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婚約破棄の条件は、王子殿下が決めたことです

作者: ふたーなる
掲載日:2026/11/03

王都の大広間には、華やかな音楽が流れていた。


今夜は王太子エドガルドと、侯爵令嬢クラリッサの婚約を祝う夜会。


本来ならば、二人が並んで踊るはずの舞踏会だった。


しかし、エドガルドは壇上に立つと、集まった貴族たちを見渡した。


「皆に告げる。私はクラリッサ・ベルナールとの婚約を破棄する」


音楽が止まった。


貴族たちの視線が、一斉にクラリッサへ向けられる。


彼女は手にしていたグラスを給仕に返すと、静かに顔を上げた。


「理由をお聞きしても?」


「お前は私の婚約者として、あまりにも冷淡だった。私が愛するミレーヌに対し、幾度となく侮辱を加えたと聞いている」


エドガルドの隣には、子爵令嬢ミレーヌが立っていた。


彼女は王太子の腕にそっと手を添え、悲しげに目を伏せている。


「私は、殿下にふさわしい女性ではありませんでした」


クラリッサはそう答えた。


エドガルドは満足げに頷いた。


「分かっているなら話は早い。これより、お前との婚約を解消する」


「承知いたしました」


クラリッサは一礼した。


そのあまりにもあっさりした返答に、エドガルドは眉をひそめた。


「……それだけか?」


「はい」


「何か言いたいことはないのか?」


「ございません」


「私に謝罪を求めたり、婚約破棄を撤回するよう願ったりしないのか?」


クラリッサは不思議そうに首を傾げた。


「殿下が婚約を破棄なさるのでしょう?」


「そうだ」


「でしたら、私が申し上げることはございません」


エドガルドは一瞬、言葉を失った。


彼はクラリッサが泣き崩れるか、せめて怒りを露わにするものだと思っていた。


しかし、彼女はただ淡々と話を進める。


「それでは、婚約破棄に伴う手続きを確認させていただきます」


「手続き?」


「はい。婚約に際して交わした契約についてです」


クラリッサは侍女から一枚の書類を受け取った。


「こちらは、ベルナール侯爵家と王家の間で交わした婚約契約書の写しです」


エドガルドは顔をしかめた。


「そんなものは後でよい」


「いいえ。婚約破棄をなさるのであれば、先に確認する必要がございます」


クラリッサは書類を開いた。


「契約書第七条。王太子殿下の意思による婚約解消の場合、王家はベルナール侯爵家に対し、婚約に伴って提供された資金および物品を返還すること」


「……何だと?」


「第八条。婚約解消に伴い、王太子妃教育のために支出された費用については、王家が全額負担すること」


エドガルドの顔色が変わった。


「待て。そんな話は聞いていない」


「契約書に記載されております」


クラリッサは書類を差し出した。


「こちらに殿下の署名もございます」


エドガルドは書類を奪うように受け取った。


確かに、自分の署名があった。


「……これは、父上が用意したものだ」


「はい。殿下もご確認のうえ、署名なさったはずです」


「だが、こんなものは……」


「婚約破棄の条件は、殿下が決められたことではございません。王家と侯爵家が、あらかじめ取り決めたものです」


クラリッサは微笑んだ。


「もちろん、私は婚約破棄を受け入れます。ですから、契約に従っていただければ結構です」


エドガルドは黙り込んだ。


その横で、ミレーヌが不安そうに彼の袖を引いた。


「殿下……?」


エドガルドは答えられなかった。


クラリッサはもう一度、丁寧に一礼した。


「それでは、失礼いたします」


彼女が大広間を出ていく。


その背中を、誰も呼び止めなかった。


翌朝。


王宮の財務局には、ベルナール侯爵家から正式な請求書が届いていた。


婚約に際して提供された資金。


王太子妃教育にかかった費用。


婚約者として出席した公務に伴う諸経費。


そして、婚約解消に伴う契約上の返還金。


総額は、王太子個人の資産を大きく上回っていた。


「……どういうことだ」


エドガルドは請求書を見つめていた。


財務官は淡々と答える。


