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鬼の棲む家   作者: たまさ。
ふたたびの春
46/52

3

 まるで人形のようにただ立つ雪花の身を整え、乱された髪を緩く結い上げる。

名白が来たという言葉は嬉しく思う雪花だが、その後に続いた嘉弘の子を匂わす言葉に身が凍りついたまま動こうとしない。

 もし、よそに子ができていなければ――この屋敷に在ることに不満は無かったかもしれない。いや、それでも腹に子ができてしまった今、嘉弘はいったいどのように感じるのであろうか。

 何より、そのことがらが無くば自らが嘉弘を好いているなどと気付かぬままであったやもしれぬ。

そう、それはすなわち――嫉妬なのだ。

妾の分際で浅ましくも嫉妬にもだえ、そして無様にあがいてしまった。嘉弘の想いを求めて。

 だが、嘉弘にとって雪花という存在が、ただ欲を満たすだけの女であれば、その腹が子で膨れることは不快であろう。もし、生まれ落ちた子を養子にでも出されてしまうようなことがあればどうしたら良いのか。そこまで考え、ふと他の痛みに気付いた。

 よそに産まれたという和子は――母と引き離されて来たのであろうか。それとも、その母もここにいるのであろうか。

 嘉弘とその親子とを見つめて過ごすことが自分にできようか。

否――そんなことに耐えられよう筈はない。何より、相手の女性だとて妾と同じ屋敷内で暮らさなければならないなどと鬼畜の所業、耐え難いことだろう。

何故このようなことになってしまったのか。

このように卑しい気持ちに苛まされるくらいであれば、嘉弘への思慕など気付かぬままでよかった。

ただ、愚かな一方的な気持ちの押し付けのまま、嘉弘を憎んでいられればよかったであろうに。


 それでも、行くなと耳朶に触れた囁きに、身が震える程の喜びすら芽生えてしまった事実は消えてはくれない。

 雪花は半眼を伏せたまま、ミノにされるがまま立ち尽くし、そっと唇を噛んだ。

やはりこの身はここに在るべきでない。

――この腹の子ともども、去るべきだ。

 脳裏に有村の「私の子供として育てましょうか」という暢気な口調がよみがえり、ぎゅっと握った拳に力が篭った。

 有村の優しさはありがたくとも、それにはすがれぬ。

そもそも、有村の屋敷に厄介になろうというのも甘すぎたのだ。

「さあさ、お綺麗ですよ」

 耳にかかる後れ毛を指先で整えたミノに、雪花は言う言葉が無く、ただそっと首を振った。

「そんな顔をなさってはいけませんよ。

数日の間お体を休めたいとの我儘も旦那様は聞いてくださいましたではありませんか」

 そのような話になっているのだろうか。

眉間に皺を刻んだ雪花をせっつき、ミノは無理やり離れから引き出した。

キシリと小さな音をさせる渡り廊下を渡り、母屋に行くとすぐに嘉弘の部屋になる。寝間の前にある居間の前に突き出され、雪花は苦痛を飲み込むようにして板の間に膝をつき、襖のへりに両手を添えて声を掛けた。

 嘉弘からの応えは無い。

嘉弘の場合返事などしないのが通常の為、あえて二呼吸おいてのちに襖を開こうとすれば、中から快活な声が応えた。

「どうぞ!」

「失礼いたします」

 開いたその場にある光景を思い、胸の苦しさで気をうしなってしまいたいと願う雪花だったが、そのような事態になることはなく、部屋内のあたたかな空気が頬に触れた。

「やぁ、元気にしているかな、雪ちゃん。

まったくようやっと戻れたよ。それでも今年は雪が少ないというのだから、隆奥というところは酷いもんだ」

 先ほどの応え同様快活な声で言うのは、相変わらず袈裟姿の名白。旅からそのまま屋敷に顔を出したのか、その袈裟もどこか薄汚れて見える。ささくれ立つ心で軽く頭を下げると、まったく違う甲高いような声が耳に飛び込んだ。

