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凸凹@^^; 真世界復元教編

 昼過ぎの街中で俺はコンビニに向かってぶらぶらと歩いていた。求人誌が目的だった。好待遇のバイトはすぐに埋まるのだ。さきほど見つけた候補もすでに埋まっていたから次を探さなくてはならなかった。

 散歩日和の良い天気だった。行き交う人々の雰囲気も明るかった。そんな中で俺だけが暗い面持ちをしているようで気が滅入った。

 バイト探しに少々疲れを感じた俺は足を止め、空を見上げて思った。楽して儲かる健全なバイトを誰か紹介してくれないものかと。好待遇のバイトは闇バイトの確率が高い。間違って選ばないように注意するのも一苦労なのだ。

「では、お仕事をお願いしてもよろしいですか。」

 女性アナウンサーのように滑舌の良い声が聞こえた。まるで待ち構えていたかのようなタイミングで突然かけられたバイトの誘いに、俺は運命の出会いを感じた。だが振り返っても傍には誰も居なかった。近くを行き交う人は居たが、俺のほうを向いて立ち止まっている人は見当たらなかった。どこからともなく声だけが聞こえてきた。街中とはいえ人影はまばらだった。話せるような距離に隠れられそうな場所は見当たらなかった。

 呆然とする俺に再び声が聞こえた。

「姿はお見せできません。別の世界から思念だけを伝えているのです。」

 俺は浮かれた気分が吹き飛んだ。これはいたずらだと確信したからだ。

 姿を隠したまま話しかけてくる仕掛けは気になった。だが別の世界なんて妄想を口にする相手に尋ねたところでまともな回答は期待できないと思った。

 この手の話が嫌いなわけでは無かった。だが赤の他人に対していきなり口にすることでは無いと思った。それに今はバイトを見つけなければ生活が危うかった。おそらくは、俺がバイトを探していると察して、からかおうとしているに違いないのだ。相手にしてはいけない輩だと思った。

「お話を聞いてください。お願いします。」

 俺は耳を塞いだ。そして足早に場を立ち去ろうとした。だが呼び止めようとする声は聞こえ続けた。どこからともなく聞こえる声を防ぎようが無いのは厄介だと感じた。

 俺はどうしたものかと考えた。住宅地で街宣する政治家並みに迷惑だ。夜勤明けで寝ているときに騒がれるとたまったものではない。クレームすべきかもだが狂人の相手はしたくない。だが逃げられないなら明確に断るしか無いだろう。

 俺はどう断るべきかを考えた。俺がバイトを探していることは見透かされているであろう状態で仕事を依頼しにきているのだ。忙しいという言い訳は使えない。別の世界という戯言も非常識ではあるが否定する根拠も無かった。

 俺は少し話を聞くことにした。ふざけた話であれば追い払うネタになると思ったからだ。

「ありがとうございます。お仕事の概要からお話します。そちらで発生している神隠しを防ぐお手伝いをしていただきたいのです。」

 礼を述べながらも嬉しさを全く感じさせない淡々とした声に少し違和感を感じた。息遣いとかイントネーションといった感情を伝える要素が無いのだ。

 俺は違和感を感じつつも話の内容により困惑した。予想外にまともな話だったからだ。追い払う要素が見つからなかった。別世界に来いとか無茶苦茶を言い出すものと確信していたのだ。

 神隠しの事件は知っていた。数年前から増え始め、今やほぼ毎日世界のどこかで発生していた。ネットには国営の専用報告サイトまで設けられていた。

 昔は神隠しといえば動機や原因不明の行方不明者のことだったが、今起きている事件は別物だった。顕著な例ではフライト中にCAと会話中の客が忽然と消えた事例があった。被害者は老若男女も身分も時間も場所も問わなかった。遺留品はあった。というか肉体以外はすべて残っていた。衣類や金歯といった装着品だけでなく、体内で消化中であったろう食物らしきものまで残されていた。肉体だけが髪の毛一本すら残さずに消えていたのだ。犯行手段に繋がるような痕跡や、被害者に共通するような事柄は皆無だった。警察も調べようが無くてお手上げ状態らしいのだ。

 俺は少し考えた。そんな大事件を本当に防げるとしたら素晴らしいことだ。だが俺に頼むようなことでは無いのだ。まずは警察にでも相談すべき話だ。

「それは不可能です。私から直接思念伝達できるのは貴方だけなのです。」

 俺は選ばれた勇者設定だと確信した。俺には特別な要素など何も無いと断言できる自信があった。だから俺にだけできるという設定は通用しないのだ。よくある詐欺の手口だと俺は判断した。

 追い払うネタができたので俺は断ろうとした。

「そうではありません。自己紹介が遅れました。初めまして。私は、表世界の貴方です。」

 俺はしばらくあっけにとられた。俺がお前という設定は、勇者設定よりもあり得ない酷さではないのかと。ツッコミどころがでかすぎて返す言葉が見当たらなかったのだ。

 改めて断ろうと口を開きかけた俺は、恐ろしい事実に気がついて言葉を失った。こいつに話しかけられてから、俺はまだ一言も話していなかったのだ。それなのに会話が成立していた。あり得ないことが起こっていたのだ。

 俺は冷静に状況を整理した。こいつは俺だと言っている。そして言葉を発せずに会話が成立している。このふたつが成立する設定は何だと考えた。答えはすぐに思いついた。それは二重人格だ。こいつが俺のもうひとつの人格だとすれば謎はすべて解ける。

 謎が解けたにも拘らず俺は落ち込んだ。バイトよりも先に精神病院へ行かねばならないと思ったのだ。金欠なのにさらなる出費は厳しいと思った。

「先立つものは必要です。二重人格だと思われていても構いませんので、まずはお仕事を受けていただけませんか。」

 お前が俺なら自分でやれよと思った直後に、やらせてはいけないことに気づいて俺は恐怖した。俺の別人格であれば、俺の体の主導権を奪える可能性があると気づいたのだ。俺は指を一本づつ立ててみた。現時点では俺に主導権があった。だが何らかのきっかけで奪われる可能性を否定できなかった。

 俺は悩んだ。体の主導権を奪われるリスクを考えれば引き受けるしか無いのだろうかと。とはいえ、仕事を受けたところで報酬は俺が俺に払うことになる。先立つものなんて得られないのだ。

「ではお仕事を受けていただけるという前提で今後の報酬を一括して前払いします。少々お待ちください。」

 俺は咄嗟に身構えた。報酬を支払うということは、俺の体で報酬を用意しに行くということだからだ。犯罪にでも巻き込まれたら報酬どころの騒ぎでは無い。下手をすれば俺の人生が終わる。体の主導権は死守しなければならないのだ。

「お待たせしました。本日のJRA WIN5でxxxxxを購入してください。」

 俺は再びあっけにとられた。報酬を支払うと言いながら、俺の金で博打をして稼げとこいつは言い出したのだ。だがこいつが俺なら、俺の金はこいつの金でもある。理にはかなってはいるのかと納得もした。

 俺は気を取り直してスマホを取り出した。発券締め切り時間が近かったが、前にお試しで作ったアカウントを持っていたので慌てることは無かった。金欠とはいえ一枚百円程度なら問題無かった。それに俺はこいつに少し同情していた。俺に体の主導権がある以上、こいつは博打で夢を見ることも出来ない状態なのだと。俺は指示された通りに勝ち馬を入力した。ミスが無いように何度も見直してから発券した。

 俺はふと、こいつがどんな馬を選んだのかが気になった。恐らくは本命ばかりだろうと思いつつもレース情報を確認しようとした。そこでおかしなことに気がついた。俺は未だレース情報を見ていない。つまりこいつも見ていないのだ。山勘確定だ。最初で最後かもしれない夢を見るチャンスをこいつは自ら潰したのだ。レース情報を確認すると、指定された全馬が見事に穴馬だった。俺はこいつに対する同情が怒りに変わるのを感じた。

