第1話「はじまりは、カレーの香り」
しらぎく信用金庫の朝は、いつも忙しない。 営業マンたちが書類を手に支店を出ていく中、佐藤誠は一人、自席で缶コーヒーを見つめていた。
(あと30年……これか。俺の人生、薄味だなあ……)
ネクタイは少し曲がっている。誰も気づかない。もちろん本人も。
「佐藤くん、ちょっと支店長室まで」
唐突に肩を叩かれ、顔を上げると堀内支店長が笑っていた。その笑顔に、誠は本能的に嫌な予感を覚える。
***
「CSR活動。地域貢献。聞いたことあるよね?」
支店長室の中、堀内はご機嫌な様子で資料を広げている。
「大竹さんから“やすらぎ荘”で金融リテラシー講座を、って要望が来ててね」
「……僕が、ですか?」
「うん、若いし、空気読めるし……暇そうだし」
誠は内心でうんざりしながらも、反論すればもっと面倒になると悟っていた。
(断ったら面倒くさくなりそうなやつだ……)
「……一回だけなら」
***
翌日、やすらぎ荘の玄関前。誠は資料ファイルを抱えたまま、無表情で立っていた。
(なんで俺が……帰りにCoCo壱行こう)
そのとき、施設の扉が開き、明るい声が飛んできた。
「佐藤さんですか? こんにちは!今日はよろしくお願いします」
白石春香。その笑顔は、まるで春の光をそのまま閉じ込めたようだった。
(……眩しい……陽だまりって香り、あるんだ)
「初めまして、白石春香です。今日はお時間いただきありがとうございます」
「あっ、佐藤です、あの、すいません、ネクタイ曲がってますか?」
誠、唐突に自分のネクタイを直し始める。
「え?あ、たしかにちょっとだけ。でも、それも味ですよ」
「……味って言われたの初めてです」
***
施設のロビーは、自由すぎる空気で満ちていた。 新聞を顔に乗せて寝ている老人――山根。 将棋に熱中している――中西。 タブレットをいじる――小倉。 そして、まっすぐな背筋で座る女性――田中トミ。
「皆さーん、信金さんが“お金の話”をしに来てくれましたよー!」
春香の明るい声にも、誰一人として反応しない。
「株って、競馬より当たるか?」
新聞の下から山根の声が漏れる。
「山根さん、それは投資じゃなくて博打の話だ」
中西が、将棋の駒を打ち込みながら淡々と突っ込む。
「じゃあ、その株ってやつでワシの老後はバラ色になるのかねぇ?」
「老後っていうか、今まさに老中だろうが」
「小倉さんは、株とか興味あります?」
誠がふと声をかけると、小倉はメガネを上げて、静かに答えた。
「一応、昔からチャートは見てます。数字って、リズムがあるんです」
「……リズム?」
「はい。株価の上下って、まるで波のように……一定の感情と欲望が繰り返されてる。まるで……人間そのもの」
誠、驚くが、それ以上聞けずに口をつぐむ。
***
ふと、カレーの香りが鼻をくすぐった。 給食室の奥、鍋をかき混ぜる一人の男がいた。
「おっ、今日の講師さんかい?サトちゃんね。よろしく。今日のカレー、ちょっと辛め」
「えっ、あ、どうも……」
「辛いのが苦手なら、なおさら食え。人生と一緒さ」
「……人生も、煮込んだ方が旨味が出るってやつですか?」
「そう。煮込みすぎると焦げるけどな。火加減、難しいよ。人生も、カレーも」
名倉は片目をつぶってウインクした。 誠は思わず笑ってしまう。
***
ホワイトボードの前に立ち、誠は一応の講義を始める。
「株っていうのはですね……ええと、会社がですね……」
反応はない。寝息すら聞こえる始末。
そのとき、田中トミがつぶやいた。
「それは、ワリに合うのかい?」
誠のスイッチが入る。
「はい、配当と値上がり益を合わせるとですね、利回りが年3〜5%程度期待できる場合がありまして……」
勢いよく語る誠に、他の入居者たちは無反応。 だが、田中トミだけが、口元をわずかに緩めていた。
「まあまあ、口はうまいけど……うちは味噌も醤油も見てから買うんだよ。アンタの株話も、しばらく寝かせてから判断するよ」
「信用ってのは、長年の信用履歴が大事だからな」
「中西さん、それローンの話だ」
***
講義のあと、施設の食堂。 名倉のカレーが振る舞われ、誠も一緒に座って食べる。
口に運んだ瞬間、スパイスの香りとともにピリリと舌に刺激が走る。
「……うまっ。なんですかこれ」
「秘密は、焦がし玉ねぎと……企業秘密だ」
名倉が意味ありげに笑う。
中西がむしゃむしゃと食べながら言う。 「カレーはうまいな。株はともかく、こっちは信じられる味だ」
「次はその信じられる味で、株の話も信じさせてくれよ」
田中トミが言い、場に小さな笑いが起こった。
***
帰り際、誠が靴を履いていると、背後から春香が声をかけた。
「来週も、お願いできますか?」
「えっ、あ、……はい」
(はいって何……俺、なんではいって言った……でも……)
風に乗って、カレーの香りがまた漂ってきた。
名倉の声が、給食室の奥から飛んでくる。
「サトちゃん、来週はバターチキンな!」
(……またカレー、食いたいかも)
***
施設の門を出て、誠が駐車場へ歩いていると、一本の黒塗りの車がゆっくり近づいてくる。 窓が開き、堀内支店長の顔がのぞいた。
「佐藤くん、時間の無駄にならなきゃいいね。高齢者相手に変なことして問題起こすなよ」
そう言って、車はゆっくり走り去る。
誠は、何も言わずにそれを見送った。