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冬の童話祭2025

レモン

作者: 六福亭


 僕が十歳の誕生日にもらったのは、レモン一つだった。


 たしかにそれのレモンはもぎたてで、傷んだところは一つもなくて、鼻に近づけると酸っぱい香りがした。けれど、僕が本当に欲しかったものではなかった。


 レモンを見てがっかりしている僕に、お母さんが言った。

「このレモンで、おいしいパイを作ってあげるわね」

 お母さんはお菓子作りがとても上手で、僕はとりわけお母さんのパイが大好物だった。だから、プレゼントがレモン一つでも我慢することにした。


 僕の誕生日を覚えていたのは、お母さんばかりではなかった。次の日に学校へ行くと、朝、先生が僕を立たせ、お祝いしてくれた。皆の拍手をあびるのがきまり悪くて、僕はもじもじしていた。


 拍手がやんだ後、先生は僕に聞いた。

「プレゼントには、何をもらったの」

 僕は正直に、レモンですと答えた。すると、先生は大声で笑い出した。

「まあおかしい、誕生日プレゼントにレモンだなんて。あっはっは」

 先生につられてクラスメイトも笑った。いつもこうだ。先生も皆も、僕を笑いものにするチャンスをいつも狙っている。僕の顔がかあっと赤くなるのを見て、先生はレモンというよりリンゴねといっそう笑った。


 その日の夕方、一人で家に帰ってきた僕は、テーブルの上に置いてあるレモンを見て、無性に泣き出したくなった。お母さんがこんなものをよこさなければ、学校で笑われることも、「レモン坊や」と呼ばれてこづかれることもなかったのだ。


 腹立たしい気持ちが涙に変わる前に、蓋をするものが必要だった。僕は目の前のレモンを取り上げ、思いっきりかぶりついた。


 酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、涙はどこかへ吹き飛んでしまった。そのままかじりとった皮と身の一部を飲み込むと、ゆっくりと喉の奥に落ちていった。


 これでもうパイは作れない。帰ってきたお母さんが、レモンの残骸を見て僕を叱った。その日の夕食は互いに口をきかず、暗い空気が漂っていた。


 毎晩、風呂上がりに歯を磨く。髪を乾かして、パジャマを着た後で僕はいつものように鏡をのぞきこんだ。


 そして、あっと驚いた。


 鏡の中で見返しているのは、僕じゃない。知らない男の子だった。浅黒い肌に短い髪で、小さな瞳は優しくたれていた。その子は、びっくりしている僕と目が合うと、にかっと笑って手を振った。

 

 僕は叫んだ。

「お母さん! 鏡の中に知らない子がいる!」

 お母さんがやってきて、変な顔をした。

「知らない子なんて、どこにもいませんよ」

「いるよ、ほら__」

 鏡に目を向けると、その子はもういなかった。ただ僕が目を丸くして、指差しているだけだった。

「夢でも見たんでしょ」

 お母さんはまだ僕に怒っていて、つんと突き放すような言い方をした。


 お母さんが行ってしまった後、もう一度僕は鏡をのぞく。するとやっぱり、その子が僕に笑いかけていた。年格好は、僕と同じくらい。僕よりもずっと快活そうで、きっと学校に行けば皆の人気者になれるだろうと思った。僕と違って。


 僕と、彼の間を鏡が隔てている。男の子は鏡に両手をついた。僕は思わず、彼の手に自分の手を合わせた。彼は、恥ずかしそうに何か言った。多分、挨拶の言葉だったのだと思う。