 俺の怒りを察したのか声は聞こえなくなっていた。俺は少し気分が良くなった。こいつを黙らせるという当初の目的が百円で達成されたからだ。

 俺は便宜上こいつをクロンと名付けた。今は静かだが、いずれまた話しかけてくるだろうからだ。名前の由来はもう一人の俺だからクローンだ。

 俺はコンビニと書店を回って求人誌に目を通した。好条件と思える募集は見当たらなかった。ネットの求人が更新されていないかとスマホを操作していたら、レースが終わっている時間だと気づいた。一応は結果を確認しておこうとアプリを開いて俺は驚愕した。上限の六億円が確定していたのだ。

 俺は咄嗟にスマホを隠した。下手に見られて大金の所持がばれると犯罪に巻き込まれる可能性が高まると思ったからだ。近くに人が居なくても防犯カメラに映っている可能性がある。防犯カメラが犯罪に使われる可能性もあるのだ。俺は挙動不審な態度をしていると自覚できたので静かに深呼吸をして気を落ち着かせようとした。そしてゆっくり考えるために店を出た。

 俺は道路脇の建物に背をあずけるように立った。誰かが近づけばすぐにわかるようにだ。

 俺は考えた。夢か、見間違いか、或いはアプリのバグや競馬場の手違いか。頬をつねったら痛すぎて涙がにじんだ。夢では無いようだ。レース結果を複数のサイトで確認したが間違いは無かった。口コミも大穴が出たことで賑わっていた。俺は現実に六億円を入手したのだと結論した。

 もうバイトを探す必要は無くなったな。俺はそう思いながらも実感が湧かなかった。当たるわけが無いと思い込んでいたのにと考えたときに再びクロンの存在を思い出した。俺が買いたくて買った馬券では無い。クロンが買わせた馬券なのだ。クロンはレース情報を一切知らなかったはずなのに大穴を的中させたのだ。

 俺は考え直した。ただの二重人格にできる所業ではないからだ。クロンは有り得ないことを実現してみせた。それはあり得ない自己紹介が事実だった可能性を意味する。仮に事実だとしても悪意が無いとは限らない。発言のすべてを鵜呑みにすることはできないのだ。それに発言のすべてに信ぴょう性が無い。現実離れし過ぎているのだ。どう接すれば良いのか俺にはわからなかった。

 俺は考えがまとまらずに葛藤した。だが結論はでていた。既に報酬は受け取っているし返す方法も無い。仕事内容も表向きは人助けなのだから受けるしか無いのだと。

「混乱されるのは無理もありません。お仕事を進める過程で信用を築きたいと思います。ちょうどお願いしたい案件が出ました。対象を生紋で探索して可視化します。」

 数時間ぶりにクロンの声が聞こえた。これから初仕事らしい。俺は不安に駆られた。高額な報酬に見合うような仕事を俺にこなせるのだろうかと。

 俺は真面目に仕事に取り組もうと意識を改めたところで疑問が湧いた。仕事は神隠しを防ぐ手伝いだと聞いた。ならば対象を可視化というのはどういう意味であろうかと。おそらくは被害者か犯人を見えるようにしたという意味であろう。それらは見えないように隠蔽されていたということであろうか。少なくともこれまでの被害者は神隠しに遭う瞬間まで見えていた。つまり犯人を見えるようにしたということであろうか。俺には格闘の経験が無い。犯人を取り押さえろと言われても無理があるのだ。

 俺は周囲に目を配りながら考えを巡らせた。すると視界の端に赤い靄が見えた。視点を移すと俺の傍らに赤い靄を纏った人が居ることに気づいた。ついさっきまでは誰も居なかったのにだ。いつの間にこんなに近くへ寄ってきたのかと、俺は驚いて飛び退いた。だが距離は広がらなかった。赤い靄を纏った人は俺と同じ速度でついてきたのだ。恐怖した俺は全力で逃げ出そうとした。

「その人に抱きついてください。」

 状況を無視したようなクロンの冷静な声で俺は落ち着きを取り戻した。クロンが関わっているのだから多少の不思議は起こって当然なのだろうと自分を納得させた。そして仕事なのだから指示には従うべきだと心の中で自分に言い聞かせた。

 俺は赤い靄を纏った人を見据えた。靄のせいではっきりしなかったが、素っ裸で全身発光したおっさんが怒り狂って暴れているように見えた。これ以上に怪しいものが思いつかないほど怪しい光景だった。俺の仕事はこのおっさんに抱きつくことだと再認識した。

 断る。俺の心は全力で拒否した。こんな怪しいおっさんに抱きつくなんて俺の精神が耐えらないのだ。即警察に通報すべきだと思った。

「了解しました。外見を女性に編集します。少々お待ちください。」

 クロンは俺の反応を想定していたかのように淡々と応えた。だが見た目だけを変えれば良いという問題では無かった。そもそも公衆の面前で知らない女に抱きついたりしたら俺の人生が終わるのだ。

「では触れてください。」

 クロンはあっけなくハードルを下げた。俺としては正直に言えば触るだけでも嫌だった。靄が毒や病原菌ではないのかという不安に加え、相手は素っ裸で暴れているおっさんなのだ。だが先に報酬を受け取っている手前、俺は我慢して手を伸ばした。

「対象の生命力との接触を確認しました。真人復元の中断を試みてください。」

 俺の手はまだおっさんに触れてはいなかった。赤い靄が生命力とやらなのだろうと俺は察した。だが真人復元という言葉が意味不明だった。中断しろと言われても手段がわからなかった。

「真人復元とは神隠しの原因です。表世界に引き込まれようとしていることを対象に自覚させれば自発的に抵抗を始めて真人復元が中断されるはずです。」

 肝心の中断方法は説明されなかった。だが引き込まれようとしているのを自覚させるということであれば、こちらからも引っ張ってやれば気づくのではないかと俺は考えた。俺はおっさんの腕を軽く掴もうとした。だが掴んだ感触は無かった。

「真人復元の妨害に成功しました。最初の案件は終了です。」

 クロンの声に俺は耳を疑った。六億円もの仕事がもう終わりだと言われたからだ。あまりにも簡単すぎた。

 安堵した次の瞬間に俺の体は硬直した。全身から冷や汗が噴出するのを感じた。何故ならおっさんが忽然と消えたからだ。

 俺は気がついた。妨害に成功などしていなかったのだと。恐らく俺は神隠しの犯行に加担してしまったのだ。感情の読めないクロンの声は冷酷さ故であり、高額な報酬は闇バイトだからなのだ。

 まんまと騙されて犠牲者を出してしまったと苦悩する俺にクロンが淡々と説明を始めた。

「消えたように見えたのは可視化を解除したからです。対象の生命力を貴方にだけ可視化していたのです。」

 クロンの言葉を聞いて俺は慌てて周囲を見回した。あれだけ目立つおっさんだったのに騒ぎにはなっていなかった。クロンの言葉では初めて信ぴょう性を感じた。信じたいという気持ちが強かったこともあるのだろう。

 俺のほうを見ている人は居たが、目が合うと何事も無かったかのように歩き去った。見られていたことに思い当たる節はあった。おっさんが見えていなかったのであれば、俺がひとりで飛び退いたり何も無いところに手を伸ばしていたように見えたはずだからだ。俺が怪しまれたのは当然だろうと思った。

 ではおっさんはどこに居るのかと俺は疑問を覚えた。神隠しを妨害できたのであればどこかに居るはずなのだ。

「対象が表世界の何処に居るかは不明です。生命力に物理的な位置や障壁は影響しません。例えますと、二次元の地図の上では遠く離れた二点でも、三次元から折りたためばゼロ距離にできます。可視化している間は、貴方と対象がどこにいても近くに見ることができます。」

