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鬼の棲む家   作者: たまさ。
山田さん家の隆君。
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蛇足の秋

ちりんと――まろい鈴が音をさせ、ぱたぱたという足音と重なる。

「兄さまっ」

 突然走りこんできた義妹の声に、隆は井戸端で顔をぬぐいながら嘆息を落とした。

あわてて縁側からおりてきたのか、その足の履物ときたら右と左とでは色も鼻緒も違う。

「陸奥に行くって、どうして?」

焦るように言う言葉に、ああ聞いたのかとうなずいてみせた。

「今年は暮れをあちらで迎えようと思って」

 山田浅右衛門ならぬ山田朝右衛門吉隆を名乗ってしばらくが経過し、身辺に落ち着きも取り戻した。名は名乗ってはみたものの、当代は未だ四代目嘉弘の時代であり、余裕のあるうちに里帰りときちんとした報告とを済ませておきたいと思ったのだ。

 丁度名白もあちらの方に行くというし、子供の頃の逆をなぞるように二人で旅をしようと意見が合致したのは昨夜のこと。


 名は受けたものの、未だ五代目とは名乗っていない。

それを名乗るのは二十三となってからのことと嘉弘と決めた。

「早すぎます」と慌てた隆だが、嘉弘は目元を細めて「その覚悟がないのであればとうの昔に逃げ帰るべきであったな」と冷たく言い切る。

 実際は二度も逃げていたのだが、そのつどなんとか持ち直してここに居続けた隆は戸惑いを見せた。

覚悟なら幾度も幾度も自問自答を繰り返し、ゆるゆると、けれど確実に身の内に蓄積させた。山田を名乗ることにおじけるつもりはないが――山田浅右衛門すべてをこの双肩に担うには度胸が足りない。

「俺は十八の頃には名を負った」

 天才と言われる首切り浅と一緒にしてくれるなといいたかったが、ここで受けるか退くのか決めろと言われれば受けると言う他にない。


「早く隠居したいのでしょうねぇ」

と、師匠の有村藤吉はやれやれと肩をすくめて見せた。

嘉弘と腹を割って話すなどというおそろしいことをしたことは滅多に無いが、もともと山田浅右衛門になりたいという気持ちは薄かったのだという。その剣技は幼い頃から神童ともてはやされてはいたものの、当人にはあまりその気が無かった。だが、こともあろうに先代である三代目山田浅右衛門はある日突然出奔してしまったのだ。

 急遽名を継ぐこととなってしまった嘉弘は十八――はじめての御様御用ですら失敗もなく滞りなくすますことができたという当代は、やはり天才であったのだろう。

 隆がそのような場面に直面してしまった時に、きちんと滞りなく仕事を終えることができるのか正直怪しい限りだ。


そう、はじめてソレに直面した時――自分はと言えば吐いた記憶しかない。

書物の中に書かれていた事柄が現実のこととして面前に迫った時に、隆は吐いた。

腹の中のすべてを吐き出し、胃液しか残らなくなっても吐き続け、胃液が容赦なく食道を痛めつけても吐いた――はじめに山田浅右衛門から逃げたのは、九つの年だった。


 書物に書き記された文字やら挿絵やらは、まさにただの絵空事でしかなかった。

それは学問のように突きつけられ、隆は「へー」と眺めたものだ。

 首の無い人の絵――そして、それに記された斬るべき場所、所作、ことこまかに定められた人間の切り方。まるで魚でも卸すかのように淡々と示された事柄。

 書物は恐ろしいものではなかった。

学ぶべき事柄として、事実として受け止めた筈だったというのに、現実として首の無い血の気のうせた白とも青とも思わせる奇妙にしらじらとした遺体を前にした途端、頭の中がすべてを拒絶した。


笑われていても自分の衝動を抑えることができずに――最後には逃げだしたのだ。


こみ上げてきた鉛のようなものと感情とを叫ぶように吐き出した。

獣の解体を見たことがある。鶏を自らくびったこともある。だから、そんなものと同程度のことと楽観していた自分はあまりにも子供であった。

 吐いて、泣いて、潰れたあとに残ったのは(くう)

