4
鬼と呼び、汚らわしいと蔑み――その果てに、芽生えてしまったこの感情はどうあっても消化しきれぬものと成り果てた。
好きだという気持ちに気付けば、転がり落ちる石ころのように心はとどまることを知らぬ。
その手は、乱暴に雪花を抱き、そして静かに罪人を切る。
鬼と思えば人とも思え――気付けば自分自身こそが夜叉にすら思える。張り詰めるような空気が部屋に満ち、それを切り裂くように凛とした声が響いた。
「好きに――」
以前とおなじように、そう嘉弘は口にしようとしたのであろう。
好きにしろ、と。
だが言葉は途中で立ち消え空に溶け、あげく舌打ちを漏らした。
苛立つ素振りで立ち上がり、面前にある膳を蹴倒し、だかだかと雪花の前に立った嘉弘はぐっと一度唇を引き結び、ぐいと手を伸ばして雪花を引き寄せた。
締め上げられた手首の痛みに小さな悲鳴があがり、嘉弘は一旦躊躇するように力を緩める。
座っていた尻が上がり、中腰のていで立つ雪花を嘉弘は見下ろす格好で言葉を操った。怒りと、別の何かを滲ませた声で。
「オレはお前を金で縛った覚えは無い。
以前にも言った筈だ。お前は自らの生き様を自らで選び取って生きていた――オレに抱かれることが嫌だというのであれば、そのように生きられた筈だ。今その道を変えようとするのならば、それが望みだというのであればオレの裁可など要らぬ。誰のことも気に掛けずそのようにすればいい」
「――」
「オレが憎いのであればオレを殺せ。
オレはお前にならばいつでも殺されてやる覚悟はある――他の誰の恨みも知らぬ。恨みつらみなんぞ山とこの身に向けられていても、それを負うてやるのは咎人でもないというのにこの手に掛けた男の娘であるお前だけと決めている。たとえ他に同じようなものがいようと、オレが憎しみまで背負うてやるのはお前だけだ」
一息に吐き出し、嘉弘は腹の酸素を全て使い切るように肩を落とし――
「誰にも左右される必要は無い。
雪花、お前はお前の好きなように生きろ」
お前は今までも、この先も、何にも縛られずに自由だ。
眼前で語られる言葉に瞳を見開く雪花に、嘉弘は苦しさを吐き出すように声をかすれさせた。
「その自由の中で――オレを、選べ」
耳に触れた最後の一文に、体を駆けた感覚を何と表現すればよいのか。
雪花は愕然とした面持ちで間近にある嘉弘の顔を見上げた。
ぞくぞくと這い登るそれは歓喜にも似た、けれど同時に血の気をうせさせるように下半身から力が抜け、冷えた。
好きにしろ――その言葉の意味がはじめて胸に落ちて、ふわりと解けた。
興味が無いから勝手にすれば良いという突き放しではなく、雪花を尊重して告げられていた言葉。
お前がそう望むならそうしたらよい。
冷たいのではなく、それは不器用ながらも優しい、心。
泣くつもりなど無いというのに、熱いものが目元をぼやかせ、頬を伝いて顎先で落ちた。
なんということだろう。
心――心が無いのは、自分ではないのか?
鬼は嘉弘ではなく、自分ではないのか?
雪花は突如突きつけられた事実に愕然としてしまった。
なにゆえ今まで気付かなかったのか。心が無いと、鬼だなどとののしっていた相手から向けられていた心に。
自分という殻の中にとじこもり、見える筈のものを見ていなかったということであろうか。吉次や有村でさえ鬼と避けていたあの日々のように。
ただの女という体を求められていた訳でもなく、雪花という人を求められていたのだろうか。
そのように――決めてしまって良いのであろうか。
「選んで……いいのですか?」
雪花の声は振るえ、わななく歯が無様にがちりと音をさせた。
「私が好きに?」
「お前が、自分の意思で選び取ることに、否はない」
少しだけ苦しそうに眉間に皺を刻みつけて言われる言葉に、雪花は泣き笑いの顔でもう一度問いかける。
自由な逆の手をそっと、おそれるようにそっと伸ばし、間近にある嘉弘の頬に指先を這わせれば、嘉弘の首がわずかに傾き、その指に頬を預ける。
嘉弘のもう片方の手が、頬に触れる雪花の手首を捉え、温かな手に包まれた。
声がかすれて大気に滲んで、溶けた。