蛇足の春
あのままの雰囲気、嘉弘が好きな人は読むと後悔致します。
郷里は陸奥――谷深い山間、冬には雪に埋もれ赤ら顔の家族が身を寄せ合って暮らすような小国。
隆は、湯長谷藩の藩士三輪源八の四男として産まれた。
四男――男もそこまでいくと厄介者と呼ばれる立場だ。いくら不幸ごとが続いたところで、長男以下二人までもがみまかわられる訳もない。そもそも、源八の息子達は健康が自慢ときている。
そんななか、四男として産まれた隆に日の目がくることは滅多なことではなく、ただ幼い頃から見よう見真似で剣術の真似事ばかりをしていた。
それが功を奏したのは、七つの頃。
他人より少しばかり剣術に長けた子供は、ある日訪れた山田浅右衛門嘉弘の使いという坊主によって見出された。
御様御用山田浅右衛門の名を継ぐものを探していると。
「名白様、はーやーぐいがねどっ」
陸奥。
陸奥の冬は早く訪れ、そして長い。親元を離れて山田の家に養子に行くという話は幼い子供にとって馴染んだ親元を離れるという恐ろしいことでもあったが、自らの世界が開ける素晴らしい話しでもあった。
なにせ隆は四男、兄達のように開けた先は想像することも難しい。実際、すぐ上の兄もこの話しに乗り気であったが、坊主の前で剣を振るってみせれば、坊主は嬉しそうに隆を指名した。
――素養あり、と。
「だども、なして嘉弘様は養子なんぞもらう気になっただか?
もう年寄りなんか?」
隆を迎えに来た坊主、名白はその言葉にかかと笑った。
「年寄りではないな。まだ若輩だ――なんといっても、嘉弘は俺の子だからな」
そう、名白は嘉弘様の父親だという。若輩だというのであれば、この先に跡継ぎが産まれないとも限らぬし、なんとも不思議な話だ。
「まあ、あれは――幼い頃から山田を継ぎたくないと態度で示していたからな。自らの子を浅右衛門にするのに躊躇でもしたんだろう」
「んだのー? せつねしたぁ、御様御用って言えば正義の味方だべした。悪人ば斬るなんてえんらいことだべ」
瞳をきらめかせて言う隆の頭を、隆は苦笑をこぼしてぐりぐりと撫でた。
「……偉いか、そうか」
――ちなみに隆の言うえらいは、大変、凄いという意味であって偉い訳ではない。その前にあるせつないにしても、名白には読解不可能であった。
「おら、すげぐ強くなって一杯悪いやつばやっつけてやるべ」
ぎゅっと拳を握り締めて、顔を高揚させる隆は当時七つ――ものを知らぬ子供だった。
***
胃の中のものを吐き出し尽くし、酸欠とあいまって身がぎゅっと縮こまる。
もう幾度目だろうか。道場の裏手――人気のないところで小さな体を更に縮めてどこかに消えてなくなりたくなるような気持ちを抱え込む。
あれが次代かと笑われることもしばし、けれど人の死は――遺骸には未だになれぬ。いっそ山田など知るものかと逃げ出すこともすでに二回。そのたび、自分の行くあてなどもうどこにも無いのだと涙にむせぶのだ。
どうして山田浅右衛門になどなりたいなどと思ったのか。どうして……人を殺すということがよいことのように思えたのか。
人を――
ぐっと競り上がるものに胃のあたりを押さえて身を縮め、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになって息をついたところで、ふいの声に身が更に固くなった。
「みーつけたっ」
きゃぁっと背中に勢いをつけてぶつかってきた塊に、隆は危うく自分の嘔吐した汚れにそのまま突っ込みそうになって慌てた。
勿論、体力的には八つも離れた幼子などとるにたらぬが、何といっても隆はえずいていた為にしゃがみこみ、体制が悪かった。
「どわぁっ」とおかしな声まであげ、慌てて自分と相手の体を支え――それが無事すめば、今度は瞬時に立ち上がりつつ足元の汚れをつま先で砂と砂利をかぶせるという早業で誤魔化した。
「今度は隆兄ぃさまがおにーっ」
きゃあっと笑い転げる娘は数えで六つ――赤い着物の一松人形のような髪型をし、左側だけかわいらしい房飾りで結わえている。
