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〝首長竜〟

 井戸の脇に釣り道具を置く。弾んだ息のまま中を覗きこむ。狭い井戸の中には似つかわしくないカラフルな魚たちが泳いでいる。


 幻じゃなかった。ソラは安堵する。そして気づく、先ほど見た時と魚の種類や数が違うように見える。

 錯覚かもしれないが、少年の鼻にわずかな潮の香りが届いた気がした。


 針に疑似餌をつけると、釣り竿を手に持ち、井戸の穴へと糸をたらす。

 疑似餌は水面付近で泳ぐ魚たちを通りすぎていく。水面にウキがつく。


 少年の胸の高鳴りとは対象的に森の木々はゆっくりと風と踊り、それにあわせて光と影が揺れている。握った竿の感触に変化はない。

 

 ソラは少し冷静さを取り戻す。一旦冷静になった思考に次々と疑問が浮かぶ。 


 森の奥から届く魚の跳ねる音。埋めたはずの枯れ井戸に満ちる海水。その中を泳ぐ熱帯魚。



 水面のウキが激しく揺れる。水に波紋が浮かびウキが大きく沈む。思考の最中だったソラはそれに気づかなかった。竿を引かれる感覚に思わず、井戸の淵に乗り上げてしまう。


 状況をのみ込めていないソラの思考は、竿を手放すという発想を失くし、彼の身体は井戸に引きずり込まれる。


 水面に大きな水しぶきが散る。竿は少年を井戸の底へと連れていく。パニックになったソラは息を止めることしかできない。次の選択肢が浮かばない。

 

 少年の身体は深く暗い水中を落ちていく。竿を引っ張る力は更に強く速くなる。井戸の底が近づいてくる感覚はソラに死を連想させ背筋を凍らせる。


 そのとき、進路の先に光が見えた。竿は徐々に加速しながらその光へと吸い込まれていく。やがてその光が井戸の入り口と同じくらいの大きさになった。

 

 ソラはその光の穴へと落ちていく。暗い井戸の底から穴を通りすぎる。明暗の変化に視界が霞む。目を開けていられない。


 次に目を開いて自身の通ってきた穴を振り返る。穴の周りは砂の壁となり、その周辺には珊瑚礁が広がる。

 

 竿に引かれ落ちていくソラの周りを大小色とりどりの魚達が泳いでいる。 


 混乱の中、なおも竿は引かれる。少年は竿の先に目を向けその正体を視認。ソラは目を剥き、思わず口が開いてしまう。口の周りに泡が浮く。

 

 ソラの頭に図鑑で見た映像が脳裏に流れる。今、自身が握る竿の先、その糸の先に見える巨大な頭、その頭を支える長い首、更にその体躯は一目では全身を視界にいれられないほど巨大。


 〝首長竜〟ソラの脳裏に浮かんだ図鑑にはそう書かれている。

 太古の昔、存在したと云われる存在。悠久の時を経た現在では幻想に近い存在。

 それが眼前に現れ、少年の前で生きている。


 その巨体に比べあまりにも小さく貧弱な己の身体。少年は感じていた本能的な恐怖を。手が小刻みに震え、水を弾く。目の前の怪物が餌と見なせば自分など文字どおり一口で怪物の胃袋のなかへ収まる。


 だが、その恐怖以上にソラの胸を叩くものがある。好奇心。未知への期待。


 16歳。少年の心に宿る冒険心はこの出会いはこれから先、自分の身におこる物語の序章に過ぎないことを告げている。


 ワクワクが、興奮が、恐怖を勝る。


 そのとき、首長竜が動きを見せる。その自身の特徴である首をゆっくりとふり始める。巨体からみれば遅い動作に見えるというだけである。

 

 それにしがみつく、少年にはいきなり高波にさらわれるようなものである。水の抵抗で表情が歪む。


 そして、一気に自分が通ってきた穴とは、砂と珊瑚礁の天井とは真逆の方向へ、さらなる海底に叩きつけられる。そう思った。 


 しかし、その方向には波がたち、光がさす。気づけば少年は水しぶきとともに海面にとび上がっていた。そして、落下。

 

 しぶきがあがり、海面に着水する。

 

 世界が反転した。井戸の底の穴を中心に重力が逆になった。まるで地球の反対側に放り出されたように。

 

 脳の処理は追いつかない。混乱のなか海面を浮きながら周りを見渡すと、どこまでも広がる

海とどこまでも広がる空の青さがあった。穏やかな波のさざめきが、先ほどまでの緊張をそっと洗い流していく。



 このとき、ソラは気づいていない。息を吐いた水中で肺が空気で満たされたことを……

 



 

 

 

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