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ぎゅっと堅く雑巾をしぼりあげ、畳を丁寧にふきあげていく。
有村の屋敷に暮らすようになって数日もたつとミノが顔を出し、不満を口にしながら雪花の衣類を置いていこうとしたが、有村はそれを要らないと突っぱねた。
すでに数着、新たな反物から着物が作られていて、有村はまるで楽しげに雪花を着飾った。
「いいんですよ。この程度――私はお金の使い方を知りませんから、こんなふうに使うのは楽しい」
そういう有村は本当に楽しそうに見えて、必要が無いというのも気が引ける。だがやがて懐剣を一そろい差し出されると雪花はそれだけは辞退した。
他のもので代用しようという気持ちもなければ、嘉弘から渡されたものを手放すことも考えられぬ。かたくなに言う雪花を満足そうに見つめ、有村はふと思い出した様子で口にした。
「そういえば、先日、山田の屋敷に先代から手紙が届いたようですよ」
「ああ。名白様はお元気そうですか?」
冬の入りに陸奥へと旅立った名白だが、案の定雪に覆われた陸奥で一冬を過ごすこととなってしまった。手紙の中にはその愚痴と共に、雪が溶けた為、もう戻るという一文があったという。
元気なら良かったとほっと息をつき、雪花はふと身を改めた。
ずるずると数日を過ごしてしまったが、いつまでもこのようにしてはいられない。
「大事な、お話があります」
「承ります」
有村はうなずき、雪花にならって身を整えた。
覚悟したことと言っても言いづらく、雪花はこくりと喉を上下させ――自然と下がってしまいそうな視線を無理にあげて有村を真正面から見返した。
「――子が、できました」
「さようですか」
さらりと有村が言う言葉に、雪花は動揺した。
やはり、有村は雪花があの屋敷でどのような役割であったのか知っているのだ。そうでなければ、未婚の女が子ができたなどと言って落ち着いていよう筈がない。
知っているのだろうと思っていたが、ここまで当然のように流されると動揺してしまう。
「汚らわしいと……お思いにならないのですか?」
「何故ですか?」
当然のように返され、雪花はうろたえたが、有村はそのまま言葉を続けた。
「ですが――どうしましょうね」
有村は少しばかり考える風で首をかしげた。
「いっそ、私の子として育てますか?」
「はい?」
「ああ、そんな顔をしないで。こういう案もありますよ、という話です。私は一向に構わないのですが――構うでしょうね」
苦笑をにじませ、有村はいつもと変わらぬ様子で微笑む。
「掃除とかあまり無茶をなさらず。心配は要りませんよ――ほんの我慢くらべですから」
意味不明なことを口にし、有村は雪花の身を案じながら毎日仕事に出かけていく。心配は無いといわれたが、雪花としては「出て行け」なり何なり言って欲しかった。このままだらだらと有村の家に世話になっていていいものなのだろうか。
すでに春の声を聞く頃で、桜も三分咲きと聞く。相変わらず外を知らぬ雪花には桜など見えぬので関係は無いが、ふと昨年の花見を思い出してしまう。
――吉次に連れ出された舟遊びではなく、嘉弘が連れ出した墓所の桜。
散る桜の下で抱きすくめられたあの日が……
じわりと眦に涙があふれ、畳をふきあげる手がとまる。
ぽたりぽたりと畳に雨が滴り落ちて、必死に唇を噛んだ。
このところの自分ときたら泣いてばかりで情けない。子が宿った反動とも知らず、ただひたすらに自らの心の弱さに切なくなった。
脳裏に浮かぶのはちらちらと散る枝垂桜。淡い薄紅色と風の声が体を抱きしめる。
あの日、自分はいつか嘉弘を殺すであろうと思っていた。
だが違う。
自分に嘉弘は殺せない。
殺すことなどできはしない。
何より、手を伸ばしてももう嘉弘はいな――
「何故、泣いている?」
静かな問いかけに、雪花は慌てて顔をあげた。
開け放たれた障子の向こう、有村の屋敷の小さな庭先に何故嘉弘がいるのか判らず、ついでその意味に思い当たり、慌てて目元をぬぐった。
「あのっ、有村様でしたら道場に行かれている筈ですが」
「あんな男に用はない」
苛立つようにぱしりと返され、雪花は戸惑った。
「でしたら……どう」
「何故、泣いているのか聞いている」
苛立ちのままの言葉に、何故泣いていたのか自ら振り返った。