房には普段鈴がついていて、動けばその音色がかわいらしくその存在を知らしてくれるのだが、今日は鬼事をしている為かはずされていた。
口元をぐいと手の甲でぬぐい、隆は眉を八の字にして少女を見下ろした。
「冬香……池のこっちには来ては駄目だって母上さまが言っているだろう」
冬産まれの冬香は、産まれてすぐに年をまたいだ為に年のわりに体が小さい。
小さな姿で大きな瞳をぱちくりと動かし、最近歯が抜けた為の間抜けなみそっぱでにっこりと笑った。
「だって、兄ぃさまがいるのが見えたの」
まったく理由になっていないことを言い、冬香はもう一度言った。
「今度は兄ぃさまが鬼なのっ」
我儘いっぱいの冬香に逆らえるものは少ない。
「駄目だよ、俺はまだやることが……」
山田浅右衛門四代目当主嘉弘の娘は、不満そうに顔をしかめた。
「父さまだって鬼をしたのだから、兄ぃさまだって鬼なのっ」
……逆らえるものはいない。
「当代がっ?」
あまりのことに思わず声がでてしまい、あわてて口元を押さえ込んだ。
確かに鬼だと言われる嘉弘だが、まさか子供の隠れ鬼に付き合って鬼役をやるなど――むしろ背後からひやりと寒気を覚えるうすら寒さだ。
隠居の吉次や隆の師匠である有村が鬼になるのは安易に想像ができるが、冷ややかな空気をまとう当代山田浅右衛門嘉弘が鬼――隆はなんとなく乾いた笑いを落とし、小さな声で「天変地異の前触れか」と呟いた。
見てみたい気もするが、目撃したら更に冷ややかな眼差しで見つめられ――殺さないでくださいと魂をこめて土下座してしまいそうだ。
「あれ……冬香、おまえ誰と隠れ鬼をしているの」
見つけられてしまったが、当然隆は鍛錬の時刻。勝手に人員に数えられているかもしれないが、隠れ鬼などもとよりしていない。
「ミノと」
「母上さまは?」
そっとその肩に触れて少しだけ押すと、冬香は体の向きをくるりと変えて歩き出す。みっともない残滓から遠ざかるようにうながし、道場の裏手から中庭へと出ると――ミノがこそこそと庭石と低木の茂ミノあたりでこちらをうかがっているのに遭遇した。
隠れ鬼をしつつも冬香から目を離せないミノらしい行動だ。
隆が見つける訳にもいかず、なんとなく目があってしまい微妙な空気が二人の間に漂うが、背丈の問題か気づいていない冬香は眉間にぐっと皺を寄せて唇を尖らせた。
「父さまが離れにいらっしゃるんだもの」
本日は出仕の無い嘉弘が妻である雪花のもとに入り浸っているのだろう。それを邪魔する冬香をミノがわざわざ連れ出して遊んでいるという構図らしい。
ミノがちらりと視線を離れへと向け、ふるふると首をふる。
離れには行くなという意味らしい。
――何年たっても仲が良い夫婦だ。
といっても、隆がこの屋敷を訪れた当初はなんだか不思議な夫婦だったが。
***
人別帳に養子と記載がすむと、隆はひとつ困った問題に向き合った。
義理の母となったばかりの雪花という人は、実母と比べてずっと年若い女性で、実際に年齢を確認すれば七つの隆に対して雪花は十六――郷里にいる長男よりも年下な為、突然「母」と言われてもどうにも気恥ずかしい。
姉という人がいたらこんな感じだろうかと思い、いやいや田舎にはこんなに綺麗な女子はいなかったと首をふる。
じりじりとしつつ、ではどう呼ぼうと困り果て、とうとう当人に「母上さまとお呼びしてよいですか」と言葉を選んで口にした。
すると、雪花は困ったように眉間に皺を寄せて小首をかしげた。
「わたくしは……母と呼ばれるような女ではありません」
確かに、若い雪花に突然七つの息子ができるのは嫌だろう。しゅんと肩を落とした隆に、
名白が場を取り繕うように笑い「そりゃ、若いみそらでこんな大きな子ができたら嫌だろう」と場を和ませようとしたのだが、雪花自体があわてた。
「嫌ではありません。ただ――私は、妾ですから」
小さく、恥じ入るように視線を落とす雪花に対し、隆がきょとんとした視線を向けた。
「……妾?」
「ああ、小さな子にこんな話――ごめんなさい。あの、どうか今の話は聞かなかったことに――」
更に自分の言葉が不適切だと思ったらしい雪花だったが、隆にしても相手の言葉の意味くらいは判る。
