婚約破棄の条件は、王子殿下が決めたことです
王都の大広間には、華やかな音楽が流れていた。
今夜は王太子エドガルドと、侯爵令嬢クラリッサの婚約を祝う夜会。
本来ならば、二人が並んで踊るはずの舞踏会だった。
しかし、エドガルドは壇上に立つと、集まった貴族たちを見渡した。
「皆に告げる。私はクラリッサ・ベルナールとの婚約を破棄する」
音楽が止まった。
貴族たちの視線が、一斉にクラリッサへ向けられる。
彼女は手にしていたグラスを給仕に返すと、静かに顔を上げた。
「理由をお聞きしても?」
「お前は私の婚約者として、あまりにも冷淡だった。私が愛するミレーヌに対し、幾度となく侮辱を加えたと聞いている」
エドガルドの隣には、子爵令嬢ミレーヌが立っていた。
彼女は王太子の腕にそっと手を添え、悲しげに目を伏せている。
「私は、殿下にふさわしい女性ではありませんでした」
クラリッサはそう答えた。
エドガルドは満足げに頷いた。
「分かっているなら話は早い。これより、お前との婚約を解消する」
「承知いたしました」
クラリッサは一礼した。
そのあまりにもあっさりした返答に、エドガルドは眉をひそめた。
「……それだけか?」
「はい」
「何か言いたいことはないのか?」
「ございません」
「私に謝罪を求めたり、婚約破棄を撤回するよう願ったりしないのか?」
クラリッサは不思議そうに首を傾げた。
「殿下が婚約を破棄なさるのでしょう?」
「そうだ」
「でしたら、私が申し上げることはございません」
エドガルドは一瞬、言葉を失った。
彼はクラリッサが泣き崩れるか、せめて怒りを露わにするものだと思っていた。
しかし、彼女はただ淡々と話を進める。
「それでは、婚約破棄に伴う手続きを確認させていただきます」
「手続き?」
「はい。婚約に際して交わした契約についてです」
クラリッサは侍女から一枚の書類を受け取った。
「こちらは、ベルナール侯爵家と王家の間で交わした婚約契約書の写しです」
エドガルドは顔をしかめた。
「そんなものは後でよい」
「いいえ。婚約破棄をなさるのであれば、先に確認する必要がございます」
クラリッサは書類を開いた。
「契約書第七条。王太子殿下の意思による婚約解消の場合、王家はベルナール侯爵家に対し、婚約に伴って提供された資金および物品を返還すること」
「……何だと?」
「第八条。婚約解消に伴い、王太子妃教育のために支出された費用については、王家が全額負担すること」
エドガルドの顔色が変わった。
「待て。そんな話は聞いていない」
「契約書に記載されております」
クラリッサは書類を差し出した。
「こちらに殿下の署名もございます」
エドガルドは書類を奪うように受け取った。
確かに、自分の署名があった。
「……これは、父上が用意したものだ」
「はい。殿下もご確認のうえ、署名なさったはずです」
「だが、こんなものは……」
「婚約破棄の条件は、殿下が決められたことではございません。王家と侯爵家が、あらかじめ取り決めたものです」
クラリッサは微笑んだ。
「もちろん、私は婚約破棄を受け入れます。ですから、契約に従っていただければ結構です」
エドガルドは黙り込んだ。
その横で、ミレーヌが不安そうに彼の袖を引いた。
「殿下……?」
エドガルドは答えられなかった。
クラリッサはもう一度、丁寧に一礼した。
「それでは、失礼いたします」
彼女が大広間を出ていく。
その背中を、誰も呼び止めなかった。
翌朝。
王宮の財務局には、ベルナール侯爵家から正式な請求書が届いていた。
婚約に際して提供された資金。
王太子妃教育にかかった費用。
婚約者として出席した公務に伴う諸経費。
そして、婚約解消に伴う契約上の返還金。
総額は、王太子個人の資産を大きく上回っていた。
「……どういうことだ」
エドガルドは請求書を見つめていた。
財務官は淡々と答える。
「契約に基づく請求でございます」
「だが、私は王太子だぞ!」
