蛇足の夏
千住平河町にあるひときわ大きな門構えの屋敷の奥――中庭に置かれている庭石の一つに腰を預け、この屋敷の次期跡取り候補として養子に入った隆は、夏の風物詩である砕いた氷に糖蜜をかけて食べる氷菓子を竹匙でしゃくしゃくとつついた。
隆の知る限り、本来氷が食べられるのは冬。
庭先に出す桶に張る氷を大工道具のカンナで削り食べるのだが、いかんせん寒い冬のことだからそれほど食べたいものでは無い。冬に作られる氷をわざわざ夏に使うためにとっておくなどという贅沢は、この屋敷を訪れてはじめて知った。
あげくこの屋敷で使っている氷ときたら、富士でとれたという一品で――世の中にある贅沢とは際限が無いものだと感心するより呆れたものだ。まぁ、富士の氷と手桶にできた氷の違いなど隆には一向判りはしないのだが。
とにかく、この屋敷にはそこらかしこに贅沢が満ちていて、初めの頃こそ圧倒されておじけたものだ。
武士は食わねど高楊枝――厳格と言うか大雑把な父がそんなことを言っていたが、この屋敷内ではそんなものは通用しない。そのことについては、隆の師である有村藤吉がおかしそうに笑って応えてくれたものだ。
「山田は武士ではありませんから」
――そう、山田は武士ではない。たとえ御様御用という役職を担っていたとしても、代官よりも巨額の石高をいただいていたとしても、所詮身分で言えば素浪人でしかない。
現在の当主である山田浅右衛門嘉弘などは、髷すら結わずに腰まであろうかという髪を頭の後ろで結い上げているだけだ。道端を歩いているだけであれば、食い詰め素浪人そのものと見えるだろう。その目つきの悪さとかもし出す雰囲気の悪さを除けば。
ともかく、山田を継ぐということは隆は武士ではなくなるのだ。
いや、もとより隆は武士ではない。
武家の四男ではあったが、もしあのまま山田に養子にでることもなく陸奥ですごしていたとすれば、だれぞに仕官することもなく、ただ兄に養われるだけの部屋住みとして無為な人生をだらだらと歩むこととなったのだろう。
そうであればもとより、武士などと片腹痛い。
冷たい氷にキーンっと頭を痛め、顔をしかめる。
今宵は両国の川開きだとかで、現当主である山田浅右衛門嘉弘の娘であり、隆にとっては義理の妹となる冬香は朝からはしゃいでいたり、隆との意見の相違により喧嘩をしたりと忙しく、おやつの前には疲れてしまったのか、ぱたりと眠ってしまった。
おかげで隆が食べている氷は実は二杯目で、腹がすつかりと冷えてしまった。
縁側で片頬を床につけてあどけない顔で眠る冬香が実に稚い。寝る寸前まで興奮していた為か、その眉間には皺がよっていた。
それを子供だなと笑えない隆である。
隆がこの家に来てすぐ、やはり両国の川開きの話を耳にした時は嬉しさと期待のあまりはしゃいだものだ。
「花火大会?」
――今宵は両国の川開きですからね。
そんな話をはじめにしたのは、女中頭のミノである。
川が開くから何だというのだと思い、おずおずと義理の母である雪花に「川開きとは何ですか?」と問えば、穏やかな微笑と共に「花火大会があるのですよ」と返答が返る。
そも、花火とは何か。
あいにくと山奥暮らしの隆は花火というものに触れたことは無い。種子島のような火薬筒ならば狩猟師達が持っているし、兄の一人が触らせてくれたこともある。火薬をつめて火花が散るという説明に隆は首をかしげつつそういうものを想像したが、雪花が首をかしげつつ「わたしも花火の原理については詳しくは判らないのだけど……火薬を空に打ち上げるもので、夜空に大きな音がして大きな花が咲くのよ」と困ったように告げる言葉が、あいにくとさっぱり判らなかった。
火薬で大きな音がするという部分は理解できる気がするが、それがどうして花になるのかが理解の範疇を超えている。この時隆の頭に浮かんだ花といえば桜だとか山間に咲き乱れる山百合やらであったことも理解を妨げた要因であったかもしれない。
