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鬼の棲む家   作者: たまさ。
41/52

7

 泣きはらした空っぽの心に、次に飛来したものは憎しみではなく、悲しみだった。

全てやつあたりでしかなく、嘉弘に罪はない。

嘉弘はあくまでも御様御用(おためしごよう)――裁可の下ったものを刀剣の試し切りの名のもとに下すのが役目。

 記された罪を覆すことなどできぬ。

それは幕府の勤めに反する行為。

理解しているのに、納得はできずにその罪を押し付ける無様な己が――汚らわしい。

 雪見窓の向こうには、ちらちらと白い雪が降るのが見えていて、すべての音をその雪が吸収してしまうかのように静まり返っていた。

白い雪が、清浄なもののようにふわふわと舞い散る様を見つめ、雪花は体内の酸素という酸素を全て吐き出すように息をついた。

 父への想いが、嘉弘への想いが薄氷に亀裂をはしらせるように身をふるわせる。


赤い、血。

ちらちらと目の端にそれを思い、心がつきりと痛んだ。

嘉弘は、やはり鬼だ。

人ではない。

――自らに降りかかる全てを泰然と受け止めることなど、人のような弱き生き物にはとうていできぬ。

他人の恨みも何もかも……

それとも、興味などないのやもしれぬ。

 気付けば嘉弘の(とこ)の内、引き寄せられて眠っていた雪花は、そっと嘉弘を起こさぬようにと体を滑らせて床を抜け出た。

 嘉弘の体温に温められていたからだが外気に触れてぶるりと振るえ泡立つ。近くにあった綿入り半纏を引き寄せ、肩へとかけると雪花はじっと嘉弘の寝顔を見つめた。


 死人のように静かに眠る男。

枕辺には無用心にも雪花の懐剣が置かれている。

それを見ると、やはりこの男は死にたいのではないだろうかと思え――悲しみが浮かんだ。

殺したいというどろどろとした感情と、何故向けた刃を避けぬのだという理不尽な憤り。

憎いと思うのに、今は――悲しい。

こんな感情を抱いて生きるくらいであれば、あの時、父が向ける刃の前で頭を垂れるべきであった。


 嘉弘がいると、心が乱れる。

信じられない程に汚い感情が自らを埋め尽くしてしまう。

今自らの心にあるのは、悲しみと、そして苛立ちと、憎しみ。

そっと手を伸ばし、雪花は嘉弘の頬に触れるか触れないかの位置で指を這わせた。指には相手の体温がにじむように感じられ、火傷をおうかのように一旦指を引っ込めた。けれど指はおずおずともう一度頬に戻り、そして、そのまま嘉弘の唇をおそるおそるなぞった。

 他の女を抱くことなど以前から承知している。

嘉弘は人を切ると血が騒いで眠れず、それを沈める為に女を求める。遊郭に幾日も逗留することもあった。だから、だから――傷つくなど、なんとおろかなことだろう。

 他の女が身篭ることを、喜べる筈であったのに。

父の仇と思いながら、それでもこんな感情を抱く自分がなんと浅ましい。なんと、愚かしい。

 このところの情緒不安定も手伝ってか、目じりにまたしても熱がこもって涙粒がつっと頬を伝い、顎に至ってぽたりと落ちた。

 我慢ができず、身を伏せて――そっと、ただそっと、はじめて自らその唇に唇で触れた。

冷たくて、薄くて、心の無い唇。

――応えてくれない、唇に。


***


 無理に笑顔を作らなければ、顔が引きつり、果てには涙が流れる。

心を空っぽにしなければ、嘉弘の子を孕んだ女はどんな人だろうと思い、その子のことまでがよぎる。ざわざわと身の内を草木が暴れるように落ち着かず、雪花は自らへの嫌悪感で一杯の数日を過ごした。

「具合が悪いのですか?」

 心配気な有村の言葉に、雪花は無理に微笑みそっと首を振ってみせた。有村に働かせて欲しいと言わなければいけないと思っているのに、未だに言葉は口をついてでない。生来の不精からか、口数も減っていた。

 有村の手がふいに頬にふれ、雪花の顔を無理に上向かせる。もともとそんな行動をとるような人ではないから、雪花は驚いて相手の瞳を見上げる格好になってしまった。

「顔色が悪い。無理せずに横になってはいかがです?」

「少し……寒さにやられたのかもしれません」

 江戸の雪はすぐに降り止み、今はもうその名残も無い。庭を見れば梅の花の蕾がふっくらとして、そろそろ春を知らせようとしている。桜も次期に咲くだろう――桜、昨年は嘉弘が花見に連れ出してくれたのだったかと思えば、またしても涙で目じりが曇りそうになり、雪花はあわてて身を引こうとした。

「雪花さん?」

 有村の手が雪花の手首を掴み、それから――苦笑した。

最近よく目にする困ったような表情に溜息。その(おもて)に、雪花はあわてて笑顔を浮かべてみせた。

「大丈夫です」

「私は貴女の師匠ですよ。何か悩みがあるのであればいくらでも聞きますよ。具合が悪いのであればお医者でも呼びましょうか?」

 本当に心配しているのだと感じる温かな言葉に、雪花は泣き笑いの顔で「ミノさんみたいですね」とまぜっかえした。

 ミノであればすぐに医者だ何だと騒ぐだろう。

「幸い、この屋敷にはたいてい医者がいますからね」

と有村は軽く言ったが、その意味を思い出してばつが悪いような表情を浮かべてみせる。

二人で困惑の表情で見つめあい、やがて雪花は腹の中のどろりとしたものを一つ、口にした。

「私……旦那様を憎んでいると言いましたね」

「そうお聞きしました」

「その相手を――好いているのかもしれないというのは、おかしなことですか?」

 だから辛い。

苦しい。

どうしてよいのか判らないのだ。

「心が欲しいと願うのは――決して望めぬものに触れたいと想うのは、私が壊れているのではないでしょうか?」

――おかしいと告げて欲しい。

おまえはおかしいのだと。そんな思いは嘘だと告げて欲しい。

雪花の願いは、けれど有村の唇から得られるものではなかった。

「だからこそ」

 有村は雪花の悲痛な言葉など何でもないことのように言った。

「私のところに来ませんか? とお尋ねしたのです。

あなたがお辛そうだから。当代と共にいることで辛いのでしたら、その全てに背を向けて、私のところに逃げていらっしゃい」

――おかしいとも、その思いは偽りだともいわずに。


 差し伸べられた手を、おずおずと取ってしまいたい気持ちになる。

優しいまなざしと言葉に戸惑いながら、どうしたものかと有村を見つめる雪花に、有村は何故か苦笑をこぼした。

「いいじゃありませんか。お辛いなら、真正面から向き合わずに背を向けてしまっても」

 言葉と同時にぐいっと引かれ、その腕の中に抱きとめられる。

驚く雪花が息を詰めると、有村は柔らかな手で優しく雪花の背を叩いた。

「可愛い弟子が泣き続けるのを見るのは辛い。

師匠の我儘と思い、どうぞこの手をおとりなさい」


 温かな体温に、男性の腕に抱かれているというのに――不安ではなく優しさだけが流れてきて、雪花は「はい」と小さくうなずいていた。

それがただの逃げだと気付いていたけれど。

一人の男としてではなく、師匠として雪花を受け入れる有村に全てをゆだねて。





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