 俺にはよくわからない説明だった。生命力とやらが別次元に存在すると言いたいのであろうことは推測できた。

 俺は落ち着きを取り戻した。こいつの話を全面的に信用することはできないが、神隠しの共犯になっていない可能性も高まったと思ったからだ。

「本日はありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。」

 再びクロンは沈黙した。本日はと言った以上、今日はもう話しかけてこないのであろう。

 俺は安堵して一息ついたが、直後に猛烈な疲労感に襲われた。楽な作業しかしていなかったのに、気を抜くとぶっ倒れそうな気がした。俺はふらつきながらもいつもの癖で弁当を買い、歩いて帰宅した。


 俺は自室のベッドの上で目覚めた。もう昼過ぎだった。昨日は帰宅した直後にベッドに倒れこんでそのまま眠ってしまったようだ。

 俺は室内を見渡した。単身者向け安アパートの見慣れたワンルーム。ほぼ備え付けの家具しか置いていない。食事と寝るためだけのいつもの殺風景な部屋だった。

 俺はスマホから口座の残高を確認した。大金は残っていた。昨日の出来事が夢では無かったのだと思い返した。

 六億の数字を眺めながら俺は考えた。もう少し良い部屋に住むべきか。だが食事と寝るだけだろうから無駄か。それにほぼ半分は確定申告で消える。さらに社会保険料が引かれ、残った金にも使用時は消費税がかかる。俺はしばらく金を寝かせておくことにした。その日暮らしのバイト生活が気に入っていたから慌てて金を使う用途は無いのだ。

 俺は立ち上がって軽く体操をした。まだ疲れが残っていたのだ。あの簡単な仕事の疲れとは思い難かった。ほとんど体力を使っていなかったのに不思議だった。

 俺はスマホから神隠しの専用サイトを恐る恐る覗いてみた。新たな神隠しは発生していなかった。昨日の作業が神隠しの手伝いだったのかもしれないという懸念はとりあえず払拭された。

 安心すると空腹に気付いた。昨日買った弁当が残っていた。賞味期限内だからまだ大丈夫だろうと開封して食べ始めた。

「聞こえますか。」

 クロンの声がした。軽くビブラートでもかかっているような不安定な感じがした。思念伝達とやらでも世界を跨いでいるなら好不調があるのだろうと俺は気にしなかった。

 とりあえず飯くらいは静かに食わせろよと思った。だが昼過ぎまで俺が寝ていたことを思い出して大人しく聞くことにした。

「購入された馬券について確認させてください。詳細を教えていただけますか。」

 何故今更と俺は思った。すでに当たっているのだから確認するまでも無いはずだからだ。だが事務作業として必要なのかもしれないと考えて、俺は購入履歴を見て念入りに確認した。

「ありがとうございます。では失礼します。」

 俺は拍子抜けした。馬券の確認だけで今日は終わったのだ。昨日はあれだけしつこかったのにだ。

 防げない声から解放されるのは喜ばしいことだ。そう思った俺は飯を口にかきこんだ。空腹が酷いのも手伝って、いつもの弁当が旨く感じた。

「おはようございます。想定通りの干渉を確認しました。」

 俺は飯を吹き出しかけてこらえた。突然後ろから驚かされたような気分だった。失礼しますと言ったのは何だったのかといぶかった。

「先ほどの問い合わせは、レース開始前の私からのものです。」

 クロンの言葉の意味を俺にはしばらく理解できなかった。クロンがおかしなことを言いだすことには慣れてきていた。だがこれは聞き流せる言葉ではなかった。

 レースを当てたのは八百長工作でもしていたのだろうと俺は勝手に思い込んでいた。だが違った。未来への干渉だ。その手の空想作品は幾つも読んできた。だから極めてリスクが高いことを俺は知っていた。

 クロンの声は昨日の状態に戻っていた。さっきは過去からの声だったから不安定だったのかと俺は察した。俺はふと、手の込んだいたずらかもしれないとも考えた。未来干渉したかのように演技をしただけなのかもしれないと。そう疑わざるを得ないほど信じがたい話だった。だが実際に馬券は当たっているのだ。

 ふつうなら未来への干渉なんてできるわけが無いと一笑に付すところだ。だがクロンが関わっているとなると俺には笑えなかった。干渉の可否よりもリスクを冒した意図が気になった。俺よりもクロンのほうがリスクの大きさを理解しているはずなのだ。

「貴方ひとりが博打に勝つ程度であれば影響も小さいと判断されました。無論、影響範囲の確認も慎重に行われています。」

 想定外の酷い解答に俺は呆れた。小さな影響でもバタフライ効果で大きく波及する可能性がある。……らしいのだ、俺が読んだ空想作品では。影響範囲の確認なんて簡単にできることではないはずなのだ。

「ほかに報酬の支払い手段が見つからなかったことと、貴方の協力が必要不可欠であったことから認可されました。」

 神隠しを防ぐためとなれば俺も納得せざるを得なかった。競馬で当たっていなければ俺が仕事を受けなかったであろうことは俺自身が認めざるを得ないのだから。

 だが考えてみると酷い話だ。俺に報酬を支払ったのは競馬場なのだ。表世界とやらはまったく身銭を切っていないということだ。

「未来への干渉には天文学的な運用コストがかかっています。また、裏世界の人々を救う作業にもなりますので、公的機関からも出資していただくのは筋だと判断されました。」

 俺には詭弁にしか聞こえなかった。やはりこれは闇バイトの類ではないのかとふと思った。報酬は競馬場から騙し取ったようなものだからだ。

「違法行為はしていないので闇では無いと思います。こちらでは裏世界のお仕事と呼ばれいます。」

 俺は語呂が最悪だと思った。未来への干渉なんて想定されていないから法が整備されていないだけなのだ。モラル的に完全にアウトだと思った。

 だが無報酬では俺が生活できない。別世界からの報酬の直接支給が不可能であることも理解できる。神隠しという重大問題に対処するには仕方がないのかとも思えた。

 渋々納得しかけた俺はふと疑問が湧いた。過去の俺がレースに勝てたのは、未来の俺がレース結果を教えたからだ。でも俺は元々競馬をやるつもりは無かったのだ。未来の俺はレース結果なんて知らなかったはずなのだ。辻褄が合わなかった。

「本件の手順では、貴方が馬券を買っていなかった場合には、レース結果を貴方に調べていただくことになっています。」

 クロンはまるで他人事のように説明をした。クロンが手順通りに実施したなら覚えているはずだから違和感を感じた。

「私の記憶では、先ほどの問い合わせの通りになっています。つまり貴方が馬券を買っていたことになっています。過去も変わったということです。」

 過去も、という何気ない言葉に俺は恐怖した。俺はただ質問に答えただけなのだ。その結果として、未確定だった未来だけでなく、すでに確定していたはずの過去までも変えてしまったということなのだ。俺は何も知らなかったのにだ。俺が今までに経験してきたことは、俺の何気ない言動ですべて無かったことにされるかもしれないということなのだ。

「怖さをわかっていただけたなら幸いです。本来軽々には使えないシステムです。」

 だから一度のレースで今後の報酬をすべて前払いしたのだなと俺は納得した。未来への干渉はこれっきりということなのだろう。

 俺は新たな疑問が湧いた。未来がわかるのであれば、わざわざ別世界の俺を使わなくても事件を防ぐことは容易ではないかと思ったのだ。

「ふたつ問題があります。ひとつには私自身、つまりは貴方にしか干渉できません。従って私や貴方が詳細を知りえない事件は防げません。」

 直接レース結果を調べずに俺に聞いてきたのはその制限のためかと納得した。

「もうひとつは、貴方が懸念されている通りです。未来に干渉すると、予期しない方向に過去や未来が変わってしまうリスクが高いのです。」

 本件に限ればだが、未来が良くなるまで干渉を繰り返すことで対処できるのではないかと俺は思った。

「例えば、未来の自分が裕福であることを知ったら今の努力をやめてしまいませんか。未来の裕福さが今の努力の結果だとしたら、貧しい未来が訪れることになりえます。それに繰り返しはコストが高すぎるので財政が破綻してしまいます。」

