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鬼の棲む家   作者: たまさ。
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6

 手紙の最後――生きていてくれて、うれしいとしめられたそれは、武士である千葉惣次郎の本意ではないかもしれぬが、幼い頃にぶっきらぼうに手を伸ばし「お雪」と呼んでくれた次郎のまぎれもない心であったろう。

幾度も幾度も読み返し、雪花は自らの心の臓がぎゅっと締め付けられるかのような思いを味わった。


あれほど知りたく。

またわざと無関心に見てみぬふりをしていた父の事柄が、無機質な文章で否応なしに語られる。


 父の罪状は人切りであったと。

表向きそのように処されたそれは、町人を殺めたというもので、思い返せばそのような事件は確かに聞き及んではいたものの、それと父とを結びつけて考えることはなかった。


元来生真面目な父が、人を殺めることなど考えたことも無かった。

ただ、父は生真面目が過ぎたのだ。

惣次郎が綴る文字、そこに記されたことがらは全て秘匿すべきもの。

罪は、父のものではなかったと。

一藩の武人として――跡取りの犯した罪を自ら引きかぶり、命を差し出した。

 そう、手紙には記されていた。

記されてはいなくとも、当時の父の心がありありと届いてしまう。

生真面目で実直で――厳しい父の。

残されるものが不憫で妻には自害を迫り、自害のできない我が子はその手にかけようとした。

そこまでして主命に準じたのだ。


 知りたかったことはそこにあり、知りたくなかったこととなる。

心はやけに静かで、滲んだものは寂しさだった。

ただほんの少し。ただ少し――父は死せねばならぬ程の罪を犯した訳ではないという事実に小さな息がつけただけ。

 けれども、それとは別に浮かぶ感情を、どう消化するべきか判らずにぎゅっと手の中で手紙を握りつぶした。

 そして気づけば刻限。

いつもとは多少違い、気詰まりそうに稽古をつけに来た有村の姿を認めると、雪花は丁寧に三つ指をついて頭を下げた。

 心の中に空虚な何かを抱え込み、それすら全て飲み込んで。


 その姿に有村が微苦笑を零した。

「顔をあげて下さい」

「――まだ、稽古をつけていただけるのですか?」

 何故このような稽古を求めたのか、雪花はすべて有村に告げてしまった。黒く禍々しい理由を。何より、嘉弘を殺す為のものだとなれば、それは有村にとっても心安いものではない。何といっても、有村は山田門下なのだから。

父にとって藩主が主であるなら、有村にとって嘉弘が主であろう。

「あなたがお望みならいくらでも。

私が知る私の弟子は、純粋に稽古を楽しんでいたと思いますよ」

「それはっ」

 そもそも、稽古といったところで児戯のようなものばかりで未だ本格的な訓練などかけらもしていない。

 体力をつけるのが先だとのらりくらりと流されていたのだから。

更に言葉を募らせようとしたものの、有村にその件はすんだとばかりに首を振られてしまい、雪花は消化不良を抱えたまま息をついた。

「それと……」

 それでもその話はしまいと切り上げて、雪花は三つ指をついたまま更に居住まいを正した。

有村と話さなければならないもう一つの件に関して。

「先日の件ですが」

「はい」

 有村の言葉に少しだけ緊張が走る。それを受け取り、雪花は一旦舌先で自らの唇を湿らせ、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「――御前さまによく話しあうようにといわれました。あれは……下女として私をお雇いくださるという解釈で間違いはありませんか?」

 どうぞ妾としてなどといわないで欲しいと願いながら手元を見つめて言えば、ふっと息をつく気配が上から注ぐ。

 詰めていた息をつき、ついで有村はほっとしたように笑い出した。


「雇うというか、もっと気楽な気持ちでいいのです。

住む場所の提供として――もしこちらが居づらいのであれば、どうぞ。

もし家の中を整えてくださるのであればありがたいが、何かをしてもらおうと考えている訳ではありません。先だっても言いましたでしょう? お給金はたんまりと頂いている身ですから、家族が一人二人増えたところで困りはしません」

 その言いように、やはり妻や妾という考えでは無いのだとほっと息をつき――雪花は更に頭を下げた。

「もしご厄介になるのであれば、何もせぬ訳にはいきません。

その時はどうぞ私にできることがあれば何なりと」

「まだ、心を定めている訳ではないのですね?

どうぞゆっくりと考えて下さい。返事はいつでもかまいません。それこそ――幾年先でも」


 優しく穏やかな声に後押しされ、雪花はほっと胸をなでおろした。

ここ以外に行く場所を得られるというのはなんとも心安いことだろう。今の今まで帰るべき家もなく、ただここにいるだけの身であったというのに。

 有村の心に深く感謝し、もう一度頭をさげた。

そして有村へと微笑みを向け顔をあげながら、雪花はそっと懐剣の鈴に触れた。

心を定める為に。

嘉弘と話さなければならない――それは……何よりも大事なことを。


***


 冴え冴えとした心が、ただ静かに山田浅右衛門嘉弘を見つめた。

いつもと同じ。

 風呂上りに着流しで片膝をたてて酒を呑む姿は、どこか不機嫌そうに眉を潜め、つまらなそうに写る。

部屋の四方には火鉢が置かれ、そこから立ち上るぬくみが部屋全体を温める。離れとは違い、母屋は日が落ちれば雨戸が引かれるが、嘉弘は月を好む為かこの部屋は主が眠るまで障子窓のまま、外の月明かりが透けて入る。