 お母さんが呼ぶ声がして、僕は慌てて手を放した。男の子はあっというまにいなくなっていた。


 一体、誰だったんだろう。考えながら台所に戻ると、お母さんがあのレモンを持って、僕を待ち構えていた。

「これは捨ててしまった方がいいのね?」

 レモンを掲げてお母さんは言った。レモンは、片側が大きくかじりとられて、歯形がくっきりと残っている。

「え……でも……」

「だって、こんなのになってしまったら、もうパイなんて作れないでしょう」

 そう言われた時、何も考えていなかったのに、僕の口は勝手に動いていた。

「レモンの蜂蜜づけ」

「え?」

「レモンを蜂蜜につけたのが、食べたいな」

 お母さんも、僕自身も驚いた。レモンを蜂蜜につけて食べるなんて、今まで考えたこともなかったから。


 けれど、お母さんはそれでいくらか機嫌を直したようだった。僕はとっさに口から出てきたアイデアに感謝した。


 ひょっとしたら、誰かが教えてくれたのかもしれない。ベッドに寝転んで、僕はぼんやりとそう考えた。鏡の中にいたあの子が教えてくれたんだったらいいな。


 僕は一人っ子。子供部屋も一人で使っている。のびのびと使えるのはいいけれど、たまに一人で過ごす夜が寂しくなることがある。


 鏡の中の男の子を、眠る前に思い描いてみる。どんな顔立ちだったか、まだはっきりと覚えているけれど、長く会わなかったらいずれ忘れてしまうのだろう。笑顔が印象的な男の子。きっと性格もいいはずだ。僕の友達になってくれるだろうか?


 彼はレモンが好きなはずだ。頭の中で想像をふくらませた。運動が得意で、肌が浅黒いのは、太陽の下によく出ているから。きっとボール競技が上手いはずだ。

 何故だか悔しい気分になった。彼がクラスメイトに見つかったら、たちどころに彼らに囲まれて、僕のことなんか忘れてしまうだろう__最初に出会ったのは僕なのに。


 誰も、その子のことを知らないといい。僕だけの友達になってくれれば、どんなに嬉しいだろう。きっと、毎日が楽しくなる。



 朝、「起きて」とそばで呼ばれた気がして、僕ははっと目を開いた。時計を見たら、いつも起こされる時間の五分前だった。「あの子」が起こしてくれたのだと思い、嬉しくなった。


 朝食はいつもと同じトーストとサラダ、インスタントのスープ。スープはコーン、ポテト、パンプキンの中から選ぶ。いつもはコーンスープを飲むけれど、今日は何故かパンプキンを飲みたい気分だった。「あの子」が好きなのかもしれない。


 学校に行く前、トイレに行こうとした。けれどトイレには内側から鍵がかかっていた。お母さんは台所にいるし、お父さんはもう出かけたはずなのに。そのまま待つよりも、学校にいくことを選んだ。


 学校への道の途中に、レモンの木が生えた庭がある。僕がその前を通りかかると、鈴なりのレモンの実が揺れた。突風に吹かれたらしい。かすかに酸っぱい香りがした。


 クラスメイトが歩いてくるのが見えたから、木の陰に隠れてやり過ごした。いじめられている訳ではないけれど、挨拶をしても虫されて、しなくても陰口を叩かれるのが嫌だったから。


 誰かが僕の肩に軽く触れた。振り返っても、誰もいない。木の実が落ちたのかとも思ったけれど、確かに人の手の感触だった。


 授業で、教科書を読み上げる順番がきた。あの子だったら、はきはきと、自信たっぷりに読むだろう__そう思いながら読み上げると、力が入りすぎて変な読み方になってしまった。クラスメイトが笑い、先生も笑った。あの子ならあんなに意地悪く笑わなかっただろう。


 休み時間になると、僕は図書室へいく。好きな本はいっぱいあるけれど、あの子はどんな本を読むだろう。休み時間をめいっぱい使って、あの子が好きそうな小説を選んだ。


 あの子はきっと、冒険小説が好きだ。快活な笑顔が、物語に出てくる主人公の挿し絵に似ているから。けれど、普段小説はあまり読まないかもしれない。僕が勧めた本を読んでくれて、本を読む楽しさを知ってくれたら、どんなに誇らしい気持ちになるだろう。


 そうだ、あの子は物語の主人公なのだ。平凡で内気な僕とはまるで違う。身のこなしがすばやくて、頭の回転が速く、ものいうけものや妖精ともすぐに仲良くなれる。そして、恐ろしい魔女と対峙した時は、堂々と剣をぬき、果敢に魔女と対決するのだ。


 僕はそんな時、どこにいるだろう? 学校からの帰り道で、家で、自分の部屋でもずっと考えていた。あの子が、すらりと長い剣を手にして険しい崖を登っている間、僕には何ができるだろう?