稽古の合間に他の人にも色々と聞いていくうちに、だんだんと意味が判るようなさりとて判らないような――ただおかしな期待ばかりが幼い子供の心にそわそわと膨れ上がったものだ。
そうこうしているうちに、師匠の有村が呆れた嘆息を落とした。
「今日は稽古になりそうにない。
隆、もういいから道場をでなさい」
ぴしりと言われてしゅんとなった隆に、有村は厳しい眼差しを向けた。
「今日は境内に市が出ている筈だから、そこでぼたもちを買ってくること」と、罰としてというのだが、考えてみればあれはちっとも罰ではない。
ぼたもちの代金と共に駄賃すら与えられ、さっそく隆はそわそわと屋敷を抜け出した。
そう遠くは行ってはならぬといわれていた為、隆は外をさほど知らぬ。
下男の一人が付き添うかと進言したが、八つにもなろうかという年齢で過保護が過ぎると恥ずかしさに追い立てられるようにして外へと飛び出し――
そこで、見慣れぬ田舎の子供は子供たちの洗礼を受けた。
身なりが良い癖に田舎言葉をしゃべり、物慣れぬ風体でひょこひょこと歩く子供は目立つのだろう。
突然二人、三人の子供に囲まれ「おまえ誰だ?」「この辺のもんじゃないだろ?」と口々にいいながら、子供の一人が腕を掴み、もう一人が無遠慮に袂に手を突っ込む。何をされるのだと思えば、相手は袂に落としていた銭入れを引っつかむと「逃げろっ」と楽しげに一言叫んだ。
途端に子供達が四散する。
ざぁっと血の気を引かせた隆は、大慌てで悪餓鬼共をおいかける羽目に陥ったのだ。
追いかける相手は唯一人、金を掏り取っていった悪餓鬼だ。
市ともなれば人の往来は激しく、小さな子供の姿はちょろちょろと大人たちの間をすり抜ける。相手は地の利を生かして走るが、隆はただひたすら目を離すものかとカっと目玉を見開き、歯を食いしばって人々の間を走りまくった。一度や二度、危うく石畳のくぼみに足をとられかけたものの、山間で鍛えた足は柔ではない。
大人達の「邪魔だっ」という怒鳴り声も怖くは無い。なんといっても怖さで言えば義理の父が一番怖いのだから。
たとえこのまま銭が戻らずとも、おそらく有村であれば苦笑だけで叱ることもあるまい。このような惨状、雪花であれば心配してくれるだろう。だが、嘉弘だけは読めない。情けないと折檻されるのであればまだまし。ただ無言で見つめられ、ふいと視線を逸らされることのほうが恐ろしい。
それを想像して隆は更に自らを鼓舞した。
嘉弘は何を考えているのか理解できないからこそ恐ろしいのだ。
せんだってなど、里心がついて数日眠れぬようになってしまった隆を心配して雪花が閨に招いてくれたのだが、激しく理不尽な目にあった。
――もちろん、閨といったところで雪花と同衾した訳ではない。ただ、一人で寝るのが寂しかろうと離れに床を敷いてもらったというのに、夜の夜中に嘉弘に踏まれるという恐ろしい目にあった。
そう、いきなり踏まれたのだ。
思わず蛙が押しつぶされたような声を出した隆に、隣の布団で眠っていた雪花があわてて起きると、隆を踏みつけた義父は「これは何だ?」と不機嫌に口にした。
「隆さんです」
「なぜお前の部屋で寝ている?」
「お一人でおかわいそうでしたので――あの、何か問題がありましたか?」
小首をかしげる雪花の隣で踏まれた足をなでながら、隆は突然の理不尽な出来事に目を白黒させたものだ。
思い返せば、あの頃は雪花と嘉弘は閨を共にしてはいなかった。それはつまり、雪花の腹の子がすくすくと育っている頃で、口うるさいミノが「寝所は別にしていただきます」と声高に宣言した為だ。
いまであれば判るが、つまり、夫である嘉弘が寝所を別にしているというのに何故隆が雪花と寝所を共にしているのかという――実に子供っぽい理由で癇癪を起こしたのだ、あの人は。
――そう、あの人は何を起因として怒りを放出するのか判らない侮れない人だと隆はすでに理解していた。
もちろん、その大まかなところは推察はできる。