 知らないほうが良かったというケースにもなりえるのだと俺は理解した。やはり未来への干渉は避けるべきなのだなと改めて思った。

 俺は弁当を食べ終えた。話も一段落した。次は今日の仕事の話だろうと外出の準備を始めた。

「すみません。男の人を食べてしまったみたいで取り調べを受けることになりました。また後程連絡します。」

 ズボンを履きかけだった俺はバランスを崩して倒れかけた。もう何を言われても驚かない自信があった。今それは粉々に打ち砕かれたのだ。

 俺はふと気づいた。男を食べたというのは性的な意味ではないのかと。むしろそうであってほしいと思ったが、それにしては言い回しがおかしかった。

 俺はこれからどうするかを考えた。取り調べとなると数日は戻ってこないかもしれないのだ。下手をすれば二度と戻ってこない可能性もあるだろう。

「お待たせしました。誤食が認められて解放されました。」

 俺の想定とは裏腹にほんの数分でクロンは戻った。取り調べも思念伝達ですぐに終わるのだろうか。それにしても早すぎると俺は思った。

 クロンは誤食と言ったのだから、やはり性的な意味では無い。だが人を誤って食べるなんて状況を俺には想像できなかった。

「食事中に男の人が近づいてきたらしいのです。それで獲物と一緒に食べてしまったようです。」

 俺には理解できない説明だった。クロンは生きたままの人を食べても気づかなかったと言っているのだ。しかもその言い分が認められて解放されたと言っているのだ。

「男の人は小さいので、獲物に紛れると区別しづらいのです。加えて今はこの仕事の装備で確認が困難です。せめて触角の部分を外せれば食べる前に気づけた可能性があります。」

 俺は大きな勘違いをしていたことに気づいた。会話が成立する人だから同じような容姿だと勝手に思い込んでいたのだ。だがよく火星人がタコのイメージで描かれていたりすることを思い出した。別世界なのだからこちらの常識とは違って当然なのだと気づいた。

 俺は冷静さを取り戻そうとした。幾ら常識が異なるとはいえ人を食ったとなればどうなるのかと考えた。遺族への慰謝料だのなんだの大変なはずだ。この仕事は続けられないのではないかと考えた。

「罰はありません。日常茶飯事のことです。」

 クロンの言葉に俺は再び動揺した。クロンは日常的に女が男を食い殺していると言ったのだ。これまでの経緯からして表世界とやらは遥かに文明が進んでいるのだと俺は思っていた。だがこれでは無秩序な無法地帯ではないか。

「無法ではありません。故意に食べれば厳罰に処されます。下心で近づいてくる男の人が絶えないのです。誤食されかねないことは分かっているはずなのですが。」

 少しだが俺にも状況を理解できた。下心で法を犯す者はどこにでも居る。どれだけ危険だと自覚していてもだ。世界が変わろうが容姿が変わろうが文明が発達しようが、人の根本は変わらないものだと思った。

 だが日常的に男が捕食されて減っているとなれば種の存続が危うくなっていそうだと俺は懸念した。精子バンクのようなものが活用されまくっているのだろうかと考えた。

「男の人は減っていません。捕食してしまうのは分体です。本体で活動している人は居ないと思います。」

 クロンのよくわからない説明で俺は完全に理解した。考えるだけ無駄なのだということを。常識が異なるとわかっていても、考えるときにはこちらの常識に頼らざるを得ないのだから。俺は仕事以外のことを詮索するのはやめることにした。

 あまりにも違う世界を言葉だけで説明することには無理がある。思念伝達ならば映像のようなイメージも送れるのではないかと俺は思った。

「可能です。ですが裏世界に対しては制限されています。お互いの精神に多大なダメージを与える可能性があるからです。」

 たしかに、人を食べるシーンとか送って来られたきついかもしれないと俺は納得した。

「貴方に対してはお仕事に必要な行為であれば会話以外も認められています。これまでにも生紋や可視化の補助情報を送っています。」

 言われてみれば当然だった。補助も無しに、俺に生命力なんて見えるわけが無いのだ。だが無意識に何かを受け取っていたのは怖いと思った。有害な要素があったかもしれないのだから。

「貴方は私なので危険なことはしません。ただし可視化のような能力補助については使用中に生命力を消費するので一時的に疲弊する可能性はあります。」

 仕事後の猛烈な疲労感の原因がわかった。先に説明しておいてほしかったと俺は思った。

 着替えを終えて外へ出ようとした俺は戸惑った。どこへ行けば良いのかと。生命力を扱うのに物理的な位置は関係しないと聞いた。ならば室内でも良いはずなのだ。

「ではお仕事をお願いします。手順は昨日と同じです。」

 クロンが話し終えるとすぐに、赤い靄を纏った光る女性が傍らに現れた。座って何らかの作業をしているように見えるがやはり素っ裸だ。何故毎回素っ裸なのだと俺は困惑した。

「生命力に物理的な形状はありません。すべての細胞には生命力が充満しているので細胞の密集した体が目立って人の姿に見えるだけです。」

 衣服に生命力は無いから仕方がないのだなと俺は納得した。俺は改めて女性を見たが裸体を凝視するのは失礼だと思った。だが見なければ腕を掴めないのだ。仕方なく観察してみたが焦点が定まらない感じでぼやけていた。

 俺は腕を取ろうと手を伸ばしてふと思い出した。最初は抱きつくようにクロンから指示されていたのだ。もしかしたら抱きつくほうがより良い結果を得られるのかもしれないと俺は考えた。ここは俺の部屋で衆目も無いから抱きつくことも可能なのだ。

「抱きついても効果は変わりません。抱きついて引き留めようとする行動で、真人復元を対象に気づかせられるのではないかと期待して提案しました。」

 クロンは期待と言った。具体的な中断手段をクロンも知らなかったということなのだろう。だから抱きつくことを拒否した俺には具体的な指示を出せなかったのだと察した。恐らくは両世界の勝手が違いすぎてわからないことも多いのだろう。

 俺は赤い靄を纏った女性の腕を取った。やはり感触は無い。すぐに女性は消えた。

「神隠しの妨害に成功しました。本日もありがとうございました。今後もよろしくお願いします。」

 クロンの声が途絶えるとやはり疲労感が襲ってきた。今日も可視化を使ったせいだろう。仕事中に疲れを感じなかったのはクロンが緩和していたのだろうと察した。疲労感は昨日ほどでは無かった。慣れれば楽になるのかもしれないと思った。


 俺が今の仕事を始めてから一週間経過した。その間に神隠しは一度も報告されていなかった。俺はこの世界の英雄ではないのかと我ながらいい気になっていた。おまけに楽な仕事であるうえ、報酬は大金を前払いされているのだ。まさに理想のバイトだった。

 俺はニュースに目を通した。大きな事件は見当たらなかった。俺のおかげで今日も平和だと思った。だが妙な広告が目についた。派手な彩色の怪しい背景の上に、『真人復元は神の救済である。妨げるべからず。』と書かれていた。広告欄なのに何を広告したいのか理解できなかった。それに真人復元という言葉には聞き覚えがあった。

「困った事態になりました。上官に報告してきます。」

 珍しく挨拶もせずにクロンが言った。真人復元とやらが神隠しの原因であることをクロンの反応で思い出した。表世界の奴がこっちで広告を出したということなのだろう。つまり俺以外にもこっちの世界の協力者が居たということだ。