「王太子殿下であっても、契約は契約でございます」
「父上に相談する!」
エドガルドは国王のもとへ向かった。
しかし、国王は請求書を見て、深くため息をついた。
「ヴィルヘルム……いや、エドガルド。お前はこの契約書に署名したのだな?」
「はい。しかし、私は内容をよく理解しておらず……」
「署名した以上、それはお前の責任だ」
「父上!」
国王は厳しい目を向けた。
「婚約を破棄するのはお前の自由だ。だが、その結果についても責任を負わねばならぬ」
エドガルドは何も言えなかった。
「それに、ベルナール侯爵家は王家に多大な貢献をしてきた。今回の婚約破棄は、お前の一方的な判断だ。王家が契約を反故にするわけにはいかぬ」
「……では、私はどうすれば」
「自分で考えろ」
国王は書類を返した。
「それが、王太子としての責務だ」
エドガルドは王宮を出た。
その日の午後、彼はクラリッサの屋敷を訪れた。
「クラリッサ!」
彼女は庭で、花の手入れをしていた。
「殿下。どうなさいました?」
「請求を取り下げてほしい」
クラリッサは手を止めた。
「何の請求でしょうか?」
「婚約破棄に伴う費用だ。あれでは、私の資産がすべてなくなってしまう」
「ですが、契約に従っていただくようお願いしただけです」
「お前は私の婚約者だったのだぞ!」
「昨日、殿下ご自身が婚約を破棄なさいました」
エドガルドは言葉を詰まらせた。
「……私は、間違っていた」
クラリッサは彼を見つめた。
「そうですか」
「ミレーヌとの婚約も、考え直すつもりだ。だから、もう一度……」
「お断りいたします」
エドガルドは顔を上げた。
「なぜだ!」
「私は、殿下との婚約を終えました」
「だが、私はお前を……」
「殿下」
クラリッサは静かに言った。
「私が殿下の婚約者だった頃、殿下は私の話を聞いてくださいましたか?」
エドガルドは黙った。
「私が王宮の仕事を手伝っていたことをご存じでしたか?」
「……」
「私が殿下のために、どれほどの時間を使っていたか、ご存じでしたか?」
エドガルドは答えられなかった。
クラリッサは微笑んだ。
「私は、殿下に愛されたいと思っていたわけではありません。少なくとも、最初は」
「……最初は?」
「王太子妃として、殿下を支えたいと思っておりました」
彼女は庭の花を見た。
「けれど、殿下は私を必要としていなかった。そういうことなのでしょう」
エドガルドは何も言えなかった。
「ですから、もう結構です」
クラリッサは再び花の手入れを始めた。
「どうか、お帰りくださいませ」
エドガルドは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、彼はゆっくりと踵を返した。
数か月後。
クラリッサは、王都から離れた領地で暮らしていた。
婚約破棄によって得た自由は、彼女にとって何よりも大きな財産だった。
王太子妃教育のために費やしていた時間は、領地の運営に使うことができる。
彼女は農地を巡り、商人たちと話し合い、領民たちの暮らしを見て回った。
王都からは、時折噂が届く。
エドガルドは婚約破棄の責任を問われ、王太子としての立場を失ったらしい。
ミレーヌとの関係も、結局うまくいかなかったという。
クラリッサはその話を聞いても、特に何も思わなかった。
「そうですか」
ただ、それだけだった。
彼女は窓の外を眺めた。
領地の町には、活気が戻っている。
市場には人々の声が響き、畑には新しい作物が育っていた。
「クラリッサ様。お茶をお持ちしました」
侍女が声をかける。
「ありがとう」
クラリッサは椅子に座った。
温かい紅茶を口に運ぶ。
穏やかな午後だった。
彼女は小さく笑った。
「……婚約破棄も、悪くありませんわね」
もう、誰かの隣に立つために生きる必要はない。
これからは、自分の人生を自分で決めていけばいい。
クラリッサは、ゆっくりと紅茶を味わった。