妻である雪花に関わることはちりちりとくすぶる炭と言っても過言ではないだろう。あえて触れぬように避けるのが吉。たとえば、もし、今回のことで嘉弘が自分に対して厳しすぎる態度をみせた場合、雪花がへたに隆を庇いでもしたら……どんな恐ろしい目にあうのか知れぬ。
雪花は優しくて美しく、姉のように大好きだが――嘉弘が居る場では適度な距離を保っていて欲しいと切に願っている。
そう、この場合の正しい行動は――盗まれたことを無かったことにする。
殺されてもそんな事実は無かった。
懐の巾着を掏り取って行った子供を追いかけ、どこぞかの寺の境内、相手が縁の下にもぐりこもうとしたところをやっととっ捕まえ、隆は思い切りぶんなげた。
「何しやがんだっ」
投げられた子供は地面に尻を強かに打ちつけて怒鳴り散らしたが、隆は容赦などしなかった。
「こっちの台詞だっ、この盗人が!」
尻餅をついた相手の乱れた着物を踏みつけ、更にぶん殴ろうとしたところで他の子供達もやってきて隆を押しとどめようとするが、隆は自分がはしこいことを知っていた。
――男ばかりの兄弟の末っ子だからといって甘やかされて育った訳では無い。食べ物は争奪戦であったし、へたをすると寝床も喧嘩で勝ち取るのが常だった。そんな中で生き抜く為に隆がどれほど努力をしてきたことか知れぬ。こんな都もの――都と言えば京であるが、隆にしてみれば江戸も立派に都である――なんぞに負けてなるものか。
端的に言えば、子供達は全員青あざだらけになったし、鼻血やら口を切ったりと無事にすんだものは一人として居なかった。当然、隆も含めて――
寺の境内ということもあり、最終的に住職に水をかけられ、手当てを受けた子供達はにらみ合いながらも和解を終えた。
無理にでも和解しなければ、住職の説教がいつまで続くのか判らなかった為だ。
渋々和解はしたものの、子供達はお互い納得などしていなかった。
その時に、悪餓鬼共は視線を交わしあい、口元にいやな笑みを浮かべて隆に言ったものだ。
「おまえ、俺たちに食って掛かるなんてたいしたやつだな。試しに受かったら仲間にしてやってもいいぜ」
別に仲間にしてもらいたいなどと思ってなどいなかったし、どう考えても相手の台詞は挑発だった。にやにやにまにまっと実に嫌な笑いを口元に貼り付けて目配せしあう子供達。隆はむっとしながら「知らん。俺はもう帰る」と、ふんっと顔をそむけたが、今度は嘲笑が向けられる。
「へんっ。やっぱりお前は弱虫の田舎もんだ」
「だよなー。腰抜けだっ」
げらげらと笑う餓鬼共にかちんときて、挑発と判っていても隆は相手を睨み付けて「試しって何だよ」とつっけんどんに言葉を投げつける。
「なぁに、ほんの些細な試しだ」
「ここいらでちょっと有名な化け物屋敷に入り込んで、庭になってる夏みかんをとってこれたら腰抜けなんかじゃないって認めてやるぜ」
「まぁ、無理だろうけどな! 化け物やら鬼やらがうじゃうじゃとうろついて、夜になると鬼火がでるって話さ」
子供達は交互に楽しげに口にした。
「毎夜毎夜人を殺してるんだってよ」
「つかまったら、お前も殺されちまうぞ」
ゲラゲラといいながら、わざとらしく自分の体を抱きしめてぶるぶると震えて見せる相手に内心びくつきつつ、隆はその肝試しを受けて立つと豪語していた。
***
思わず噴出してしまった隆に、いつの間にか目を覚ましたの冬香が「兄さま、思い出し笑いなんていやらし」と声をかけてくる。
縁側で転寝していた為に、かわいらしい頬にはぺったりと床の跡がついてしまっているが、おそらく指摘すれば父譲りのきつい眼差しを更に吊り上げて噛み付いてくることだろう。
「いや……子供の頃のことを思い出してさ」
八つの冬香は髪を結うことを嫌い、左耳の一房だけを結い紐でまとめ、小さな鈴を一つつけている。動くとそれがちりんとわずかな音をさせ、まるで風鈴のように心に響く。冬香が気に入って付けているそれが、実はちょろちょろと狭いところに入っては姿を消してしまう冬香を見つける為の目安になっていることは、当人以外すべての人間の知るところだ。