「契約に基づく請求でございます」


「だが、私は王太子だぞ!」


「王太子殿下であっても、契約は契約でございます」


「父上に相談する!」


エドガルドは国王のもとへ向かった。


しかし、国王は請求書を見て、深くため息をついた。


「ヴィルヘルム……いや、エドガルド。お前はこの契約書に署名したのだな?」


「はい。しかし、私は内容をよく理解しておらず……」


「署名した以上、それはお前の責任だ」


「父上!」


国王は厳しい目を向けた。


「婚約を破棄するのはお前の自由だ。だが、その結果についても責任を負わねばならぬ」


エドガルドは何も言えなかった。


「それに、ベルナール侯爵家は王家に多大な貢献をしてきた。今回の婚約破棄は、お前の一方的な判断だ。王家が契約を反故にするわけにはいかぬ」


「……では、私はどうすれば」


「自分で考えろ」


国王は書類を返した。


「それが、王太子としての責務だ」


エドガルドは王宮を出た。


その日の午後、彼はクラリッサの屋敷を訪れた。


「クラリッサ!」


彼女は庭で、花の手入れをしていた。


「殿下。どうなさいました?」


「請求を取り下げてほしい」


クラリッサは手を止めた。


「何の請求でしょうか?」


「婚約破棄に伴う費用だ。あれでは、私の資産がすべてなくなってしまう」


「ですが、契約に従っていただくようお願いしただけです」


「お前は私の婚約者だったのだぞ!」


「昨日、殿下ご自身が婚約を破棄なさいました」


エドガルドは言葉を詰まらせた。


「……私は、間違っていた」


クラリッサは彼を見つめた。


「そうですか」


「ミレーヌとの婚約も、考え直すつもりだ。だから、もう一度……」


「お断りいたします」


エドガルドは顔を上げた。


「なぜだ!」


「私は、殿下との婚約を終えました」


「だが、私はお前を……」


「殿下」


クラリッサは静かに言った。


「私が殿下の婚約者だった頃、殿下は私の話を聞いてくださいましたか?」


エドガルドは黙った。


「私が王宮の仕事を手伝っていたことをご存じでしたか?」


「……」


「私が殿下のために、どれほどの時間を使っていたか、ご存じでしたか?」


エドガルドは答えられなかった。


クラリッサは微笑んだ。


「私は、殿下に愛されたいと思っていたわけではありません。少なくとも、最初は」


「……最初は?」


「王太子妃として、殿下を支えたいと思っておりました」


彼女は庭の花を見た。


「けれど、殿下は私を必要としていなかった。そういうことなのでしょう」


エドガルドは何も言えなかった。


「ですから、もう結構です」


クラリッサは再び花の手入れを始めた。


「どうか、お帰りくださいませ」


エドガルドは、しばらくその場に立ち尽くしていた。


やがて、彼はゆっくりと踵を返した。


数か月後。


クラリッサは、王都から離れた領地で暮らしていた。


婚約破棄によって得た自由は、彼女にとって何よりも大きな財産だった。


王太子妃教育のために費やしていた時間は、領地の運営に使うことができる。


彼女は農地を巡り、商人たちと話し合い、領民たちの暮らしを見て回った。


王都からは、時折噂が届く。


エドガルドは婚約破棄の責任を問われ、王太子としての立場を失ったらしい。


ミレーヌとの関係も、結局うまくいかなかったという。


クラリッサはその話を聞いても、特に何も思わなかった。


「そうですか」


ただ、それだけだった。


彼女は窓の外を眺めた。


領地の町には、活気が戻っている。


市場には人々の声が響き、畑には新しい作物が育っていた。


「クラリッサ様。お茶をお持ちしました」


侍女が声をかける。


「ありがとう」


クラリッサは椅子に座った。


温かい紅茶を口に運ぶ。


穏やかな午後だった。


彼女は小さく笑った。


「……婚約破棄も、悪くありませんわね」


もう、誰かの隣に立つために生きる必要はない。


これからは、自分の人生を自分で決めていけばいい。


クラリッサは、ゆっくりと紅茶を味わった。

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