__ベッドの上で目を閉じると、あの子が駆けてきて、僕の手をひく。(「あの子」じゃなくて名前が必要だな。そうだ、『レモン』はどうだろう?)レモンは鞘に収めた美しい剣をベルトにつるしている。(僕も武器がほしいな。弓と沢山の矢がいい。レモンが気づかなかった敵を、遠くから仕留めることができるから)

 レモンは言うのだ。快活な声で。

『急ごう。魔女の手下に追いつかれちゃう。早いところ、目的地へ辿りつかなくちゃ』

『だけど、どこに行くの?』と僕が尋ねる。レモンは、何言ってるんだ? って顔をする。

『決まっているじゃないか。皆が待っている、お城だよ!』

 その時、僕らの足元の大地が割れて、大きなドラゴンが飛び出す。驚いた拍子に、僕とレモンは手を離してしまう。

『レモン!』

 僕は叫ぶ。レモンはドラゴンのおぞましい顔を間近にして、剣を抜く。銀色の刃が、太陽の光を受けて輝く。だけど、ドラゴンもひるまない。かっと口を開き、肉切り包丁よりも大きな牙をむき出す。火の粉がちらちらとあふれだす。

 レモンは、どう闘うか迷っているようだ。僕はその時はっとする。何か、僕にも出来ることがあるはずだと。だって、立派な弓矢を持っているのだから。

 僕は一本矢をつがえる。レモンが僕を見て、大きくうなずく。

 矢を射るのは初めてだけれど、力いっぱいつるを引いて。これ以上引けないところで手を放す。ドラゴンの悲鳴が耳をつんざく。みると、矢はドラゴンのやわらかい腹に命中している。そして__レモンがドラゴンの首を、さっと切り落とす。

「やった!」

 僕は叫ぶ。レモンは僕を見てにかっと笑う。それから、僕は握手する……。


 朝ベッドの上で目を覚ました僕はぼんやりと思った。今朝見た夢が、本当だったらよかったのに。


 しばらく、僕の頭の中は、レモンのことでいっぱいだった。人が多いところに来ると、どこかにレモンが隠れているような気がして、あちこち探してしまう。あの浅黒い肌と、猫のように優しい顔、長い手足を。レモンのことを考えると楽しくなった。僕だけが知っている友達。クラスメイトも、先生も、両親さえ知らないことが嬉しかった。


 音楽の授業で、縦笛を習う。僕は下手くそな音を鳴らしながら、レモンを思った。レモンはきっと笛を吹くのが上手だ。いや、むしろ、何かが苦手なレモンを想像する方が難しい。それは、彼の笑顔が僕の頭に焼きついているせいかもしれない。上手くいかない時、人は笑顔になれないものだから。


 優雅な仕草でおじぎをしてから縦笛を口に当て、そっとメロディーを奏でだすレモン__そんな姿をうっとりと想像しながら、音楽の授業の終わりに階段を登っていた。その時、まさに僕の考えていたことが本当になったみたいに、上から笛の高い音が聞こえてきた。


 胸がどきどきした。階段をずっと登って行くと、学校の屋上に辿り着く。そこで、誰かが笛を吹いている。誰よりも早くその人に会いたくて、僕は階段を駆け上がった。休み時間がもうすぐ終わるのも気にせずに。


 屋上へと続く扉を開けると、涼しい風が僕を迎えた。また大きな笛の音がした。


 真っ青な空の下、黄色い服を着た少年が、僕に背を向けて立っていた。僕はすぐさま声をかけようとして、ためらった。

 