ぽっかりと自分の内に穴があいたかのような奇妙な空。自ら吐き出したものの上でのた打ち回ってすっかりと汚れきった身で、どこまでもどこまでも遠く青い空を見上げて――自分が死んだのではないかというくらい、物事が考え付かずに時間の流れすら感知することは適わなかった。


 ただじわりじわりと流れる涙が時折耳の穴に入り込むのを感じていた。

その空虚を破ったのは遠く聞こえた冬香の泣き声で、ぼんやりとしながらも惰性のように日常を取り戻したものだ。


 そして、二度目に山田の家を抜け出したのは胴を斬った時だった。

当所の自らを叱咤して勤勉に過ごし、考えを改めたあの日――作法も、すべて頭にいれて、ゆっくりと呼吸を繰り返し、ただ静かに心を落ち着かせて頭の中で幾度も師匠の言葉を反芻した。

 人を斬るのでは無い。

コレは――人であって人で無し。


 体の力を抜いて、力を込めず。勢いにのせて、ただ粛々と。


居合いの業と、そして人体を知るものにとって人間を斬るというのは容易いのだという。義父である山田浅右衛門嘉弘は骨の関節と関節の間に瞬時に刃をすり抜けさせ、一瞬のうちにすべてのことを成す。

 自らもまた、ただ、そうすれば良い。

振り下ろした刀は、がちりと何かに反発するように押しとどめられ、腕に鈍い痺れが走る。肉はまるで豆腐のように刀を受け入れたものの、骨がそれを拒んだ。


その日、二度目の出奔をしたのは……頭蓋のないその胴を切ることに、違和を感じない自分に違和を感じてしまったからだ。

 がちりと骨に阻まれた刀に、自分の未熟さに咄嗟に舌打ちが漏れた。

その後考えたことと言えば、初めてのことであれば仕方が無いと。この先幾つもの胴を、肉塊を切り刻めば問題は解消される、何も問題は無いと自らのうちに満ちた思い。


――ゆるゆると時が流れるにつれ、愛らしい義妹が「兄さま?」と微笑む様を見た途端、自分の中の自分に不自然さを覚え、驚愕したのだ。


「俺は……鬼だ」

 いつの間に鬼になってしまったのであろうか。

魂を手放した肉の塊――ただそういうモノだと認識してしまうなど、ただ人ではない。みっともなくも神社の境内の片隅で身を丸め、膝に額を押し付けてぐいぐいと体を締め付ける。

 十四という年齢で、いつから自分は人を捨てたのか。

人でないものを斬るというわが身こそがもはや人で無し。

ただ恐ろしくて恐ろしくてどうしてよいのか判らずに歯を食いしばる隆を慰めたのは、八つ年下の義妹であった。


***


「冬も行くっ」

 突然の言葉に現実を思い出し、慌てるように手ぬぐいで首筋をぬぐいながら思い出す。

ああ――そう、陸奥に行くという話しであった。

冬になると雪で街道が閉鎖され、行き来が容易くできなくなってしまう。年越しをあちらですませるのであれば、そろそろ荷物をまとめあげなくてはいけないだろう。

 昔、先代の山田浅右衛門である名白と陸奥から江戸へとのぼったおりにはいったい幾日の日をまたいだことであっただろうか。もともと山間を駆け回る野猿のような隆だったが、当初こそ軽快にすすませていた足も、五日夜も過ぎれば棒切れのように奇妙な感覚に辟易としたものだ。