「桜が……」
「桜が?」
「桜が、見たくて?」
自分でもあやふやな言葉。
戸惑いにまみれた言葉に、ぎゅっと雑巾を握りこむ。
庭先の嘉弘は相変わらず目つきの悪い視線で雪花を射抜き、そしてぐっと手を伸ばした。
「来い――」
突然のことに意味が判らず硬直する雪花にしびれをきらしたのか、嘉弘は土足のまま縁側をあがりぐいっと雪花の二の腕を掴み、手の中の雑巾をぽいとほうり捨てた。
心の臓が捕まれたかのように激しく鼓動する。
捕まれた手首に触れる感覚は冷たいのに、そこから熱が伝わって痛い程に感じられた。
自分の前に嘉弘がいることが信じられず、どうして良いのか判らない。声をあげようにも、何と問いかければよいのか。
相変わらず雪花の歩幅など気にもかけずに歩く嘉弘に捕まれたまま、雪花は早足でその腕を、肩を、横顔を見つめた。
間違いなく嘉弘だというのに、どこか絵空事のように信じがたい。
もしや自らの願望が生み出す夢ではあるまいかとすら思うのに、つかまれた熱は確かなものだと訴える。
やがて歩幅が緩くなり、気付けば長い参道――また、墓だ。
そう思った途端、思わず小さな笑みがこぼれた。
「何だ?」
「お墓……名白さんは入っていませんのに」
名ばかりの墓があるだけだ。
否、代々の祖先が入っているのだろうか。
階段をのぼり、玉砂利を蹴るように歩き――訪れた場にはやはり墓。そして、その上には未だ散る様子もない僅かな桜。世の桜は三分咲きときいたが、この桜は時期がずれるのか未だ二分にも満たない様子で、ふっくらとした蕾がわずかに薄紅を思わせるのみ。
桜というには味気ないが、それでも、桜が見たくて――そう言った雪花の為に、わざわざ連れて来てくれたのか。
そう思うだけで嬉しくて。
そう思うだけで、もう良いと満足してしまった。
すくなくともあんな言葉を最後にしなくてすんだ。
――好きにしろ、と。心の無いそんな言葉を最後にしなかったという事実だけでも、それがどれだけ喜ばしいか。
やっとたどり着いたというのに、嘉弘は相変わらず雪花の二の腕を掴んだまま――墓を参ればよいのか、それともと迷う雪花に、ふいに嘉弘は口を開いた。
「オレの前にだされるものは全て罪人だ――オレは何も考える必要もなく、その命を奪う」
ゆっくりと言葉にしながら、どこか戸惑っている風にも思えた。
「だが、その男は違った。おおっぴらに言われていた訳ではないが、まことしなやかな噂ならば耳についた。男は自らが罪を犯したというわりに、他の全てを知らなすぎた。人を殺した場所も、人数も、性別すら知らず、ただ自分がやったというばかり。他に下手人がいると思わせたが、そんなことはよくあることで、幕府は深くは問いたださぬ。
いわば下らぬ武家の生贄だ。蜥蜴の尾のように、痛みのないところを差し出して藩の取り潰しを逃れる――長いものには巻かれる。そんな話はどこにでもあって、だが、不快だった。オレはあくまでも罪人を切る。だというのに、咎人ではないものを咎人として切らねばならぬ。表向きはその男の罪として……」
それが父のことであろうというのはすぐに知れた。
雪花は息をつめ、ただ未だ咲ききらぬ桜を見る。
「苛々とした。だから、オレはあの男が静かに最期を迎えようとする場で問いかけた」
――何か未練はないのかと。
罪を着せられ死ぬというのに、男は身じろぎ一つせずにただその時を待っていた。
ただ何も言わず、ただ時が過ぎるのだけを待っていた。
だが御様御用人の言葉に、息を飲み込みやがて静かに口を開いた。
「娘を一人――残して来てしまった。
罪人の子として一人生きるは地獄だろう。もし、もし情けをかけていただけるのであれば、その娘を切ってはくれまいか」
最期の頼みならば利いてやろうと嘉弘は思ったものの「俺は罪のないものは切らん」と吐き捨てた。その言葉ですら矛盾に溢れて反吐がでる。
人殺しなど好きでしている訳ではない。
憤慨した嘉弘に、やがて男は言った。
「ならば生かせと。地獄ではなく、この世に生かせと」
静かな嘉弘の言葉に、雪花は唇を振るわせた。
「名白の墓の隣――誰が眠っているのかと昨年お前は言ったな。
そこには、その男と、その妻が眠っている」
嘉弘の吐息のような言葉に、雪花は瞳を大きく見開き、その場にへたり込んだ。