 少年が、ゆっくりと振り返る。


 レモンだ。日に焼けた、猫のような人なつっこい顔、僕がずっと思い描き続けてきた顔で、そこに確かに立っている。決して夢なんかじゃない。


 レモンは、目を細めて笑った。

「やあ」

 僕も微笑みかけた。

「やあ」

 僕はレモンに駆け寄った。彼に話したいことはたくさんある。けれど、いざ彼の目の前に立つと、用意していた言葉はどれも打ち水のように空気の中に消えてしまった。

 レモンは紐を通したホイッスルを首にさげていた。それを吹いていたのだと気がつく。僕の前で彼はもう一度笛を吹いた。甲高い音が空に抜けていく。

「何をしてるの?」

 僕はそう尋ねた。レモンは笑顔のまま、無言で空を指さした。


 さっきまで雲一つなかった青空に、大きな入道雲がいつのまにか浮かんでいた。レモンは雲に向かってすらりとした腕を大きく振って、合図をした。雲はだんだん学校の屋上に近づいてくるようだ。


 とうとう雲の先っぽが屋上に届くほど近くなると、レモンは軽々と雲の上に飛び乗った。そして、僕に向かって手を差し出した。

「行こう!」

 明るく、力強い声。僕はレモンの手を取り、雲によじ登る。そうしてやっとレモンに聞いた。

「どこへ行くの?」

「行けるとこまで」

 レモンはそう答えて、また笛を吹いた。すると雲はふわふわと上昇した。笛の音で雲の動きを操れるのだとレモンは教えてくれた。そして、僕にホイッスルを貸してくれた。吹いてみると、雲はずんと下がったり、変な形になったりした。

 

 雲はとても軽く、大きなかたまりからちぎりとると、ひんやりとした氷の粒になって崩れてしまった。それが面白くてつい何度も雲をちぎっていると、とうとう小さな穴が空いてしまった。その穴から下をのぞくと、僕の町がおもちゃのように小さく見えた。車や、歩いている人なんか、豆粒ほどにも分からない。下ばかり見すぎて目まいを起こしかけた僕を、レモンが支えてくれた。

 

 レモンは、僕が思っていた通り、小説のことはほとんど知らなかった。僕が語って聞かせる物語を面白がって聞いてくれた。その後は、レモンが雲や星の話をした。木や果物の話も。話すことは互いにたくさんあった。遠くに飛行機が飛んでいるのを見つけると、僕らは笛を吹いて雲をけしかけ、飛行機を追いかけた。そうして、学校からずいぶん遠い空まで来てしまった。


 辺りが暗くなったかと思うと、冷たい雨が僕らを襲う。上を見ると僕らよりも分厚い灰色の雲が見下ろしていた。その上に誰かがいる。何人もの人が、僕らを指差して何事か話していた。


 レモンは「しまった!」とつぶやき、雲を彼らから遠ざけようとした。けれど、分厚い雲はすぐに追いついてくる。今度は固いみぞれや雹が叩きつけられた。痛めつけられた僕らの雲が、どんどん小さくなっていく。

 僕はその時、怖くて動けなかった。想像していた物語の中の僕とは大違いだ。けれど、レモンは違った。僕にいつもと何も変わらない笑顔を向けて、手を強く握った。

「飛び降りるんだ!」

 彼のその言葉を合図に、僕らは手をつないで、雲から飛び降りた。


 次の瞬間、僕らは学校の屋上で、尻もちをついてぽかんとしていた。空を見上げると、あの分厚い雲は跡形もない。ほっとしたら、笑いがこみ上げてきた。コンクリートの上に全身投げ出して、僕らは大声で笑った。


 チャイムが鳴る。何限目かの授業が始まりか、あるいは終わりの合図だ。

「もう戻りなよ」

 そうレモンが言った。素直に僕は立ち上がる。そして、寝転んだままのレモンを見下ろした。彼がそこに残るのは何故か当たり前に思えた。

「また会えるね?」

 僕がそう聞いた時、レモンは目を閉じていた。昼寝をする猫のようだった。僕は言い方を変えた。

「君に会えて、本当によかった」

 レモンはぱっと目を開いて、僕をじっと見上げた。そして手を振った。


 僕が屋上の扉を開いた時、後ろからレモンが言った。

「僕も、君が大好きだ!」

 振り返った時、もうレモンの姿はない。


 