「冬香も陸奥に行きたい」

「駄目だ。お前の柔い足でいけるような場所でないし、たやすい旅でもない」

行きも帰りも降雪を避けるとしても、冬香に長旅ができようはずがない。なにより、雪に閉ざされた陸奥など冬香には到底耐えられるものでは無いだろう。

まさに蝶よ花よと育てられた生粋のお嬢様だ。おそらく――陸奥にいる父が仕えている藩主の姫君などと遜色のない生活をおくることを許された娘には無茶というものだ。

 正月の晴着と言っても良いような華やかな着物に身を包み、縮緬の帯の冬香。相変わらず髪の一房を結い紐で結い上げて鈴を付けている冬香は子供らしく唇を尖らせた。

「春には吉次ちゃんと松原に行ったのよ」

「距離が違うだろう」

それだって足が痛いだの何だのと相当騒いだのではないだろうかと推察できる。

「船で仕立てていけばよいわ」

「陸奥までは歩きだよ」

「じゃあっ、駕籠を頼むからっ」

「……問題外」

 十一歳の子供の傲慢な言葉に嘆息すると、同じく道場から井戸へと出てきた有村が笑い声をたてた。

「おやおや冬、また我儘を言っているのですか?」

「藤吉ちゃん、冬は我儘なんて言っていないわよ。兄さまが意地悪なだけ」

 できれば師匠をちゃん付けで呼んで欲しくないのだが、冬香は先々代山田浅右衛門の吉次と有村のことはちゃん付けで呼ぶと決めているらしい。

 顔をしかめて有村に唇を突き出し、冬香はいつも通り有村にべたりと抱きつく。その頭を愛おしそうになでながら、有村は普段の厳しい稽古など嘘のように目元の皺を更に深くした。


