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鬼の棲む家   作者: たまさ。
43/52

9

 嘉弘の座敷に連れ戻されてしまった雪花は、自らを落ち着かせる為に息をゆっくりと吐き出し、胸元押さえて半眼を伏せた。

 廊下で膝をつき、襖の下部に両手を添えて押さえ「失礼いたします」と声をかけ、一度開いて二度目でひといきに開く。

 頭をさげて顔をあげると、雪花はその部屋で一度も顔を合わせたことのない有村を見つけてしまった。

上座の嘉弘と下座の有村。その対を滅多に見たことがなかったと改めて思う。有村は山田の道場にて師範代として若い門人の面倒を見ているが、嘉弘は道場とは別にある鍛錬所を使う為、二人が実質顔を合わせることも少ない。

「あら、有村さま」

 背後のミノが言いながら、慌てて「お酒を追加しましょうね」と廊下を戻っていく。雪花は部屋に入り何を言うべきかと逡巡していると、有村が畳に手を沿え、体の向きを雪花へと向け、誰より先に口を開いた。


「当代にお許しを頂こうと思いまして参りました」

 その言葉は雪花へ。

そして――今度は部屋の奥にいる嘉弘へと体ごと向いて言葉をかけた。

「雪花さんは私の家に来ることを了承してくださいました。当代。あなたもそれで構いませんね?」

 凜とした声はよどみなく部屋の中ではっきりと聞こえ、雪花は驚きのあまり瞳を見開いていた。

 確かに嘉弘には了承をとる必要がある事柄だろう。だが、このように言うとは思ってもいなかった。

何より、事情が変わってしまった。

 今の雪花は身重で軽々しく他人の家の下女として働ける状態ではない。だからまずそこをきちんと告げてどうするべきか相談したかったというのに。

「当代?」

 有村がもう一度問いかければ、いつも嘉弘が座する上座で――嘉弘はいつもと変わらぬ不機嫌そうな低い声で答えた。

「好きにしろ」

「はい」

 よどみのない言葉。

了承にうなずく有村と、そして淡々とした嘉弘の様子に、雪花は胸を刺し貫かれたような痛みを覚えた。

 まるでもののやりとりのように。

ほんの少し、暇をもらうにしても妾は暇をもらえるものだろうかとちらと思ったというのに――嘉弘にとってそれほどまで雪花とは軽々しい存在であったのか。


 有村はふっと苦笑を口元に沿わせ、身を整えて一旦頭を下げると嘉弘のもとに近づき、耳元で何事かささやいた。

 嘉弘の手がぐっと猪口を握り締め、酒が指をついて滴り落ちたが、有村は自らの言葉に返答は要らぬ様子で、すっと身を引いて立ち上がった。

「雪花さん、参りましょうか」

「あのっ」

「もたもたしていたら遅い時間になってしまう。荷物は必要ない――貴女のものは全て用意してさしあげますから」

 戸惑う雪花をせっつくように、有村は生来の彼らしくなく強引に雪花の腕を引いた。

「夜は短い。色々ともったいないですよ――ああ。当代。明日は私は道場を休みますから、

代わりのものを頼みます。理由は聞かないで下さい。判るでしょうから」

 上機嫌に雪花をせきたてて歩き出してしまった有村は、戸惑う雪花を励ますかのようにぽんぽんっと背を叩いた。

 その勢いに戸惑い、まるで救いを求めるように嘉弘へと視線を転じはしたものの、雪花が最後に目にした嘉弘は――あくまでもいつもと変わらぬ泰然とした姿。

 あるがままを受け、あるがままに処する。

妾一人……離れたところで、その心に何かを残すこともないかのように。


 すでに用意されていた駕籠に詰められるうに乗せられ、たどり着いた有村の屋敷は、昔雪花が住んでいた組屋敷のような作りをしていた。

 駕籠からおりた雪花が物珍しい様子で辺りを見回し、吉次が言っていたと思わしき下男にうながされて家へとあがると、その物音を聞きつけて奥から足音がやってくる。

 有村の母でもいるのかと驚いた雪花だったが、更に驚いたのは不機嫌そうに足音をさせてやってきたのが吉次であった為だ。

本来であれば足音ひとつたてずに歩くことのできる好々爺が、わざと足音をさせて現れ――だが、雪花の姿を認めると嘆息して笑んだ。

「よう来たな、雪花や」

「あの、御前さま――いえ、おじい様。

こちらはおじい様のお屋敷でいらっしゃるのですか?」

「外は寒かろ? 奥の部屋がぬくまっとるぞ。

ここは有村の家じゃ。お主を招くからわしも来いと有村に連れてこられての。うまい魚があるぞ。甘露煮じゃ。はよ来い。飯にしよう」

 せっつく吉次に招かれた背後、

「おかしな気持ちになっては本末転倒ですからね」

 ぼそりと聞こえた有村の言葉に振り返れば、どうやら聞かれたくなかった事柄らしく、有村は苦笑して自分の脇差を下男に引き渡した。

「さぁどうぞ。山田の家に比べればあばら家のようなものですが、心地よく暮らすのに不便はさせませんよ」

 にっこりと微笑む有村に、雪花は自分の腹部を護るように触れて「そのことなのですが」と口を開こうとしたが、痺れを切らした吉次にぐいっと腕を引かれてしまった。

「ほれほれ、飯が冷える。

おいで雪花や」


 穏やかに向けられる好々爺の顔に、雪花はぐっと喉を詰まらせた。

慌しく山田の家を出て来てしまった。

有村に連れられてというのはあるが、何故か捨てられたかのような気持ちをい抱いてしまうのは、きっと間違いだ。


 好きにしろ――その無慈悲な感情の無い言葉が、嘉弘の最後の言葉だった。

それが……腹の子の父親の、最後の言葉。

耳の奥で何度も何度も木霊して、雪花はその夜、有村が用意してくれた寝床で独り、身を丸くして涙を堪えた。


たとえ触れ合っていたとしてもだれよりも冷たい癖に、そのぬくもりがないことが何よりも辛かった。

こんな風に思う自分は――父を裏切り、母を裏切り……そして自分すら裏切るおかしな女だろう。

 憎しみが……雪と共に溶けてなくなり、残ったものは芽生えた小さな命と、そして朽ち果てるべき愚かな想い。

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