「雪が深くなる前に出ようと言ったのに、酒がうまいってずるずると逗留なさったのは名白様のせいだべした」

 なまりのある特徴的な声が、途端にはっとした様子で「名白様のせいですよ」と自らの言葉を訂正する。

名白はひょいと身を動かし、丁度名白の体の向こう側に隠れていた子供を示した。

そう、子供。

「それで、これが隆だ」

 名白と同じく、どこか薄汚れて緊張した風体の旅装の子供は、散った雀斑と赤い頬でがばりと頭を下げた。

 小柄な少年であるが、武家の出を思わせる着物に袴。

「おらっ、でなくて――私は」

「湯長谷藩の藩士、三輪源八の四男で隆坊だ」

 子供の声をさえぎり、元服前の垂れ髪頭をぐりぐりと撫でながら言う名白の言葉に、押さえ込まれた子供は憤慨するように声をあげた。

「坊でねっ。坊は――やめて下さい」

 気を抜くと出てしまうお国なまりを訂正しながら頬を赤らめる少年の姿に、雪花は呆気にとられて瞳を瞬き、回答を求めるように上座に座る嘉弘へと視線を向けた。

 そこに座る嘉弘は普段と変わらない。父親である名白がいようとも、それに連れがあろうともむつりとした表情で胡坐を崩すようにして座っている。

「あの……」

 何をどう問えば良いのか、あの、と口にはしたもののその続きが口を滑らない。

そんな雪花の前で、少年は照れくさそうにしながら畳に両手をついてぺこりと頭をさげた。

「年を越えて八つになりました。剣の修行は五つからしています――本日よりお世話になりますが、どうぞよろしくお願いします」

 緊張したまま言葉を落とした少年が体を起こすと、途端ぎゅるりと腹がなる。ぷっと噴出(ふきだ)す名白と、そして真っ赤になる少年の姿に唖然としている雪花の背後、呆れたようにミノが息をついた。

「おやおや、何か食べ物を用意いたしましょうね。隆さん、でよろしいですか? こちらへどうぞ。湯殿の用意もしましたから、先に湯を使ってさっぱりとしてしまいましょう」

 手招くミノに、了承を求めるように隆が名白へと視線を送る。

名白はかかと笑いながら「ミノ、悪いが俺も湯と飯だ。このところ路銀が足らず飯をへらして急いで来たからな。たんまりと用意してくれ」と剃りあげた頭をなぞる。

 それから――名白は雪花を見た。

体制を整え、深く頭をさげて。

「雪ちゃん。その年で八つの子の母親役はたいへんだろうが、まあ頼む。三輪の親父殿は四男坊が山田に養子に入るとあって喜んでいたが、坊の母親は坊と引き離されてきっと辛かったことだろうし、坊もまだまだ寂しい盛りだ。当人は御様御用というお役を子供の正義感で悪人退治と喜んでいるが、この先は実際辛いことも多くあるだろう。できれば――まっすぐに育ててやってくれ」


 ミノと隆、そして名白がわいわいと部屋を出て行くと、残されたのは雪花と嘉弘の二人だけ。どうにも気詰まりな空気の中、雪花はどう口を開くべきかと畳の目を数え、やがて場がもたずにとうとう「あの……」と口火を切った。

「何だ」

「あのお小さい方が、跡取り様ですか?」

「そのようだ」

「――旦那様の、お子……?」

 小さな呟きはぎろりとした一睨みで黙された。

「同じ流派の居合いを使う幾つかの藩に名白を向かわせ、御様御用(おためしごよう)を自ら志願する子等の中で一番素養のある者を選ばせた。あやつが使い物になるのであれば、あやつが次の山田浅右衛門となろう」

 どのように言うべきなのか言葉が見つからない。ただ混乱が満ちて、やがて到達した回答に羞恥心が這い登る。


――みっともなく嫉妬に狂っていたというのに、ふたを開けてみれば血の繋がらぬ養子。嘉弘の子を産み落としたものもなく、嘉弘の子でもない。

いくたびもいく夜も辛さに身を丸めていたというのに、なんという無様な。

「私……馬鹿みたい」

「何の話だ?」

 不機嫌そうな嘉弘の眼差しに、雪花は泣き笑いの顔で首を振った。

笑いが湧き上がり、それを押さえて肩を揺らし、自らの愚かさを笑った後で、雪花は身を整えてじっと嘉弘を見た。


 嘉弘が不機嫌に息をつき、やがて手を差し伸べて雪花を呼ぶ。

その手をじっと見つめ、雪花は三つ指をついて頭を下げた。

あまりのみっともなさに身が震えてきそうであるが、すでに腹に落ちた決意が背を押し上げる。


「父に託され孤児を引き受けて下さいましたご恩、終生忘れませぬ。

ですが、雪花はもう旦那様に御仕えすることはできかねます」


 こたびは良い。

だが、またこのようなことが無いと言い切れぬなら――やはりここにいるのは辛い。

この胸に宿ったどろりと穢れた卑しい想いが消えぬなら、幾度も心は苦しみにあがき、みっともなく他人へと黒き感情を向けてしまう。

 そう、自らこそが鬼のように。

雪花は指先を見つめた視線をあげ、微笑を称え、嘉弘を見つめた。

妾には戻れぬ。

腹の子は手放せぬ。

跡取りに血が繋がっていないのであれは、尚更嘉弘の血を持つ子供など問題が生じよう。

「雪は、暇をいただきとうございます」



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