「雪の陸奥など人が暮らすような場ではないよ。何より、年の瀬やら新年やらに可愛い冬香がいないのでは寂しい限りです」

「冬香も藤吉ちゃんがいないの寂しいっ」

 べたべたとしている二人を見ていると激しく消耗する気持ちになる隆だ。

厳格な尊敬すべき師匠の持つ雰囲気が壊されてしまうことが嫌なのか、可愛い妹が男にべたべたとしているのが嫌なのか。

 そのどちらもだろうと結論づけて、隆は嘆息を更に落として手ぬぐいを手桶へと入れるとばしゃばしゃと乱暴にすすいだ。

「雪の陸奥には雪の陸奥の良さがあるし、人だって多く暮らしとるわ」

 ぼそりと口から落ちた不満が有村に届いたかどうかは謎だが、有村は更に口を開いた。

「冬香が旅に出るなんていったら、父君が泣いてしまうよ」


……泣く、あの人が泣く。

さすがにそれはないのではないだろうか。

思わず嘉弘の涙を想像して、慌てて打ち消すようにぶんぶんと首を振ってしまった隆であった。

 先日友人等とした百物語よりも怖い気がして、背筋に汗がつっと流れ落ちた。

まさに鬼の目にも涙――天変地異の前触れならぬ、そのことじたいが天変地異だ。


「父さまは母さまがいればいいの。時々冬を追い出すのっ。酷いっ」

「そりゃあ、当代は雪花さんが大好きだから仕方ない。冬だって大好きな人と二人きりになりたいと思ったりするだろう?」

「冬は籐吉ちゃんと二人きりになりたーいっ」

 きゃあきゃあと当初の話など忘れたかのように会話を続ける二人にげんなりとしつつ、隆はびしょぬれになっている手ぬぐいをぎゅううっと力強くしぼった。

「……兄さまと夫婦(めおと)になると言っていたくせに」

 またしてもぼそりと愚痴が落ちた。

どうにもこのぐちぐちとした性格はようよう直りそうにない。


 隆はすでに自分のことなど忘れてしまったかのように有村と話をしている冬香を尻目に、こっそりと二人から離れようとしたものの、あっさりと冬香につかまった。

「兄さまったらっ」

「――当代が許してくれたらね」

 逃げ口上で口にすれば、冬香が眉間に皺を寄せて更に「意地悪っ」と叫んだが――こんな問題は嘉弘に丸投げしてしまうに限る。

 隆だとて、冬香の可愛い我儘などかなえてやりたいのはやまやまだ。自分と一緒に行きたいというのも愛らしい。

だが嘉弘は単純にそれを許したりしないだろう。

だからこその丸投げであったが。


ころころと表情をかえる冬香を見返し、隆は低く飛ぶ蜻蛉に一層瞳を細めた。

今、この場に自分がいられるのは冬香がいたからだ。

間違いなく、冬香がいなければ自分は決して山田浅右衛門を名乗ることなどできなかった。


***


――ぎゅっと体をちぢこめて、寺の境内、縁の下で出来る限り丸くなって歯を食いしばって飛来するさまざまな思いに耐えていた隆を救ったのは、幼い冬香だった。

隆が十四の時であるから、当時の冬香は六つほど。山田の屋敷から出たことなど数える程で、しかも必ず誰かがついていてのこと。

「兄さま?」

 戸惑うようにそう呼ばれ、隆は今まで外で聞いたことのない幼い声に弾かれたように顔を起こした。

「冬っ、どうしてお前こんなっ」

「泣いてる? 兄さま、泣いているの?」

 驚く隆など無視して、薄暗い境内の下にもぐりこんできた冬香は小首をかしげてそっと小さな手を差し伸べた。

「藤吉ちゃん、怒った?」

「――違う」

 そんなことより、お前一人でこんな場に来たのかと問いかけたいのに、冬香は小首をかしげて伸ばした手でそっと隆の頬に触れた。

 涙で濡れた頬につめたい手が触れて、何だか更に泣きたいような気持ちにさせられてしまう。

「いいこ、兄さまはいいこよ?」

「――」

「誰かが兄さまを苛めたの? 冬がめってしてあげるよ?」

 思わず両の(かいな)で抱きしめて、小さな体にすがるようにして――情けなくも、自らのどろりと黒い部分を暴露していた。


「冬……俺は、俺が恐ろしい。

まるで鬼だ。

いつの間にか鬼になってしまったのか、俺は――」

 幼き頃に山田浅右衛門の屋敷を化け物屋敷と言われて呆れたことがある。だが、それはある意味真実ではなかろうか。

 人を切り刻むことが普通のことであろう筈がない。

それを自然と受け入れてしまうなど、失態したことに対してあんな風に感じてしまうなど――自分はいつの間に人とは違うものに成り果てたのか。


「じゃあ冬が次の鬼?」

 突然腕の中の冬香が頓狂な声でそう言い出し、隆は息をつめてその意味を求めて眉間に皺を寄せた。

「隠れ鬼だったの? 冬が見つけたのに、本当は兄様が鬼だったの? 冬、兄さまに騙されたっ」

後半、怒るに決め付けた冬香は、じたばたと暴れてぐいっと身を起こした。

その顔はむーと頬を膨らませて唇を尖らせる。

「いや、そうじゃなくて……」


 なんというか、気がそがれた。

真面目に自らを畏れたというのに、そもそも冬香に言ったのが間違いであったのかもしれないが。

「……」

「兄さま?」

「俺は――」

 そう、幼い冬香にすがろうなどというのが何より間違いなのだが、ぐにぐにと顔を歪めて次の言葉を捜す隆に、冬香は不思議そうに小首をかしげ、くしゅんと小さくくしゃみを落とした。

 ぶるりと身を振るわせる冬香に、隆のほうが慌ててしまう。

「冬香、寒いのか?」

「ん……ね、帰ろう、兄さま?

それで、ミノにあったかいおぜんざい作ってもらお?」

――帰る。

それは、あの家に。

人を肉塊としか見ずに、まるでなますのように切り刻むあの家に――冬香を突き放すように離れようとした途端、冬香は更に手を伸ばしてぎゅっと隆に触れた。

「兄さま、かえろ?」

 判っているのかいないのか。それでもどこか不安そうな冬香はぎゅっと隆にすがり付いて来る。まるきりその手を離せば隆がどこかに行ってしまうと本能でのみ知っているかのように。


帰りたくないという気持ちと同等の帰りたいという思い。

逃げ出すことは容易いと思うのに、足は鈍く動こうとしない。

冬香の小さな手が力強くて、冬香の体温が暖かくて――


「冬」

 その静かな声が耳に入り込んだ途端――自分が狭苦しい縁の下にいたことを忘れていた隆は、びくんと大きく体を跳ね上げ、したたかに頭を太い梁にぶつけてしまった。

 じんじんと痛む頭を抱え、声のした方向へ畏れるように見れば相手の顔は見えずともその着物が見て取れる。

 藍色の着流しに無造作に下げられた大小の刀。

「隆」

 一文字づつの名を呼び、山田浅右衛門嘉弘はせかすように命じた。

「帰るぞ」

――そう。冬香が一人で屋敷を出る訳が無い。

冬香はあの屋敷で誰よりも大事に大事に真綿にくるむようにしてはぐくまれている至宝。その至宝の守護者は、おずおずと縁の下から出てきた隆へと顎をしゃくるように道を示し歩き出す。


