4.『実験』のはじまり
あれは夢だったのか、それとも幻だったのか。
けれど、確かにあの夜――全階で止まるエレベーターに、由里は乗っていた。
日常に追われるうちに、あの恐怖は少しずつ色あせ、遠い記憶の中へと沈んでいった。
卒論、実験、研究室の雑務……目の前の現実が、その記憶を静かに覆い隠していったのだ。
だからこそ、由里は忘れていた。
あの“箱”が、再び開こうとしていることを。
*
その夜、由里は研究棟で遅くまで作業をしていた。
本来なら早めに切り上げるつもりだったが、ゼミの先輩に頼まれて、資料整理を引き受けてしまったのだ。
すべて終わった頃には、外はすっかり暗くなっていた。急いでその日の研究記録を、隣接する病院棟の15階へと届ける。
用事を済ませた由里は、そのままエレベーターに乗り込み、行き先階「1」を押した。
「……あっ、しまった。エレベーターってまずかったかも」
ドアが閉まり、エレベーターが静かに降下を始める。
胸の奥がざわついたが、
―――もう遅かった。
チーン――。
14階で、扉が開く。
誰もいない。
由里はすかさず「閉」ボタンを連打しながら、胸元のお守りを握りしめる。
(遥、隼人さん……助けて……)
13階、12階……エレベーターはまたも律儀に、ひとつずつ階を開いていく。
そして――9階。
扉が開いたその向こうに、逆光の中、人影がひとつ立っていた。
輪郭だけが白く浮かび上がり、顔までは見えない。
「ぎゃーーーーっ!」
由里の悲鳴が、エレベーターの箱の中に反響する。
「うわあああああ!」
人影も同時に叫んだ。
「……え、黒崎さん!?」
由里は心臓を押さえながら声を上げた。「脅かさないでくださいよ……もう……!」
「驚かされたのはこっちだよ」
そう言って、黒崎がエレベーターに乗り込んでくる。
「それにしても、またこんな時間にひとりで乗るなんて……学習能力、無いの?」
「うう、たしかに……でも今日はつい。さっきも14階から10階まで、全部開いたんですよ。誰もいないのに!」
由里がひきつった顔でそう言うと、黒崎は少し黙ってから、ふと口を開いた。
「……昔、君と同じことを言ってたやつがいた。『全部の階でエレベーターが止まる』ってな」
「ちょ、やめてくださいよ。今それ聞くの、ほんまに無理なんですけど……」
「でもさ、不思議なんだよ。僕が何回乗っても、一度もそういう現象が起きない。斎藤さん、今度一緒に”実験”に付き合ってくれないか?」
「えーっ!? 絶対イヤですって!怖すぎですから!……そういう話は、明るい昼間にしてください!」
「わかった。」
それきり、ふたりの間に言葉はなかった。
エレベーターは、静かに降下を続け――
何事もなく、1階へとたどり着いた。
――途中、一度も止まることなく。
<第5話へつづく>