第6話:一人の女性と、噴水のある公園と。
# 甘い香りと、水色の幻影
## 街の入口~ケーキ屋へ
石畳に足音を響かせながら、ユウトは街の入口をくぐった。
「……軽い」
前回のループで得た経験値の影響だろうか。体が羽根のように軽やかで、歩くたびに小さく弾んでしまう。コンビニの袋を持って異世界に取り込まれた時の重い足取りとは大違いだ。
街並みはいつもと同じはずなのに、どことなく新鮮に映る。石造りの建物、軒先に並ぶ色とりどりの看板、行き交う人々の表情――全てが微妙に鮮明で、まるで解像度が上がったかのようだった。
そんな時、風に乗って甘い香りが鼻をくすぐった。
「これは……」
香りに誘われるまま足を向けると、街角に小さな店を見つけた。淡い虹色に塗られた看板には『虹の菓子亭 カメリア』と書かれている。ショーウィンドウには色とりどりのケーキが並び、焼きたてのパンの香ばしい匂いも混じっていた。
店のドアベルが軽やかに鳴る。
「いらっしゃいませ!」
エプロン姿の店主が振り返った。初老の男性で、小麦粉で白くなった手を拭きながら人懐っこい笑顔を浮かべている。前のループでも会ったはずだが、向こうは当然覚えていない。
「勇者様でいらっしゃいますね。何かお探しですか?」
「ええと……何かおすすめはありますか?」
前回は急いでいて素通りしてしまったが、今回は時間がある。店主は嬉しそうに手をこすり合わせた。
「それでしたら、こちらのハチミツとベリーのタルトはいかがでしょう。今朝焼いたばかりで、甘さと酸味のバランスが絶妙なんです」
ガラスケースの中で、黄金色のハチミツが艶やかに光り、赤いベリーが宝石のように輝いている。
「それを一つ、お願いします」
「ありがとうございます!」
店主が丁寧に箱に詰めながら、ふと顔を上げた。
「……今回の勇者さんは、眼光が鋭いですね」
「今回の?」
「いえいえ、こちらの話です」
店主は曖昧に笑って会計を済ませた。だが、その言葉がユウトの胸に小さなざわめきを残した。
## 街歩き
ケーキの箱を抱えて街を歩くユウト。
前のループまでとは明らかに何かが違っていた。街の空気そのものが、まるで別の場所のように感じられる。鍛冶屋の金槌の音、市場の威勢の良い声、子どもたちの笑い声――それらが以前より鮮明に、温かく耳に届いた。
「おにいちゃん、がんばって!」
振り返ると、建物の陰から小さな女の子が手を振っている。一瞬、こないだのデーモンかと思ったら違った。俺の中であれは、トラウマになってるらしい。
「勇者様、お疲れさまです」
通りすがりの老人が丁寧に頭を下げる。その表情には、単なる敬意を超えた何か暖かいものがあった。
「気をつけて行ってくださいね」
八百屋の女性が声をかけてくれる。野菜を選ぶ手を止めて、心配そうに眉を寄せていた。
一つ一つは些細なことだ。でも、それらが積み重なって、ユウトの心に不思議な感覚をもたらしていた。
「……もしかして、俺、ちょっとだけ前に進んでる?」
立ち止まって振り返る。石畳の道、行き交う人々、青い空。全てが同じはずなのに、確実に何かが変わっている。それは外の世界ではなく、自分自身の内側の変化なのかもしれなかった。
## 噴水のある公園
街はずれの小さな公園にたどり着いた時、太陽は既に西に傾き始めていた。
ここは静かな場所だった。中央に古い石造りの噴水があり、その周りを花壇とベンチが囲んでいる。訪れる人も少なく、鳥のさえずりと水音だけが響いている。
ベンチに腰を下ろし、ケーキの箱を開けた。ハチミツとベリーのタルトは見た目通り美しく、一口食べると甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。
「うまい……」
前のループまでは食事も急いで済ませていた。味わうという行為すら、贅沢に思えていたのだ。だが今は違う。このゆったりとした時間が、心地よく感じられた。
噴水の水しぶきが夕日に照らされて、小さな虹を作っている。
その時だった。
水しぶきの向こうに、人影が見えた。
水色の髪をした女性が、メイド服に身を包んで静かに佇んでいる。その手には銀のティーポットがあり、透明なカップに紅茶を注いでいた。完璧な所作で、一滴もこぼすことなく。
女性はゆっくりと空を見上げた。その横顔は穏やかで、まるで時が止まったような美しさがあった。
「誰……?」
ユウトは思わず立ち上がった。だが、視線を空に移してから元に戻した瞬間――
そこには誰もいなかった。
噴水の水音だけが響き、夕風が頬を撫でていく。
足元を見ると、小さな花柄のハンカチが落ちていた。そして確かに、紅茶の上品な香りが空気に残っていた。
「幻影……?」
ハンカチを拾い上げる。柔らかな布地は確かに実在していた。だが、あの水色の髪の女性は一体何者だったのだろう。
## 2つの影
夕日が街を橙色に染める中、ユウトは公園を後にした。
胸の奥に、小さな違和感が残っている。それは不快なものではなく、むしろ心地よい謎めいた感覚だった。花柄のハンカチをそっとポケットにしまい、街の出口へと向かう。
「今回の俺は、どうやら……ちょっとだけマシらしい」
だが、街はずれの森の奥で、犬のような怪物--コボルドたち--が待ち伏せていた。鋭い牙を剥き出しにして、獲物を狙う黄色い瞳で。
絶好のタイミングで、ユウトを迎え撃つために。