「あの……」

 その背について行きながら、隆はおずおずと声をかけた。

どう言ってよいのか判らない。胴を斬った後に逃げ出した義理の息子を――この人はいったいどのように思ったのであろうか。

 多くを語らない義父は、けれど隆の言葉をどうとったのか、珍しく自ら口を開いた。

「俺も幾度かあそこを利用したことがある」

 低く、ただ静かに告げた言葉に隆はその意味が判らずに眉間に皺を寄せた。

あそこ――それは場所を示す言葉で、つまり、どこのことを?

そうして導きだされた事柄に、思わず一度足を止めていた。

――嘉弘が、寺の縁の下に何の用がある。

あんな薄暗く、人が入り込むなどみっともない場所に。

どくどくと自らの心の臓が痛い程に鼓動して、耳が熱を持って訴える。

信じがたいことに、嘉弘自身逃げ出したいと思ったことがあるという、まぎれもない告白であった。

完全無欠で、すでに人というよりも鬼のようにしか見えない完璧な山田浅右衛門である嘉弘が、他人の視線を逃れて身を丸めたことがあるという事実。そして、それを恥と知りながら自らに伝えてくれたという事柄。

 

 途端、隆は困ったように笑っていた。

自らを鬼なのではないかと畏れたというのに、嘉弘がかいまみせたほんの少しの人間臭さに、やはり鬼では無いのだと納得してしまった。

 鬼のように見せて、こんな風に人である部分も持ち合わせている。

ならば――自分もその道を、おびえながら、震えながら、歩いていくことができるやもしれぬ。


「兄さま、早くっ。ね、帰ろう」

 足を止めてしまった隆を、ぐいぐいと引くようにしてせかす冬香にうなずき返し、隆はゆっくりと浅い呼吸を繰り返した。


立ち止まって、つまずいて、泣いて、笑って、そういう山田浅右衛門でもいいはずだと。


「――罪人を人などと思うな。そはもはや人で無し。

それでも何か思うところがあるというのであれば、お前がソレにしてやれることは素早く美しく、辱めることなく引導を渡すことだ」

 この世の最期の花道を――恥をかかせることなく立派に終えさせてやれ。


 帰りの道すがら、淡々と言う嘉弘の背と、自らの手をぐいぐいと引いて歩く冬香のぬくもりに、もう一度泣きたいような気持ちになってうつむいてぐっと奥歯を噛み締めた。

そんな隆を心配するように、冬香は「兄さま? どこか痛い? お腹? 大丈夫」と覗き込んでくる。

それに笑って首を振り「違うよ。俺は……一人じゃないのだなって、噛み締めているのだ」と言葉を搾り出した。

普段めったに優しさを見せない嘉弘の優しさがあまりにも身にしみて。自分は幸せなのだと心を落ち着ける。


だが、冬香は「一人じゃない」という言葉ばかりに反応し、驚いたように頓狂に言った。

「兄さまは一人じゃないよ。

冬香がいるよ。

冬は兄さま、いっとう大好きっ」


 血のつながりがあるとか無いとか、そんなこともとより知らぬ娘の戯言のような愛らしい言葉に微笑みを浮かべたが、その時に突如感じた前方からの確かな鋭い殺気に――山田浅右衛門を継ぐだの継がないだの以前に、自分の命は今宵閉じるのではあるまいかと隆は本気で身を震わせた。


 思えば冬香がいたからこそその名を継ぐことができたことは事実であるが――


冬香の不用意な言動に命が縮む思いが幾度もあったこともまた紛れも無い事実なのだった。




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