8.『9階』で開く扉
研究棟の窓の外では、夜の帳がとっくに降りていた。
由里は気づかぬうちに時を忘れ、デスクの明かりの下でファイルを読み込んでいた。
書類をまとめ、記録を抱えて席を立つ。
足早に研究棟を出ると、病院棟のエレベーターホールへ向かう。
エレベーターの怪異が起こるのは、午前2時すぎ。
まだ大丈夫。時間さえ間違えなければ――
*
ピピピピピ――
無機質なアラーム音が、静まり返った研究室に響いた。
由里はビクリと肩を震わせ、アラームを消した。時計は「21:00」を表示していた。
やば……
また夢中になりすぎていた。
――“あの夜”以来、22時までには帰るように決めている。
実際、あれから1回失敗してるけど…。
エレベーターでの、あの得体の知れない恐怖を二度と味わいたくない。
ファイルを閉じ、由里は記録用紙を抱えて研究棟を出た。
付属病院の最上階にある事務室まで、淡々と足を運ぶ。
エレベーターの怪異が起こるのは午前2時から2時30分頃
その時間に乗らなければ大丈夫。
書類を出し終えた由里は、15階でエレベーターに乗り込んだ。
チーン――。
機械音が、やけに甲高く耳に残る。
数秒後――14階で、ドアが、滑らかに開いた。
……誰もいない。
「うそ……ちょっと……」喉がひとりでに震える。
足元から冷気が這い上がるような錯覚。
起きるはずがない。
絶対に、あり得ない。
「いやいやいや……やめて……!」
由里は指が擦り切れそうなほど「閉」ボタンを連打した。
だが、エレベーターは無慈悲にも動き続ける。
――13階、12階、11階……。
止まっては、誰もいないドアが開く。
どこかで、誰かが見ている気がする。空間が、ゆがんでいく。
重力さえ、じわりと変化したように感じる。
由里は胸元のお守りを、祈るように握りしめた。
(お願い、遥……隼人さん、助けて……)
そして、気の遠くなるような恐怖で時間の感覚が失われたころ――
また、チーン、とドアが開いた。
そこには、人影。
「……黒崎さん!?」
安堵が爆発するように、由里は叫んだ。
エレベーターから一歩、外に踏み出す。
その瞬間。
――違う。
何かが、根本的に違っていた。
エレベーターホールで、黒崎が立ち止まっている。誰かと――話しているようだった。
声は聞こえないのに、確かに口が動いている。何かに返事をしているように。
けれど、そこには誰もいなかった。
やがて、黒崎がゆっくりとこちらを振り返った。
由里ほうを見ているが、その視線は由里の頭上に向かっている。
「……じゃあ、有科。あとは、任せるよ」
そう呟いた黒崎の顔には、笑みが浮かんでいた。
だがその目は、冷たく乾いていた。
ひとつも、笑ってなどいなかった。
由里の背筋を、氷のような寒気が這いのぼる。
次の瞬間、ドアが音もなく閉まった。
その静けさが、かえって恐ろしく感じられた。
気づけば、由里は逃げ場を失っていた。
――カチャリ。
小さな音がして足元を見ると、
床に転がっていたのは、見覚えのある白いタグの鍵だった。
「D15」
黒い油性ペンで書かれたその文字が、じっと由里を見上げていた。
<第9話へつづく>