 嘉弘を前に、言いたいことは山とあり、けれど言葉は喉の奥で蟠る。

問わねばならぬこと。気づいてしまった心。

おそらく……雪花は目の前の嘉弘を憎しみと同じだけ好いている。それが体を結んだ故にできた情であるのか、ただの肉欲と呼ばれるものであるのかは知らぬ。

 その心が。相手の心が欲しいと思う程には――嘉弘を想うている。決して自分を見ようとしない男を。

背筋を伸ばし、ただ見つめ続ける雪花に――その場の糸を切ったのは嘉弘であった。

「どうした?」

 その言葉を合図に、雪花はずいと嘉弘ににじりより、胸元にある懐剣を袋ごと引き抜き、膝を付き合わせた前にすっと置いた。

 

ちりん――紐にくくられたまろい鈴が、鳴る。

それだけで有村に背を推してもらえるように心が落ち着いた。

 大きく息を吸い込み、腹に貯めたのは覚悟。

もう後にも下がれず、行くは前のみ。それが例え――見えない壁に突き当たり果てようとも。

「父の罪状を……ご存知でしたか?」

「俺が幾人の咎人を切るか知っているか? そのすべての罪状を知っていると?」

 淡々と返される言葉に、雪花は懐剣を伏せた半眼で見つめながらもう一度問いかけた。

「ご存知でしたか?」

「知っている」

「では……冤罪であることも?」


 冤罪というべきか。

父にも確かに罪があった。どのような場でもその罪を認め、申し立てたことだろう。

――人殺しの罪を。

 偽りの罪状を言い続けたという罪。

 厳格で実直な父らしく、ただ静かに罪を認め続けただろう。

藩の御取り潰しを免れる為に。

ただひたすら主君の為に。

新しい刀の切れ味を試す為と罪の無い人々を切り殺した次期藩主の為に。

自らの命、妻の命――子の命すら投げ出して。

 嘉弘は猪口の透明な酒に中指を浸し、口元を緩めるようにして息をついた。


「――」


 返答はなかった。

だが、それが回答であることは判ってしまった。

 頭の中に黒いもやがかかるように血の気がひき、雪花は唇をゆがめて笑った。

口腔が乾き、言葉が喉の奥で引っかかる。

嘉弘の口元から、つまらなそうに落ちた吐息。

けれどその内容は雪花にとってどれ程に重いものであったであろうか。

今の今まで、嘉弘が人を殺めることはせんないことと心の深い場所で納得していたものを、今はそれが決壊し、逆流するように自らを震わせた。

「人、殺しっ」

「そうだ」

「罪人ではないのに。父上さまは咎人では無いと知っていたのに殺したの?」

「そうだ」

 その言葉に一旦冷えた血の気があがり、かぁっと体中の熱が更にあがっていく。

目の前が真っ赤にかわり、息をつくことすら難しい程に怒りが溢れた。

「鬼っ。あなたはっ、あなたは鬼だっ」

「そうだ」

 雪花の(なじ)る言葉を、嘉弘は淡々と返す。

その言葉に反省は無く、慟哭も無く、そして悔いも無い。

憤りと激しい怒りとが湧き上がり、雪花は左手で懐剣を包む絹袋をつかみ、右手でぎこちなく紐を解き――やがて現れた漆の塚を引っつかみ、そのまま力任せに振り上げた。

 ただ静かに酒を飲む嘉弘に。


 その体は懐剣をよけるしぐさ一つもせずに、ただ変わらず猪口を持ち、雪花を突き放すでなくさえぎるでなく、ただ懐剣が振り下ろされるままに任せる。

 雪花の勢いなど完全に無視し、嘉弘は口元にゆるい笑みさえ浮かべてみせる。

振り上げた手に込められた力が無残に散りゆき、刃は嘉弘の胸元を掠め――それでも尚鋭い切っ先は滑るように着流しの表面を裂いた。

「っっっ馬鹿っ」

 軽くぶつかる感触は皮膚をそぐことはあれども、その奥深く骨に当たるそぶりもなく過ぎる。

何故なら、懐剣は雪花の手を離れ、とすりと――嘉弘の太ももをなぞりあげて落ち、倒れた。

 いつもそうだった。

他人の刀は避けるというのに、嘉弘は決して雪花の切っ先を避けることはしないのだ。

嘉弘の長い髪の一筋が懐剣に触れてはらりと落ちる。

 胸と足との着物を傷つけ、にじんだ僅かな血に息があがり、雪花の力はすとんと抜けた。


 赤い、血が――わずかといえども自らが傷つけたその傷が、全身の力を奪い去り恐怖が足元から這い登る。

「どう……して」

 滲む血に伸びる手はふるえ、混乱に歯がかみ合わずがちがちと音をたてた。


――血が、赤い。

人と同じように、赤い、血。

鬼であればよかった。鬼であって欲しかった。

だのに……流れる血は、人と同じ赤い、命。

 子供のようにわぁと泣き出した雪花の腰を引き寄せ、嘉弘は自分の腕の中で固く抱きしめ、その唇から溢れる嗚咽と動揺を漏らさぬように、唇で覆い尽くした。


雪花のふるえと、涙と、嗚咽が失われ――そのまま泥のように眠りに落ちるまで。



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