「タケ達と友達になった時のことをね」
「ああ、兄さまのご友人の……」
頭の中に彼等を思い浮かべたのか、冬香は少しだけ嫌な顔をした。今朝方の喧嘩の一つを思い出されてはたまらないと話題をあわてて変えようとしたが、冬香はすぐに噛み付いてきた。
「せっかく吉次ちゃんが船を仕立ててくれるのにっ。
兄さまは行かないなんて、酷いっ」
「だから、それは悪かったって言っただろう? 前からタケ達と約束が……」
「じゃあっ、その人達も呼べばいいじゃない。お船はいっぱい乗れるのよ。料理だっていっぱいあるし。兄さまのお友達が三人増えたって、ちっとも困らないもの」
冬香はおそらく困らない。冬香が吉次ちゃんという二代目山田浅右衛門吉次も気にしないであろうし、雪花は――多少外の人間を恐れるところがある内気な女性であるが、他の家族がいる場であれば大丈夫だろう。
だが嘉弘は判らない。
それでなくとも冬香のたっての頼みであるから渋々という様相で舟遊びに出るのだ。身内いがいがいることを嫌がるかもしれない。
何より――
「ここだ!」
両国の花火大会が終わった宵闇に乗じて、この屋敷に潜り込めとつれてこられた大きな門扉の前で、隆は視線をさまよわせることとなった。
――近所で有名な化け物屋敷は、山田朝右衛門の家だった。
そう、つまり隆の自宅だ。
文字で表すとこれ程滑稽なことは無い。
「裏戸の方の壁板が壊れてるんだっ。そこから入るんだぞ。俺たち見ているからなっ」
などという子供達だったが、彼等自身がおびえているのは丸わかりであった。まるきり、その屋敷に近寄りたくも無いという様子で身を寄せ合って、隆をせっついて開いている穴から押し込もうとする。
とりあえずこの壊れている板については、明日あたり下男に言っておかなければならないだろう。
隆は乾いた笑いを浮かべ、何故か得意げになっている子供達を尻目にさっさとその穴から中に入り、言われた通りに庭に生えている夏みかんを見つけると、離れに明かりがついているのを確認してひょうたん池のくびれにある石橋を通り、縁側で涼んでいる雪花に声を掛けた。
「あの、雪花さん」
いまだ義母上というには照れくさく、思わず名を呼んでしまうと雪花が淡く微笑む。
「花火はみられましたか? 一人で行くというから少し心配しましたよ。大丈夫でした?」
一旦帰宅して、花火を見るために外出していた隆だ。
もちろん、花火は口実で腹立たしい糞餓鬼共につきあっていただけだが。
「庭の夏みかんもいでいいですか?」
「夏みかんですか?」
突然言われた言葉に驚きをみせたが、雪花は振り仰ぐようにして「旦那様、夏みかんもいでよろしいですか?」と問いかける。
奥に嘉弘がいることにびくりと身をすくませた隆は、内心で確かにこれは肝試しだとぼやいた。
「ほら」
夏みかんを三つ抱えて戻った隆の姿に、子供達は驚愕の眼差しを向けてその偉業を称えた。
「すげぇー」
「おまえたたられるぞっ」
「鬼はっ、鬼はいたか? お化けはっ」
確かにそれっぽいのはいた……
さすがにそれはいわずにいたが、口々に言う子供らに、隆は生暖かい気持ちで言ったものだ。
「ここ、俺の家だけど」
――その時響き渡った子供達の悲鳴は、今も忘れていない。
山田の舟遊びに友人を連れて来いという冬香に、隆は肩をすくめた。
「まず誰より、あいつらが嫌がると思う」
――今でこそある程度の誤解は払拭されているが、彼等にとってもすさまじい程のトラウマであったのだろう。三人のうち一人は腰を抜かし、一人は失禁した。
友人となった今も、山田の家には一歩も入ろうとしないし、山田の名を冠する人間にわざわざ近づきたいなどと思ってもいないことだろう。
隆のことは――何故か尊敬しているようだが。
夏になると思い出す。
自分の暮らしている家こそが近所で有名な化け物屋敷――果たして、冬香がその事実に気付くのはいったいいつ頃であろうかと、隆は生暖かな気持ちで冬香を見つめていた。