「だども、人別帳にはちゃんとのっとったど?」
名白が寺で手続きをしてくれている間、横合いからそわそわと覗き込んでいた隆だ。養父となった父の名は嘉弘、そして母の名は雪花。間違いなく――もとより二人は夫婦として届けられている。
だというのにその雪花の口からおかしな言葉をきき、思わず頓狂なお国言葉で口を挟むと、名白も引きつった。
「あのたわけ――祝言をあげてないことは聞いているが、まさか雪ちゃんに承諾もとらずに嫁にしたのか!」
その後呆然としている雪花をそのままに、名白は一晩中嘉弘へと説教をかました。
何故雪花自身が嫁だと知らぬのかといえば「オレの女だとは言ってある」と暴言を吐き、祝言をあげていないのは何故かと問われれば、山田の家人は全員雪花が女主人であると知っている――当人すら知らないのに周知の事実であると思っていることじたいが今一納得できないのだが――それを披露する意味などない。
雪花方の人間は居ないのだから、雪花の肩身が狭かろうと、実に明後日な説明を繰り広げた。
それで妻が今日まで自分を妾だと思っていたというのはいったいどのような事態か。
隆の師匠である有村などは、物凄く微妙な表情で「実に情けない。本当にこんな子供でいいのですか? 三行半という言葉もあれば、縁切り寺もありますし」と雪花にこっそりと言っていたのが興味深い。
「言葉が足らないにも程がある」と名白と吉次はぐちぐちといい続けたが、最終的に嘉弘がぶちきれてその話は終いとなった。
「まぁ、当代が雪花さんを不器用ながら大事にしているのは知ってましたけどね。以前、夜桜の見物に雪花さんを連れ出したことがあるのですけど、わざわざ船着場まで迎えを用意してまで連れ帰っておりましたし。雪花さんの部屋の前でうろうろしているのも目撃しましたし。私が贈った鈴を心底忌々しそうに眺めているのを眺めているのは楽しいですよ」
くすくすと笑う有村は――午後のお茶を雪花の離れで凄し、時折弟弟子である嘉弘の失態話などを告げ口しては「いま、幸せですか?」と雪花に問いかけているのを見かける。
改めて尋ねたことは無いが、有村は雪花に――
「隆兄ぃさまっ」
突然くんっと帯を引かれ、隆はあわてて冬香へと意識を戻した。
「ああ、ああごめん。なに?」
勝気な冬香が父親譲りのきつい眼差しでにらみつけてくる。
さぞ、男であったならば良い跡取りとなったことだろうと思うが、雪花の腹に子があると知れても隆が次代として目されていることには変わりは無かった。
そもそも、当初は雪花に――嘉弘の妻に子が産まれると聞いた時には、自分は邪魔なのでは無いかと身の置き所がなく感じて戸惑い、不安を抱いたものだ。
もし男の子が産まれてしまえば――自分は陸奥に戻されるのかと。いたし方の無いことと判っていても、いったん膨らんだ気持ちがしぼむのは、たいへん苦しいことだった。
だからといって新たな命を無碍にできよう筈もない。
産まれてくるななどと思うなど恐ろしい。
けれどどうしても自分はこの屋敷にいて良いのかと数日眠ることもできず――とうとう、一対一の差し向かいで会話など恐れ多い義理の父に頭を下げて言葉を賜った。
「よろしい、ですか」とおそるおそる声をかければ、嘉弘は冷ややかな眼差しのまま「何用か」と尋ねる。
その声の低さに更に身を縮めて、相手の顔など到底見られずに頭を下げた。
「父……上さま。
あの俺――いえ、私は、ここにいてよろしいのでしょうかっ」
勢いをそがれぬように懸命に言えば「どういう意味だ」と平坦にかえる。
「跡取りがっ。
産まれ出でるのが男子だったら――私は……」
「男であろうと女であろうと、お前が腕を磨きあげて相応しい男に成長すればお前が跡取りであることに変わりない。雪花の子は――俺の子にはいっさい技を伝える気は無い。
お前が望まぬというのであれば他に見つけなければならないが――お前は山田浅右衛門を継ぐ気がないのか?」
淡々とした問いかけに、その当時は御様御用に何の疑問も抱いていなかった子供は、やっとほっと息をついたものだ。
ただ、今なら判る。