「戻りました。今までご協力ありがとうございました。ただいまを以って、このお仕事は終わりとさせていただきます。」

 寝耳に水とはこのことだろう。元々乗り気では無かった仕事だが、今では英雄気分で張り切っていたのだ。楽しくなり始めたゲームが緊急メンテからサ終になったような気分だった。それに神隠しの対策の代案も必要だ。俺にだって消えてほしくない人たちが居るのだ。突然の解雇には納得がいかなかった。

「真世界復元教が裏世界に進出したようです。これ以上お仕事を続けると貴方の身が危うくなりかねないのです。」

 危険と聞いて俺は躊躇った。考えてみれば、表世界からは俺を通さなければ何もできないようだった。だから恐らく俺の安全は保証されていたのだ。だが真人復元がどうのという広告が出た。真世界復元教とやらにもこの世界に協力する者が現れたということなのだろう。そいつが俺を狙ってくる可能性を危惧されたということか。

 俺は今までに襲われたことや殴り合いの喧嘩をしたことが無かった。だから狙われると自覚しても特に恐怖は無かった。ただ論理的に考えて、避けるべき危険であることは理解していた。それでも俺はこの仕事を続けるべきだと思った。自分が英雄だと思って気分が舞い上がっていたせいかもしれない。

「ありがとうございます。貴方の意志を上官に報告してきます。」

 俺は少し早まった気もしていた。だが覚悟を決める時だと己を鼓舞した。俺だって一応は男なのだ。

「お待たせしました。広告で警告してきたということは、まだ私たちを特定できていないと推測します。差し迫った危険は低いと判断されました。改めてお仕事の続行をお願いします。ですがその前に、お仕事の背景について説明させてください。貴方自身が身を守るための知識を持って頂きたいのです。」

 願ってもないことだと俺は思った。妄想話を聞く気は無いが、今となっては現実として受け止めざるを得ないのだ。情報は少しでも多いほうがありがたかった。

「人はふたつの世界にひとつづつ命を持っています。そしてふたつの命の間を生命力が循環しています。」

 クロンは俺であり、俺にだけ思念伝達できると言っていた根拠がこれなのであろう。ならば俺が死んだらクロンも死ぬのかが気になった。

「いえ、命は独立しています。例えるなら生命力という樹に、私と貴方というふたつの花が咲いている感じです。」

 少し意外だったが俺は安心した。実質的には無関係の他人だと考えたからだ。過度にお互いを気遣う必要は無いわけだ。

「関係はあります。まず生まれる段階で能力に影響しています。生命力から供給される能力は一人分です。それが二人に分配されています。均等にでは無く、偏りが発生しています。つまり貴方が男だから私は女なのです。貴方の得意は私の不得手であり、その逆も然りです。」

 俺は驚いた。俺には人として半分の能力しか備わっていなかったと言うのだ。分配されなければ欠点の無い完全体になれたのであろうかと疑問が湧いた。

「その通りです。我々は便宜上その完全体を真人と呼んでいます。裏世界の人を取り込んで真人になる手段が真人復元です。私が貴方という言葉の真意でもあります。私か貴方のどちらかが死ぬと、私たちは真人に戻れないことになります。」

 俺はさらに驚いた。俺とクロンでいわば超人になれるということなのだから。そして男女がひとつになるというのはエロいと思った。だが肉体が融合するならグロいかなと妙な姿を想像してしまった。

「凸凹」

 異様な雑音が聞こえて俺は想像を中断した。俺の想像はクロンに思念伝達される状況なのだ。不快にさせてしまったのではないかと懸念した。

「失礼しました。翻訳できない言葉か、してはいけない言葉が混じったようでエラーが発生していました。」

 クロンの説明で、気になっていたひとつの謎が解明された。感情を感じさせない話し方をしていたのは翻訳機の音声だったからだ。別世界のクロンが日本語を話すわけが無かったのだ。翻訳という割に意味不明な言葉も混じっていたから完全では無いようだ。それでも別世界のローカルな国の言語を扱えるのはすごいと思った。

「理論上の真人は雌雄同体であり、どんな難題でも瞬時に解決する明晰な頭脳を持ち、どんな動きも可能な極めて高い身体能力があるとされています。」

 これまでの話からすると、神隠しにあった連中は真人になったということだ。表世界で超人として生きているならまだマシな状況だと俺は思った。でも表世界の人と二重人格になっているのかもしれない。肉体もいびつになりそうだと再び俺は妙な姿を想像しそうになった。

「いえ、肉体は再構築されて全く別の姿になります。意識については不明です。真人はすべて消滅しているのです。」

 クロンの説明を俺は訝った。消滅するとわかっているなら、真人になろうとする奴は居なくなるはずだからだ。

「ひとつには自分だけは大丈夫と根拠も無しに考える者が多数居ます。真人になる魅力は大きいので我先にという感情を抑えられないようです。」

 俺は少し納得した。マウント取りに命をかけるようなものだなと。こちらの世界でも危険な行為に挑戦して死亡するニュースは珍しく無かった。

「もうひとつには真世界復元教の影響が甚大です。極めて多くの信者が居るだけでなく、信者以外にも多大な影響力を行使しています。」

 カルトに洗脳された信者に道理が通じないことを俺は知っていた。厄介な話だ。だがどちらにしても消えるのは自己責任だと思った。こちらの人が巻き込まれるのは問題だが、クロンが介入する理由にはならないと思った。正義感でやっているのだろうか。

「現状では真人復元は危険行為として法で禁じられています。加えて裏世界の人を巻き込むので、裏世界との外交関係を結ぶ時に問題になる可能性が高いです。」

 要は仕事でやっているのだと俺は理解した。思いのほか普通だった。異常が続くと普通が異常に思えるから不思議だ。

 次に真人が消滅する理由が気になった。元の状態に戻しただけならば消える道理が無いのだ。

「現在も調査中です。消滅の原因については、自ら消滅を選択しているように見えています。消滅を選択する理由については幾つか推測の説があります。ひとつには別世界の記憶がショッキングな内容で精神が耐えられなかったという説。もうひとつには、真人復元前の両者の考え方の違いから矛盾が生じて精神が崩壊してしまうという説。最後に、表裏の世界をまとめて真世界にした環境にしか適合できないという説が有力です。どの説にも決め手になるような根拠は存在しません。」

 俺はクロンが男を食い殺した件を思い出した。そんな記憶が突然湧いて出たら消えたくなってもおかしくはない。それでも全員が消滅を選択するとは思えなかった。調査結果を待つしか無いのだろう。

「では話を進めます。真世界復元教の教義では、多くの人が真人に復元されれば、ふたつに分けられた世界もひとつに復元されることになっています。その際にすべての人が真人に復元されることになっています。」

 俺にはそんな教義を信じられるのが不思議だった。人をくっつけたら世界がくっつくとか論理的に説明がつかないからだ。

「これまでの研究で、人と世界は同時に分割されたという考えが主流になっています。ここまでは宗教ではなく一般論です。真世界復元教の考えでは、分割された世界を繋ぎ止めているのが人の生命力だとしています。故に生命力という支えが減れば引き合って融合するという考え方のようです。荒唐無稽ではありますが、これを確実に否定する論拠は今のところありません。」

 あちらの世界では論理的に成立している教義らしい。信者が多いことに納得できた。そして真人復元を妨害する俺を狙う可能性がある理由も理解した。

 俺はひとつ疑問が湧いた。俺とクロンが考えたことは思念伝達で伝わっている。つまり嘘はつけない状態だ。広告を出した奴も同様だろう。ならば真人になれば消滅するとわかっていながら協力していることになる。協力者まで自分だけは消えないなんて都合よく思っているのだろうか。

