ういべる。
これはとても意外なことなのだけれども、彼はクリスマスが大嫌いだった。
普段の彼は敬虔なクリスチャンで、毎週日曜日の礼拝は欠かさないし、それ以外のときも頻繁に教会に足を運んだり、ほかの信者の人たちと歓談を繰り返しては奉仕活動に身を捧げる。典型的な良い人なのだ。
聖書の言葉を守り、自他の失敗を許し、人間というものの存在を穏やかに、しかし力強くつかもうとする、私にとって尊敬できる人なのだ。
だからこそ、彼がそれでもクリスマスという祝い事を嫌っているのは違和感があり、気になってしまい、ついに本人に何故なのかと問うてみた。すると、彼はこう言い放った。
「クリスマスというだけで皆はお祭り騒ぎ。家族団らんの時間を作るのも、恋人同士で語らう時間を作るのも、それ自体は歓迎すべきことなんだ。でも、僕にはどうしてもわからない。どうして、イエスが降誕なされた時にならなければ、彼らは時間をかけて向き合うことができないのだろう、と」
私は呆気にとられた。彼は商業主義的風潮(バレンタインデーに女性が男性に告白をするというイベントに、日本ではチョコを贈り物として贈る文化が一部の企業によって根付いた……だとかそういう話)を嫌っているのではないか……と想像していたのだが、それは違ったようなのだ。
「ははは。確かに、商業主義というか、商売が優先されてる風潮は感じないこともない。でもそうやって人々のあいだに関わりが生まれているのであれば、僕はそれを否定するだけの理由を持ち合わせていないからね。まあこれは、人によって意見がいろいろ分かれるところだけど」
しかし、向き合うことならいつでもできるのだし、別にそこに突っかかることもないのでは?と私は思うけど。
「人間……いや、動物と呼ぶべきか。その理性と言われるものに限界があるというのは、理解はできているつもりなんだ。一週間というものを決めて、安息日を設けなければ何もせず神に向き合うことすら叶わないなんてね。でも、どうしても、そうやって縛られて生きていくほかはないのか、と思案してしまうんだよ」
縛られて生きていく、以外の道……。
「例えば、傘というものが、元々は日傘として使われていて、雨傘としての使われ方をされ始めたのは本当にごく最近のことだという話もあるくらいだから、そういう思考の転換、みたいな出来事が起こらないとも限らないとは思うんだ」
「もっとも、僕のような凡庸の中の凡庸みたいな人間が、思考の転換やら、縛られぬ生き方を追い求めるというのも、なかなか矛盾したお話かもしれないけれどね」
そうやって自嘲気味に言う彼の姿を思い出すと、なんだかもやもやした気分にさせられるのである。
即興小説トレーニングより
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お題:許せない凡人 必須要素:傘 制限時間:30分