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鬼の棲む家   作者: たまさ。
42/52

8

 暇を頂き山田浅右衛門の屋敷を出る――そう定めたときに、雪花は自らの身の回りを整理しなければいけないと部屋を改めた。

 定期的に作られる着物。届けられる簪。いくつもの品々が並ぶ中、自らのものだと自覚できるものがあるとすれば、やはりそれは嘉弘に直に渡された懐剣だけだった。

 胸の帯に絹袋に入れたまま差込み、そっと先端の絹地をなぞる。封をする組みひもにつけられた有村から貰ったまろい鈴が小さく音をたてた。

 着物は自らが仕立てた数枚を持ってでることを許して頂こう。簪は必要が無い。

一番大事なのは、やはり懐剣で――これだけは、死に至るその時までずっと手にしていることだろう。

離れで一人、ぽつねんと居ることなどいつものことだというのに、雪花はまるで世の中に自分は一人だけであるような侘しさを覚えた。

 思い返せばこの屋敷を訪れて四年――否、五年。

はじめの四年近くを言葉無しで頑なに生きていたものが、この一年がらりとその全てをかえた。この身も、心も……何も、かも。


 先ほど、ミノが跡取りのことでとうとう嘉弘に詰め寄った。

「よそから子を連れてくるというのは本気でございますか」との低い声に、雪花は我慢ができずにそそくさと部屋を抜け出した。

 聞きたくなかった。聞きたくなかったというのに、襖を閉ざした向こうから、嘉弘の不機嫌そうな声で「そうだ」と聞いてしまえば、もう生きた心地もしなかった。


 ただの厨の女達の噂ではない。

真実なのだ。

口元から笑みがこぼれて、笑い声はやがて嗚咽に変わってしまった。

 こんなに、辛いとは思いもしなかった。

いつの間に心は変わってしまったのだろう。いつの間に、あの人を恋しいなどと思ってしまったのだろう。

 冷たい男ではないか。

非道な男ではないか。

幾度も幾度も自らに問いかけて、どれ程に愚かな考えであるのか諭してみても、心だけはどうにもならない。

 有村のように優しい男を恋し求めるのであれば判るのに。有村に触れられて得られる優しさを愛だと思えればよかったというのに。

 雪花の愚かな心は嘉弘にそれをもとめてしまうのだ。

触れられると体がうずき、熱が周り、めまいがする。求められると嫌だと思ってもそれを自然と受け入れてしまう。

 恐ろしい思いをした時――助けて欲しいと求めるのは、嘉弘だった。

自分が嘉弘を好いていると認めてしまうと、その気持ちはもう完全に否定できない場所へと転がり出てしまった。

 嫌っていられればよかった。

憎んでいられればよかった。

 あの人は――罪の無い父を殺したのにと更に怒りを向けられればよかった。その真実ですら、もう自らを奮い立たせたりしないのだ。

 なんと愚かなのか。


身を震わし、唇を嚙み――ふと、くらりとくる眩暈に雪花はあわてて近くの襖に触れて体制を整えた。

 途端に奇妙な感覚が腹をぐるりとかき混ぜ、吐き気すらしてしまう。

食事が足りなかったか、それとも具合でも悪いのかと慌てたが、やがてすとんと落ちた事柄に雪花は唖然となった。


――顔色がおわるい。

 幾度か有村は言っていたが、泣きはらしていた為だろうかと思っていたのだが。

「……」

 先月、月のものがきたのはいつだったか。今月、まだ訪れていないのではと考えれば合点がいった。


子――

小さくつぶやき、否定するようにゆるりと首を振った。

子など、いない。

鬼の子……いや、いや。違う。

山田浅右衛門とは名乗らぬ子は、鬼に非ず。

この腹に子がいるのであれば、それはすなわち――自分の、そして嘉弘の子。

 がくがくと体中が震えだし、雪花は慌ててぺたりと畳の上にへたりこんだ。

望まれぬ子だ。

嘉弘は子など要らぬだろう。

跡取りはもう要る。そして、何より嘉弘自身が言っていたではないか。雪花が産み落とす子が山田浅右衛門を名乗ることは無いと。

 ぎゅっと身を縮め、そっと腹部に手を当てた。

震える腕が懐剣に触れて、小さな鈴が音をさせる。そこでやっと――やっと、雪花は詰めていた息を吐き出すように「ああっ」と小さく声をあげた。

 以前子など要らぬと、恐ろしい夢にまで見たというのに。

震えた体が落ち着けば、満ちたのは奇妙な優しさだった。


 腹に子がいる。

人の子だ。決して鬼ではなく、人の子。

「ああ、でもっ、でもっ」

 雪花はふるりふるりと首を振った。

嘉弘は子ができたことを喜ばない。ではこの子はいったいどうなる? 何より、産まれた跡取りには邪魔でしかないだろう。

 考えれば考えるほど恐ろしい気持ちになり、雪花はいてもたってもいられずに綿入れの半纏で身を包み、自らの部屋を抜け出していた。

すでに空には星がちらつき、夕焼けも終えた黄昏。夜とは言いがたいが早いともいえた刻限。


一人ではどうして良いのか判らず、誰ぞに相談したかった。

腹の内を全て打ち明け、どうしたらよいのか知恵を授けて欲しい。

ミノ……いいや、ミノは駄目だ。

 今はよそにできた子を嫌がるように言うとしても、嘉弘の子であればミノはやがては受け入れて可愛がることだろう。跡取りの後に雪花が子を産み落としたところで、むしろ歓迎はしないと思われる。

 有村であればどんな時にも手を差し出してくれようが――そう思えば、有村の姿を求めてしまった。

「ちょっ、雪花さま?」

 厨の前で女中にぶつかりかけ、雪花は詫びと共に切羽詰った声で問いかけていた。

「有村さまは?」

「え、あの。有村様でしたらもうご自身のお屋敷では?」

 それも当然――すでに夕餉の刻。もどかしさに雪花は「有村様のお屋敷はどちらですか?」と尋ねれば、相手は困惑の様相で救いを求めるように他の私用人に視線をきょろきょろと向けた。

「すみません、あたしは」

「有村様のお屋敷に使いをだしやしょうか?」

厨の料理人が包丁を手にしたまま口を挟む。

「いえ、私が――」

 呼びつけるなどとんでもない。自らが行くと口にしようとすれば、廊下を渡りミノが慌しくやってきた。

「何の騒ぎですか――って、雪花さま? どうなさいました? 旦那様がお待ちですよ。あんまりお待たせしてはいけませんよ」

 やれやれと肩をすくめたミノは、追加の酒を女中に頼み、雪花の二の腕を親しげに叩いた。

先ほどまで機嫌を悪くしていたのが嘘のように上機嫌だ。

嘉弘との話で跡取りの件を納得したのだろうか。こうなってはミノは完全に味方ではない。戸惑う雪花に、ミノはもう一度「さあさ」と促した。


心の臓が締め付けられるように痛みを訴える。

足元にある筈の地面ががらがらと音をさせて崩れ落ちていくようなおぼつかなさに、雪花は腹部に手を押し当て、ぎゅっと握りこんだ。




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