「自分は消滅しないと信じていれば、裏世界の自分にも消滅しないと伝わります。嘘をつけないと知っているのが仇となって騙されてしまうと考えます。」

 思念伝達でも無条件に信用できるわけでは無いのだなと俺は理解した。

 確かに真人になることは魅力かもしれない。だが俺は今の生活が気に入っている。消滅しないとしても俺はこのままでいいと思った。

「真人の比率が高くなれば好条件のお仕事の募集は真人のみになるはずです。」

 俺だけが今のままというわけにはいかなくなるわけだ。俺は右に倣えの生き方が嫌いなので残念に思った。

 クロンからの説明は一段落したようだ。だがクロン自身についての説明が無かった。クロンが俺としか話せない理由はわかったが、クロンが担当しなければならない理由がわからないのだ。ほかの人にやらせれば、しつこく俺にこだわる必要は無かったはずなのだ。

「元は一般人です。表世界で協力してくれる人は極めて稀なので統制局から常に一般募集されており応募しました。貴方が応じて下さったので今は重要人物としての扱いを受けています。」

 俺は極めて稀な例だったらしい。特別な要素は何も無いという自負があったのにおかしなものだ。だがこの手の話を面白がって応じる奴は結構居るはずだと俺は訝った。

「夢や病気だと思って相手にしてくれない人が大半です。信じてくれても悪事に利用しようとする人が多いです。残りの人も、考えたことが伝わるとわかると断られてしまいます。」

 言われてみれば俺にも該当していた。最初は二重人格だと思って精神病院へ行こうとしていたのだ。競馬に応じていなければ誤解したままで終わった可能性が高い。

 悪事についてはお前が言うかと俺は思った。競馬での未来干渉は俺にとっては悪事でしか無いのだ。俺が悪用しようと思わなかったのは大金を貰っていたお陰だろう。

 思念伝達はプライバシーを守れないから拒絶されても仕方がないと思った。俺は二重人格だと思った時点で諦めがついたお陰か気にならなかった。

 クロンと協力関係を築けたのは偶然が重なった結果なのだなと思った。

「とりあえず、なるべく目立たないように活動してください。貴方が真人復元を妨害していることを知られると襲われる可能性が高いです。」

 俺が英雄気取りになっていたこともクロンには伝わっていたようだ。SNSで英雄伝を拡散したりするなと釘を刺したのかもしれない。

 俺はどんな手段で襲われるのかが気になった。

「真世界復元教は信者から集めた莫大な資金で強大な武力を備えています。ですが裏世界の貴方に対して行使できる手段があるかについては不明です。何らかの攻撃手段を送れるとしても、補助器具の無い裏世界では生命力の消費が大き過ぎて実質的に使えない可能性が高いとは思います。今日は急ぎの案件が無くお休みにしますので、難しいとは思いますがあらゆる状況に備えてください。」

 言葉で言うのは簡単だが、あらゆる状況に備えるというのは実質的に不可能だ。別世界からの技術ともなれば認識すらできない可能性が高い。自滅しないように健康管理を徹底するくらいしか俺には思いつかなかった。俺は健康法を調べながら試す内に一日を終えた。


 俺は今日もニュースに目を通した。神隠しが発生しなくても痛ましい凶悪な事件は発生していた。

 俺はふと思った。消えるべき凶悪犯まで俺が救ってしまっているのではないのかと。

 俺は悩んだ。俺が今の仕事を断っていれば、今ニュースになっている事件は防げたかも知れないのだ。俺には救済対象がどんな人だかわからないのだから。だが仕事を断れば善良な人も神隠しに遭ってしまう可能性が高い。それに今まで神隠しに遭った人たちの中に凶悪犯は居なかった。とはいえ凶悪犯なら隠れ潜んでいるだろうから神隠しに遭っていても誰も気づかなかっただけの可能性もある。堂々巡りで俺の考えはまとまらなかった。

 俺は他の人助けに置き換えて考えた。誰かが危険な目に遭いそうなときに、相手が悪人かどうかを確認してから助けるだろうか。否だ。ここは割り切るしか無いのだと自分を納得させた。

「おはようございます。本日のお仕事をお願いします。」

 クロエの声がした。タイミングが良すぎると俺は思った。まるで俺が葛藤を終えるのを待ってくれていたようだ。だが待っていて良いのかと俺は疑問に思った。神隠しは突然発生するのだ。それなのに悠長に待っていては妨害が間に合わないはずだ。

「真人復元は準備に時間がかかります。そちらの時間で二日ほどでしょうか。準備完了すると一瞬で発動します。妨害は準備期間に行っているので問題ありません。」

 考えてみれば当然だった。準備無しで終わるなら俺に依頼する前に完了するだろうから妨害は不可能なのだ。病原菌の潜伏期間のようだと俺は思った。

 俺はいつものように真人復元を中断させようとした。その時に異変が起きた。

「神に背く不届きものはあなたですね。」

 クロンの声だがクロンでは無い。酷くノイジーだし発言内容がおかしいことから俺は察した。そして対象が俺の腕を掴んでいるように見えた。

 咄嗟に俺は腕を振り払った。腕は掴まれたままだったが、掴まれている感覚は無かった。やはり実体では無い。

 しばらくすると対象は勝手に俺の腕を離して消えた。可視化が解除されたということだ。わけがわからず俺は混乱した。仕事が終わったわけでは無いし、異常な行動をした対象を見失うのは危険なはずなのだ。今可視化を解除する理由が思い当たらなかった。

「すみません。対象が生紋を偽装していたようです。生紋の変化により可視化対象ではなくなりました。さらにこちらの生紋を採取されてしまったようです。今後私たちを直接狙ってくる可能性が高まりました。」

 声からノイズが消えていた。今度はクロンのようだった。生紋を取られて狙われると言っているが具体的な状況がわからず俺は困惑した。

「統制局では真人復元反応のある生命力を常時探索しています。発見次第生紋を取得して対象を確定しています。生紋とは生命力を特定するための固有の特徴をまとめた情報です。統制局に登録済みの生紋であれば該当者を確保しています。何らかの抵抗を受けて確保できなかったり、生紋未登録等の理由で該当者を特定できない場合が貴方に依頼する案件となっています。今回は生紋を取得した時点で偽装されていたようです。」

 真世界復元教とやらを警戒していたはずだが逆に俺の情報を奪わて特定されたということらしい。統制局というのは間抜けなのかもしれない。或いは真世界復元教が極めて優秀なのか。いずれにしても俺の身がやばくなったということだと俺は緊張した。

 俺は室内を見渡した。武器になりそうな物を探したのだ。だが弁当に付いてきた割り箸くらいしか見つからなかった。俺は武蔵ではないから箸ではハエすら倒せない。

 すぐに身を隠さなければならないと俺は考えた。しばらく宿泊施設を利用しても問題無いだけの金はあるのだ。その間に転居先を探すべきか。

「物理的な位置は関係ありません。生紋を採取されてしまった以上、どこに居ても生命力を探索されてしまいます。」

 退路を模索する俺にクロンは容赦無く現実を突き付けた。今回は逃げ場を奪うために生紋とやらを採取しにきただけということなのだろう。

「迂闊でした。裏世界に協力者が居るような稀有な人材で真人復元を試みるとは想定していませんでした。」

 つまり対象もこちらの世界の協力者を使っていたから俺に触れて生紋を取得できたということらしい。今回の真人復元は俺を釣るための罠だったようだ。

 俺は今回の対象を便宜上刺客と呼ぶことにした。俺は恐らく思念伝達で刺客の声を聞いた。俺と話せるのはクロンだけだったはずなので疑問に思った。

「裏世界と直接思念伝達できるのは貴方だけです。ですが生命力が接触している相手であれば貴方を仲介することで間接的には可能です。」

 対象が俺の腕を掴んでいたから生命力は接触はしていた。だから刺客の協力者を仲介して俺に話しかけられたわけだ。声がノイジーだったのは間接的な思念伝達だったからなのだろう。

