。当然の事と思えど怒る等ありえませんよ」
ご苦労様です、では――
軽く顎を引いて礼をすると袁隗は歩き出す。
屋敷に戻ればまず湯浴みをする。そして張讓の視線が向けられた場所全てを綺麗に洗い流さなければ今宵は気持ちよく眠れそうにはない。そう胸の中で独語しつつふと空を見上げる。
満天見事な星空である。
「いつか、この空の様な晴れやかな気分でのんびりする事ができるのでしょうか……」
暫し星空を見つつ、しかし直ぐに視線を下へと向けて歩き出す。
今やるべきは王朝の安寧と民の慰撫。上を見上げるべき時ではない。
自分にそう言い聞かせて袁隗は行く。
だからであろうか、ついぞ彼女は気付く事が無かった。
その星空を真っ二つに裂くが如き巨大な流星が二つ。東の空に流れたことを。
戦乱の世は、直ぐ其処まで迫っていた。