自らの子に――人殺しの業を背負わせることは何とも恐ろしいことだろう。
自らの行いに疑問を抱き続けるならば尚の事。
責任にがんじがらめに生きていたなら更に。
「兄ぃさま」
「ああ、で何だっけ?」
「兄ぃさまは、冬香のホントの兄ぃさまではないのよね?」
突然突きつけられた言葉に、ふと寂しさを覚えた。
人別帳の上では確かに兄と妹ではあるが、実際血が通っている訳ではない。はじめてできた妹を、本当に妹のように愛しいと思うのに、そう思うことすら贅沢な気さえしてしまう。うれしそうに現実を突きつける幼い娘に、隆は少しだけ眉を潜めて小さく応えた。
「ああ――そうだよ。俺は、陸奥からこの家に養子に……」
人殺しをする為にこの家に来た。
悪人退治をする為にこの家に――先ほども、その現実にちっぽけな自分をたたき折られていたところで、遠い郷里がなつかしい。
いまならまだ、逃げ出せる。
嫌だと言えば、自分はぽいと捨てられて新しい誰かが次代として担ぎ上げられることだろう。
人殺しの鬼として。
口内にえづいた残りがを感じて顔をしかめた隆とは裏腹に、冬香はその口元に笑みを浮かび上がらせた。
「じゃあ、やっぱり大きくなったら冬香が兄ぃさまのお嫁様になってあげるね」
それこそ小さな頃には幾度か耳にした言葉だが、改めて血縁を否定してからいわれた言葉にあっけにとられ、何か言おうにも口をぱくぱくと動かすと、赤い着物の幼子は蝶のようにふわりと身を翻した。
「ちょっ、あのっ」
あわてて手をあげて呼び止めようにも、きゃあきゃあと駆けて行く冬香の後ろ姿を隆は呆然と見送ってしまった。
がさごそと低木の間から大きな体をおこしたふくよかなミノが「おやおや、これは大変だこと」クツクツと喉を鳴らす。
「旦那様が知ったら何というか」
嘉弘が知ったら何というか、それを考えるとざぁっと血の気がひいていく。楽しげなミノが言葉を続ける前で、ぐったりとぼやきが落ちた。
「せつねした」
***
ぱたぱたと駆ける冬の蝶が、春先の穏やかな空気をかき混ぜるように庭を分断する池の石橋を渡り、離れへと駆け込んでいく。
離れは現状まずいのではないかと思う矢先、甲高い声が耳に届いた。
「父さま、桜。
花見に連れていって」
面倒くさいという不機嫌そうな声が小さく届く中、隆はうつむいて自分の手の平をじっと見つめた。
このままこの屋敷に留まれば、この手には到底信じられないものが手に入る。山田浅右衛門という名と、人切りという業と――そしてきっと激しい後悔が。
自分は嘉弘のように強くない。
「違いますよ。当代は誰より弱い」
鍛錬のおりに泣き言を訴えた時、有村は小さく笑んだ。
「人を殺すことにも慣れず、苛立ち、逃げ出すこともできない。
人を殺す自分を嫌悪し、自分の腹の中でいろいろなものをくすぶらせている時に――あの人にとって雪花さんと言う人はきっと自分とはかけ離れたものに見えたでしょうね。黒に白。不浄に清浄。相対するものを前にもがいて、無視して、相手を貶めようとして」
そうして――最後には……
離れと本邸とを結ぶ渡り廊下を、赤い着物の冬香がぐいぐいと何かを引いて顔を出す。両手で掴んでいるのは彼女の父親の手首で、ずいぶんとおっくうそうに嘉弘が続く。更にその後を雪花が歩み、その眼差しが庭――池の反対側の隆を捕らえると、微笑した。
「隆さん、花見に行きましょう」
家族三人で行けばよいものを、決まって隆を誘う義理の母に隆はいったん瞼を伏せた。
背後には確かに現実が悪夢のようにあるというのに。
血生臭い蔵や、幾度も幾度もないたり吐いたりを繰り返し――それでも、また明日考えればよいやと思ってしまうのは。
「兄ぃさま、早くっ」
――弱くていい。
疑問を持っていい。
何も考えずに人の命を奪うより、人の命を奪うことに疑問を抱き続けていくほうがいい。
貴方はきっと、山田の良い担い手となるのでしょう。
耳に蘇る有村の言葉にそっと目をあければ、嘉弘が無言で顎をしゃくる。
早く来いと示すその所作に、隆はこくりと小さくうなずいた。
それでもまた、明日考えればよいやと思ってしまうのは……人の心に触れるからだろう。