 いずれ特定されることは覚悟していたのだ。今更嘆いても仕方がないことだ。俺はこれからどうすべきなのかを知りたいと思った。

「とりあえず我々の生紋を偽装しました。看破されるまでに対策を検討します。上官に報告してきます。」

 これから検討かよと俺は心の中で嘆いた。俺も覚悟していながら対策はできていなかったのだから人のことは言えないのだが。

 俺は待ち続けたがクロンは静かなまま夜になった。襲われた時に寝不足では危険だと俺は考えた。生紋の偽装とやらが看破される前に寝ておこうと俺はベッドで横になった。

「お休みのところを失礼します。」

 ようやくクロンの声がした。だが声がノイジーだ。俺は前にもこのノイズを聞いたような気がした。

「はじめまして。私は真世界復元教の教祖です。」

 俺は飛び起きた。偽装とは何だったのかと訝った。早くも看破されていた。おまけにクロンと同じ声なのは勘弁して欲しいと思った。

「申し訳ありません。裏世界の人の声のサンプルは少ないのです。利用頻度が少なくて需要もありません。そのため翻訳機で使えるのはこの声だけなのです。貴方の声を提供してくだされば近いうちに利用可能にできます。」

 俺の声でほかの人に話しかけられたりしたら、俺のいたずらだと勘違いされかねない。俺は心の中で拒絶した。そもそも俺と教祖はそんな話をする仲では無いはずだ。

 俺は慌てて周囲を見渡した。誰も居なかった。協力者が襲ってきたわけではなく、生命力を接触させているだけなのだろう。だが今の俺には生命力を知覚できなかった。

 こちらの世界の協力者が稀有ならば、前回の刺客も広告も教祖自身だったのではないかと俺は考えた。まとめて対処するチャンスだといえる。

 だが教祖であれば最も強力な攻撃手段を使えるだろう。協力者を使わないということは生命力を介した攻撃手段があるに違いないのだ。だが俺には身を守る手段が無かった。

「刺客ですか。恐ろしいことを言わないでください。私には誰も傷つける意図はありません。」

 それはあり得ないと俺は思った。強大な武力を備えているとクロンから聞いているのだ。

「お恥ずかしい限りです。ですが我々の武力はあくまでも身を守る為に備えたものです。統制局は救済活動を武力で妨害してくるので止むをえなかったのです。」

 初対面の、それも敵の言葉を鵜呑みにはできない。だがこれも思念伝達なら嘘はつけないはずだと俺は考えた。

「冷静なご判断です。素晴らしいですね。表世界の貴方とは大違いです。これから有意義なお話をできそうで嬉しく思います。」

 クロンとも話をしたような言い方だ。ならば何をしに来たのだろう。仕事に関してはクロンのほうが圧倒的に詳しいのだ。

「はい。貴方方の生紋を取得済みなので直接会えずともお話は可能でしたので。ですがヒステリックに私を拒絶されるばかりで、まったくお話になりませんでした。」

 クロンがヒステリックだと言われてもピンと来なかった。俺に対しては常に冷静に振舞っていたからだ。考えてみれば翻訳機のせいだったのかもしれない。

「翻訳機は暴言ですらも丁寧な言葉で意訳してしまいます。長所であり短所でもあります。」

 教祖の落ち着いた話しぶりに俺も冷静さを取り戻してきた。襲う気が無いのであれば教祖は一体何をしに来たのかと考えた。

「裏世界の方とのお話しは極めて有意義なことです。加えて貴方は我々の活動を妨害する立場にありますので、我々とは視点の異なる意見をお持ちのはずです。もうあまり時間がありませんので、今のうちにお話しをさせていただきたいと伺った次第です。」

 俺は教祖に対して勝手に独裁者的なイメージを持っていた。だが敵の意見まで聞きに来るようなら認識を改める必要がありそうだと俺は思った。もう時間が無いという言葉は気になったが。

「間もなく、二十億人の真人復元を同時に発動する準備が整います。貴方の妨害手段は既に確認しております。貴方に阻止することは不可能です。」

 俺は認識の甘さを痛感した。教祖はいきなり数の暴力を振るってきたのだ。認識を改める必要など無かった。

「暴力ではありません。貴方や他の誰かに危害を加えようとしているわけではないのですから。彼らは自らの意思で自らを真人に復元しようとしているだけなのです。」

 教祖は自らの意思と言った。だがこちらの世界の人の意思は無視されて巻き込まれているのだ。言い訳にすらなっていないと俺は考えた。

「話しかけてはいたのです。ですが応じてくださらなかったのです。なればやむを得ないと考えます。それに危害を加えるわけでありません。勝手に分けられてしまっていた命をひとつに戻すだけなのです。」

 こちらの人が呼びかけに応じない点についてはクロンから聞いて理解していた。だが俺が知る限り、真人になろうとした人はすべて消滅したことになっているのだ。故に教祖の行為は明白に危害を加える行為だと俺はみなした。

「残念なことです。彼らには信仰心が足りなかったようです。」

 まったく説明になっていないと俺は思った。真人に信仰心が必要だという根拠が無いのだ。

「人が自らの消滅を望むのはどのような時でしょうか。それは絶望するほど大きな不安を感じた時でしょう。不安を抱えた人は宗教を信仰することで不安を取り除けます。でも信仰心が足りなければ不安が残ってしまいます。真人となって明晰になった頭脳に別世界の衝撃的な情報が一気に流れ込めば不安は膨れ上がり正常心を奪ってしまうのです。」

 不安で自殺する人は居る。信仰で不安を取り除けた人が居ることも理解できる。だが不安が理由で一律に全員が消滅を選ぶとは俺には思えなかった。原因を特定できていない現状で真人になろうとすることは誤りだと俺は考えた。

「私は直接に神託を授かりました。神は我々が真人であったこと、そしてその素晴らしを説かれ、最後に消え入るような声で『真人になって』と仰られたのです。ですから真人になろうとする行為に誤りはあり得ないのです。」

 俺は考えた。嘘をつけない以上、教祖が何らかの言葉を聞き、それが信仰の根拠となっているのは事実であろう。だが神託なんてものは存在しない。それに真人という呼び方は表世界の連中が便宜上付けたと聞いている。神が居たとしても使う言葉とは思えないのだ。神が人に頼み事をするのもおかしい。だが翻訳機のせいでニュアンスが変わっているかもしれないので指摘しがたい。

「私だけに神託を授けられたということは、私に人々を救う大任を与えてくださったということに他なりません。ですから私は教祖として真世界復元教を立ち上げたのです。」

 俺は無神論者だった。神なんてものは存在しないのだからただの妄想だと決めつけた。

「神は極界に居られます。表世界では常識なのですがご存じありませんでしたか。」

 極界というのは天国とか極楽のようなものだろうかと俺は考えた。だが常識という以上は宗教上の設定では無いのであろう。それにしてはクロンからの説明で聞いた覚えは無かった。いずれにせよ今は神の有無を議論する時では無い。二十億人の消滅が迫っているのだ。

 俺は考えた。これまでの話が事実であれば、まず教祖が真人となって、信者の不安を取り除くべきではないのかと。そもそも神託とやらでは、教祖に対して真人になってと言ったはずなのだ。

 これまで俺の考えに即答していた教祖が沈黙した。ノイズが聞こえ続けていたから思念伝達は継続しているはずだった。となれば何も考えていないのであろうか。教祖が呆けてしまったのか、或いはシステムトラブルかと俺が危惧し始めたところで沈黙は解かれた。