 その日の帰り道、僕はたまたまレモンの果実の匂いを嗅いだ。

 

 以前にも見かけたことのある、レモンの木の前でのことだった。知らない家の庭だったけれど、叱られたらその時に謝ればいいと思って(子供時代特有の物怖じのなさで)、庭へ入って行った。


 枝にたわわになっているレモンに鼻を近づけ、みずみずしい香りを嗅いだ。誕生日にレモンをもらった時のことが昨日のように蘇った。

 

 すぐ近くで、女の人の声がした。

「あなた、どなた?」

 そこの家の窓から、知らない年配の女の人が顔を出していた。僕は身をすくめ。その場に固まった。泥棒みたいなことをしているのが急に恥ずかしくなった。


 もじもじしている僕に向かって、その女の人が言う。

「そこの学校の子ね。よかったら、中にいらっしゃいよ。何もないけれど、お茶くらいなら出してあげられるから」

 家の中は確かに何もなく、がらんとしていた。通された居間にもテーブルと椅子があるばかり。きょろきょろ見回していると、彼女が言った。

「もうすぐ引っ越すの。だから、ほとんど運び出してしまったのよ」

 女の人が出してくれたお茶には、スライスしたレモンがついていた。しぼる前に、レモンの断面に顔を近づけた。

「半年ほど前、近所の奥さんにレモンの実を一つあげたのよ。息子の誕生日に贈るのだと言っていたわ。__もしかして、あなたがその時の息子さん?」

 僕はうなずく。不思議な巡り合わせに心が揺れた。

「あのレモン、どうした?」

「そのままかじりました」

 女の人は笑った。

「私の甥と同じね。あの子も、生のままレモンをかじることがよくあったのよ。酸っぱい酸っぱいと笑っていたけれど」

 甥っ子と言われ、僕はすぐに「レモン」のことを思い出した。

「その人、どんな人ですか?」

「写真があるわ」

 彼女は立ち上がり、古い写真を持ってきてくれた。のぞきこんで、僕はやっぱりと了解した。

 写真の中に映っていたのは、僕の友達、『レモン』だった。

「甥はね、私の庭のレモンの木が好きだった。ここに来るたび、水をやったり、虫をとりのぞいたりして、ずっと世話をしていたわ」

 僕は何も言わず。ただ写真を見つめた。レモンは笑顔だ。カメラに向かってにかっと笑っていた。

「この子はね、何年も前に、いなくなったの」

 女の人がぽつりと言った。

「どうしてですか?」

 女の人は優しく僕に言う。

「秘密よ。もう何年も前のことなの。あの子が来なくなって以来、あのレモンの木は私一人で世話してきたの。でも、それももうすぐおしまい」

 彼女は紅茶を一口飲み、息をついた。

「私も親戚がいる遠くの町に引っ越すことになったの。もう、ここに戻ってくることはないわ。ここには、楽しかった思い出が多すぎて、一人でいることが辛かった」

「レモンの木はどうなるんですか?」

「自然のままに、伸びていくことでしょう。そうだ、あなたに実を分けてあげる。種をまくこともできるわ」

「ありがとうございます」

 写真を持ったまま、僕はお礼を言った。

「その写真も、よかったらあげる。もしあの子があなたと会っていたら、きっと大の友達になっていたと思うから」

 僕は口をつぐんで、感情の出口をふさいだ。僕のレモン。幻なんかじゃなかった。僕のとても近くにいたんだ。


 それから何年も何年も経って、僕とレモンの木は大人になった。僕には友達が何人もできて、僕自身もどんどん変わっていった。


 けれど、レモンの木が実をつける季節になるたび、僕はあの少年に思いを馳せる。今どこでどうしているのかもしれない、たった一人の親友のことを。


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― 新着の感想 ―
いつかまた会えるといいですね。 でも、あの時だけの想い出であったほうがよいのかも……。 むむむー。
2025/02/04 22:32 退会済み
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