3.そこにない部屋
由里の日常は、もと通りに戻ったように見えた。 エレベーターの恐怖も、数珠のお守りの安心も、時間の流れに押されて少しずつ輪郭を失っていく。
卒論、研究室、ルーチンワーク。
けれど、そのポケットから出てきた“ひとつの鍵”だけは、
どれだけ見ても、この現実のどこにも“はまらなかった”。
この日、由里は、その鍵を確かめるために、再び研究室へ向かう。
*
大学4年の由里は、卒論にかかりきりの日々を送っていた。
決まった授業はほとんどなく、普段は自分のペースで大学に通って作業を進めている。
この日は家で昼食をとったあと、研究室に立ち寄ることにした。
「D15」の鍵を持って。
その鍵を手に、由里は研究室にいた数人にそれとなく尋ねてみた。
けれど、誰も「D15」という番号に心当たりはなく、鍵の形にも見覚えがないと言う。
念のため付属病院の管理室にも問い合わせてみたが、「D15」という部屋は存在しないという答えだった。
まるで、最初からその鍵がどこにも属していないかのように、話はどこにも繋がらなかった。
不気味な違和感を抱えたまま、由里は研究室の奥にある部屋へと足を踏み入れた。
空いていたパソコンの前に腰を下ろすと、すぐ隣には、同じゼミに所属する大学院生・黒崎の姿があった。
彼はいつも無口で、話しかけても生返事すら返ってこないようなタイプ。
けれど、なぜかそのときは、ほんの少しだけ声をかけてみたくなった。
「黒崎さん、昨日の夜、エレベーターが全階で止まったんですよ~。なんか、めっちゃ怖くて……」
いつもなら反応は返ってこないはずだった。
けれど――黒崎は、
ゆっくりと、由里の方に顔を向けた。
その視線に、空気が変わったのを由里ははっきり感じた。
「で、何もなかったの?」
低い、けれど明確な声だった。
「……えっ。あっ、はい……とくに、何も……」
「そう。なら……よかったね」
そう言うと、黒崎は再び前を向き、モニターを見つめたままぴくりとも動かなくなった。
会話は、それきりだった。
由里は少し間を置いて、ふと思い出したように声をかけた。
「……あっ、そうや。この鍵、見覚えありません? 昨日の服のポケットに入ってたんです」
そう言って、由里は白いタグのついた鍵を差し出した。
「D15」と黒々と書かれたその小さな鍵を見た瞬間――
黒崎の表情が、はっきりと変わった。
「……どこで拾ったの? いや……ポケットに、入ってたって言ったか……」
普段は何を言っても平然としている黒崎が、明らかに動揺していた。
額に手をやり、眼鏡のブリッジを無意識にぐっと押し上げる。
「……はい! もう怖いんで、黒崎さん持っててください!」
由里は、ほとんど反射的にその鍵を彼のデスクの上に置いた。
黒崎は何も言わず、それを受け取ると、しばらくのあいだじっとその鍵を見つめていた。
<第4話へつづく>