「仰る通りです。私は神託を授かった者として人々の救済ばかりを考えていました。私のことは最後で良いと思っていましたが、それは誤りでした。まず私が真人になるところを信者の方々に見ていただかねばなりません。それこそがまさに私だけに神託を授けてくださった神意なのでしょう。」

 俺は驚いた。宗教家というのは俺の知る限り最も信仰心の無い連中だからだ。神仏など居ないとわかっていながら金や権力の為に人々の信仰心を利用しているだけなのだ。だが教祖は自らリスクを冒して真人になると言い出したのだ。

「こちらこそ驚きました。裏世界の宗教は酷い有様なのですね。こちらでは騙そうとした瞬間に思念伝達でばれてしまいますので不可能です。嘘で人を騙せてしまうとは、裏世界とはやはり酷いところなのですね。」

 裏世界に対してはイメージ伝達を制限とかクロンが言っていたのを俺は思い出した。表世界とやらではおそらく無制限に使えるのだろう。実質的に嘘をつけない世界なわけだ。

 こちらは嘘をつけることで酷い世界になっている面があることは確かだ。だが俺は嘘をつけること自体が酷いことだとは思わなかった。周りを心配させないためとかの善意の嘘もあるからだ。酷い世界になっているのは悪意で嘘をつく人の存在が原因なのだ。

「善意の嘘ですか。その辺りの知識は私が真人となったときに得られることでしょう。楽しみにしておきます。」

 俺は考えた。教祖が真人になるのは教祖の勝手であり俺の知ったことでは無い。あっちの世界で違法でも俺には関係が無い。だがこちらの世界の協力者が消されるのは問題だ。

「私は既に彼女の同意を得ています。私が初めて彼女に接触したとき、彼女は己の命を捨てる手段を画策していました。表世界にはそのような人が居ないので私は大変驚いて止めました。彼女の話を聞いたところ、裏世界は人と人が争いを続ける地獄だと嘆いていました。そこで真世界で私と真人になれることを説明すると、大変喜んで協力を申し出てくれたのです。」

 俺はまたどうでもよいことが気になった。協力者が彼女ということは教祖は男だ。声も話し方もクロンと同じなので女だと思い込んでいた。どちらでも関係無いのではあるがもやもやした。

 こちらの世界では自殺する人が後を絶たないことを俺は知っていた。彼女とやらも真人になれなければ死んでしまうということだ。ならばもう教祖の真人復元を妨害する理由が俺には無かった。教祖が真人として消滅せずにいられることを俺は祈った。

「ありがとう。貴方と話せて本当に良かったです。真人となれた後に改めてお礼に伺います。」

 教祖からの声は途絶えた。俺は考えた。教祖はいい奴なのではなかろうかと。犠牲になった人々のことを考えれば教祖のこれまでの行為は許せるものでは無いが、正義と悪の違いは主観の違いでしか無い。人殺しも戦場では英雄になるのだ。彼自身は正義感に基づいて行動してきただけなのだろうと俺は思った。

 刺客を懸念する必要が無くなった俺は安堵して眠りについた。


「夜分に失礼します。想定外の事態が発生しました。」

 クロンの声で俺は深い眠りから覚まされた。軽い頭痛に襲われながら俺は体を起こした。頭の中に直接響く声で起こされるのはどんな目覚めしよりも不快かもしれないと思った。初めてクロンから話しかけられた日の懸念が現実となってしまったのだ。

 だがクロンが気を遣う性格であることを今の俺は知っていた。そのクロンが俺の眠りを妨げたということは余程の事態であると察した。まだ寝ぼけている脳を起こして対応しなければと俺は最近の記憶を整理しようとした。最新の記憶は真世界復元教の教祖との会話だ。今となっては夢だったような気もした。会話の内容を断片的に思い出す内に俺は最悪の展開に気づいて完全に脳が目覚めた。教祖が言を翻して二十億人の一斉真人復元を開始したのではないかと思い至ったのだ。

 俺は時計を見た。教祖との会話を終えてから三時間ほどしか経っていなかった。

「真世界復元教の教祖自身が突然、全世界に生中継で真人復元を開始したのです。裏世界の友人に感謝とか言っているのですが、貴方は何か御存知なのですよね。二十億人とは何のことですか。」

 俺は驚いた。友人になった覚えが無いことにではなく、すぐに真人復元を開始したことにだ。確かに教祖は真人になると言っていたが、消滅事例しか無い現状では実行できるわけが無いのだ。やるとしても時間をかけて十分に対策を立ててからのはずだと思っていた。

 俺は教祖とのやり取りを始めから思い返すことでクロンに状況を説明した。

「状況を把握しました。私の落ち度です。すみません。教祖からの話に応じるべきでした。」

 クロンが教祖との話を拒絶したという話はやはり事実だったようだ。ヒステリックだったかまでは主観によるだろうからわからないが。何より俺にはヒステリックなクロンを想像できなかった。

「二十億人の消失という最悪の事態を回避して下さったことに深く感謝申し上げます。上官に報告して対応を協議しますので今晩は失礼します。」

 俺は再び横になって少し後悔した。教祖の真人復元は妨害してやるなと言いそびれたことをだ。統制局とやらにとっては違法行為だから看過できないはずなのだ。


 クロンからの連絡が途絶えたまま二日が経過した。俺は少し不安になった。真人というのは化け物設定だったからだ。もし真人となった教祖が消滅せずに、人に対して敵対行動をとったとしたらクロン達が危ないのだ。

 こちらから連絡を取る手段が無いかと俺は考えてみた。思念伝達なら強く念じれば大声みたいな感じで届くのだろうかと思ったが翻訳機を通すから強弱は伝わらないはずだ。そもそも俺には思念伝達能力が無い。クロン側から俺の思念を読み取っているだけなのであろう。ほかの手段は何も思いつかなかった。

「残念なお知らせです。真世界復元教の教祖は消滅しました。本件については局員一同も成功を祈っていたのですが残念です。」

 落胆していた俺はクロンの声を聞いて安堵した。教祖は残念だったがクロン達が無事だったのであれば良しとしようと思った。だが違法行為だと言っていたのにクロンたちが成功を祈っていたというのは驚きだった。

「真人復元は消滅の危険を伴うことと、政治的な問題で違法とされています。ですが今回は裏世界の協力者の同意がある点で過去の事例とは異なり成功率が高いと推測されました。それに成功すれば一気に真人復元の研究が進むことでしょう。消滅の原因も特定できるはずです。そうなれば法改正にも繋がります。逆に失敗してしまった場合も、真世界復元教の教祖ですら消滅してしまうことが知れ渡れば違法な真人復元を始める者は居なくなるでしょう。どちらにしても多大なメリットしか無いので妨害する理由はありませんでした。」

 つまり俺の仕事は無くなったということだ。俺の仕事は違法な真人復元の妨害なのだから。

「はい。お仕事の依頼は当面無くなると思います。」

 無事を確認できたと思った途端に別れが決まって俺は少し戸惑った。望んだ出会いでは無かったが今となっては良いことづくめだった。俺は感謝を伝えたいと思った。

「こちらこそありがとうございました。教祖の遺品から神託らしき記録等が見つかっています。これらを解析すれば真人復元の研究が加速するかもしれません。私たちも早く真人復元できるよう努力してみます。また連絡します。」

 俺は心の中で待てと叫んだ。俺はまだ真人復元したいなんて思っていないのだ。

 しばらく待ったがクロンの反応は無かった。返事を待たずに思念伝達を終えるのはクロンの悪い癖だ。

 やることが無くなった俺は再びバイトを探すことにした。金はあるから報酬を気にする必要は無い。

 散歩日和の良い天気だった。行き交う人々の雰囲気も明るかった。また良い出会いがありそうな気がした。

-完-


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