2.ポケットの中の異物
朝の空気は思いのほかひんやりとしていた。
けれど、由里の身体にはまだ、あの夜の熱と湿気がまとわりついているような感覚が残っていた。
昨夜、彼女は遥の家で一夜を明かした。風呂に入り、肩を並べて布団に潜り込んだとき、ようやく心が緩んだ。
あのエレベーターでの恐怖体験は、遥の存在によって少しずつ現実味を失い、遠ざかっていた。
それでも、ぐっすり眠ったはずなのに、心の奥底には――
何かを“持ち帰ってしまった”ような、不穏な感覚が残っていた。
*
翌朝。
遥に礼を言い、由里はいったん自宅へ戻った。
恐怖の記憶はやや薄れたものの、身体に染みついた疲れと湿気だけは、まだはっきりと残っている。
家を出る直前、遥から手渡されたものがあった。
「これ、貸しといてあげる。隼人はやとさんにもらった数珠が入ってる」
遥が選んだであろう絹の花模様が織られた古風な数珠袋。
隼人さんとは、遥の大叔父にあたる人物だ。
「えっ、これって遥のお守りじゃないの?」
「うん。でも由里のほうがヤバそうやから、持っとき」
「えー、そんなに私ヤバいん? こわーい。でも……ありがとう」
*
自転車で自宅に戻った由里は、まっすぐ自室へ向かった。
部屋には朝の光が差し込み、カーテン越しにやわらかな光が床を照らしていた。
クローゼットの奥から、以前の旅行で使った薄型のセキュリティーポーチを引っぱり出し、遥に借りた数珠袋を中に入れて首からさげた。
服の上からそっと手を添えると、心なしか安心できる気がした。
それでも、身体の奥底には鉛のような重さが残っている。
由里はベッドに腰を下ろし、そのまま横になった。
まぶたが自然と閉じていく。
眠りに落ちる――その直前。
チーン。
エレベーターの扉が開く、あの電子音が耳に届いた気がした。
瞬間、全身に昨夜の記憶が駆け巡る。
由里は跳ね起き、荒い息をひとつ吐いた。
「……今の、夢……?」
胸に手を当て、深呼吸をひとつ。
気持ちを落ち着けるように、静かに階段を降りて洗濯場へ向かった。
昨日着ていた服を洗濯かごに入れようとして、ふと手が止まる。
ポケットに指を差し入れた瞬間――
カチャ。
冷たく、硬い感触。
何かが指先に触れた。
「……え?」
取り出してみると、白いプラスチックの丸いタグがついた、一本の鍵だった。
表面には、油性マジックで書かれたような黒い文字。
「……D15?」
見覚えのない鍵。
大学の部屋番号だろうか――こんな鍵見たことないけど…
胸の奥がざわつく。
けれど、由里は自分に言い聞かせるように呟いた。
「大丈夫、大丈夫……遥のお守りがあるから……」
首元のポーチの上から、お守りをそっと押さえた。
その指先には、まだほんのり冷たさが残っていた。
<第3話へつづく>