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鬼の棲む家   作者: たまさ。
38/52

4

 心は静かだった。

自らの暗い感情を吐露するには、良い夜だった。

ぱたりと落ちた手は、膝の上の一欠けらの饅頭に触れた。

 部屋を満たすのは時折はぜる火鉢の炭と、しゅんしゅんと穏やかな音と湯気とを吐き出す鉄瓶。

障子から透ける月明かり。

一旦吐き出した安堵感か、今度はするりと言葉は口をついた。

「でも……判っているのです。

山田浅右衛門が仇と思うのは、本当は間違いだと。何故なら、父は罪びとだから。

父は死せねばならぬ罪を犯したのだから。ただ、誰かを憎まねば生きてはいけなかった。一番近い人を憎もうとしただけなのです」

 淡々と言葉を落としながら、またみっともなくも眦に涙が浮かぶのを感じた。恥じ入って「忘れてください」と言えれば良かったのであろうが、その時の雪花は胸内にあるどろりとしたものを清浄な空気をもつ有村に紐解いて欲しかった。

 それでも生来の臆病さで、相手の眼差しを受け止めることができずに、ただ静かに自らの膝を見つめ続ける。

「当代を、今も殺したいと思っていますか?」

やがて落とされた穏やかな言葉に、ゆるりと首を振った。

「……判りません。

時々、とても憎いような気持ちが湧き上がることがあります。実際に、あの人に刃を向けたこともあるのです――でも、できなかった」

 刃を向けることが恐ろしく、人を殺めてしまうかと思うのが恐ろしく、本当にそれでいいのかと思うのが恐ろしい。

 人一人を殺めることがこれほどに恐ろしいというのに、あの人はそれを生業としていると思うことすらも恐ろしいのだ。

「人を、殺めるのは簡単なことなんですよ。

でも――それをすることは容易くない。それでいいんです」

 師匠の顔で穏やかに言い、やがて小さく息をついた有村は自分の手にある饅頭を食べつくすと、身を伏せ、覗き込むようにして雪花と瞳を合わせた。


「お辛いことは無いですか?」

 もう一度同じ問いかけ。

おそらく、夕刻に泣いていた理由を。

喉元を競りあがった言葉は「隠し子」という単語だった。

何が辛いのか――ただただ、嘉弘に隠し子がいるという話が、辛いのだ。

 けれど、それを言葉にすることはできかねた。

一旦口を開きかけ、雪花は泣き笑いの顔でゆるゆると首を振った。

「いいえ――ご心配をおかけしました」

 それを見つめた有村は、雪花の膝に残る饅頭の欠片をひょいとつまみあげ、雪花の口元にいざなった。

 意味が判らずに小首をかしげる雪花の唇に饅頭片をそっとあてがい、その唇が開くに任せて口腔におしやる。

 驚きながら瞳を瞬く雪花に、有村は困ったような顔をした。

「雪花さん」

「はい?」

「――ここにいるのがお辛いなら、私のところに来ますか?」


***


 ちくりと針先が指をつき、その痛みに小さな声が漏れた。

以前はこんなときに声の一つも出なかったというのに、声を取り戻せばこんなことすら容易い。

 ぷくりと盛り上がる血の粒を口に含み、雪花はぼんやりとしてしまう自分を恥じ入った。

 有村の言葉が耳から離れない。

ここにいるのが辛いなら……そも、ここが嫌なのか。

そろりと部屋を見回せば、もう住み慣れた離れ二間続きの平屋で、母屋とは渡り廊下で繋がっている。離れは奥まり、人の声もあまりしないが、庭に出れば池を挟んで反対側にある道場の喧騒がもれ聞こえる程度。

 昼間の客人といえば吉次と有村。ミノが定番で――幾度か名白が茶を所望に来ていたが、その名白も今は陸奥。

 自分のうちの暗い想いを有村に吐き出せば、ほんの少しばかり気が晴れた。だが、逆に自らを戸惑わせる問題が発生してしまったのも事実だ。


――私のところに来ますか?

 有村の家に行く。

自分に何ができるだろう。

手習いならば多少。花を飾り、着物を仕立てることはできる。だが厨仕事はできぬし、風呂の用意もしたことが無い。部屋の掃除もあまりしていないが、それくらいはなんとか。

 下女としての働きがどれ程できるか知れぬが――果たして有村は下女を求めているのだろうか。

 あの後、有村は更に困ったように息をつき「考えておいてください」と出ていってしまったが、あのように困った(おもて)をみせるくらいなのだからあまり人手が足りないということも無いだろうに。

 それでも不憫と気に掛けてくれたのであれば申し訳無い。


 嘉弘は――どう思うのだろう。

鳥篭の鳥のようにこの屋敷にとらわれている気持ちになっていたが、考えてみれば自分がいることは迷惑なことだろう。

 行くあてがあるのであれば、出たほうが良い。

嘉弘に雪花を養ういわれなど無いのだから。

勿論――有村にも。

だが、身の置き場のないこの身、有村の家で働かせてもらえるのであれば、それは良いことではあるまいか。

「雪花や」

 突然の声に、またしても針先が指をついた。

小さな悲鳴を飲み込み、相手に気取られぬように端布で指先をこするようにして押さえると、雪花は少しばかり引きつるような笑みを浮かべて見せた。

 さすがに冬。夏のように開け放しにはされていない障子を開き、ひょこりと顔を出した好々爺はいつものように手土産の包みを軽く持ち上げた。

「寒いのぉ。あっつい茶を入れておくれ」

 こくりとうなずき、持っていた半纏を脇にどかすと、茶道具を整えた。

当然のように三つ用意しかけて、ふと吉次の後ろに有村の姿が無いことに気づいた。

「有村さまは」

「あやつは道場じゃよ。なにやら忙しいとか言うてな」

 それは珍しい。

だが、吉次に相談するには丁度良い。

雪花は吉次と自らの分の茶を入れ、吉次が人心地ついた頃合を見計らい、おずおずと声を掛けた。

「御前さま」

このように改まって言葉を操るのも珍しい。僅かにかすれるような声をやっと出せば、吉次はすぐに返した。

「おじい様がよいのー」

 ぴしゃりと切るような言葉に苦笑で応える。

「おじい様。少しご相談がございます」

「んん? なんじゃ。何でも言うてごらん。何か欲しいものがあるか? どこぞに遠出してみたいかな? 温泉などもよいな。このじじが付き合うてやろうか」

 うれしそうに言われる言葉に微笑み、雪花は軽く首を振った。


「有村さまがこの離れを出て有村さまの家に来ないかとお誘い下さいました。いつまでもここにお世話になるのも難でございますし、有村さまに下女が必要であればお世話になろうかとも思います。どう思われますか?」

 声をかけてはくれたものの、本当は必要ではないかもしれない。

暗い気持ちばかりを抱えてしまうここにいるよりも、有村の屋敷で働くほうがずっと良い。

胸の奥でうずくような奇妙な痛みを更に追いやり、なんとか結論づけようとする雪花の顔をじっと見つめ、吉次は眉を潜めた。

「もう一度言ってくれんか?

有村が……何と言ったって?」

 やはり人手は本当は足りているのだろうか?

「私のところに来ますか、と」

戸惑いながら応えると、吉次はふかぶかと溜息を吐き出してつぶやいた。


「阿呆やー」 


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