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口付けを――されるのかと、思った。
雪花は突然思った事柄に恥じ入り、慌てて有村の腕の中から逃れた。
「え、あの……」
自らの所作に取り繕うように言葉は口から出たが、どう言えば失礼にならないのかが判らない。何か言い訳をしなければいけないような、だがそれは不自然ではあるまいかと慌てる雪花であったが、
「どうかしましたか?」
すぐにおだやかないつもの有村の声を向けられ、更に羞恥が湧き上がる。
有村が自分に対してそのような行動を取るなどありえない。では、それは自らの願望であろうか? そこまで思い、それも違うと慌てて撤回する始末。
自分にとって有村といえば、師匠であり優しい父のような存在。その相手を辱めるなどなんと愚かなのだろうか。
「ご、めんなさい」
「泣いてるのは何故ですか?」
もう一度ゆるりと問われ、ああ自分は泣いていたのだと思い出す。思い出せば、その感情は微妙に腹の内でわだかまってしまった。
そう、泣いていた。
嘉弘に隠し子がいるという話に。
涙があふれ、心が冷えた。
嘉弘がその子を引き取り山田浅右衛門を継がすという。
だが、そんなことを有村に言ってどうするのだ。何より――何故、自分はそれが悲しいのだろうか。
あの感情はいったい何だというのだろう。
身が引き裂かれるような痛み。血の気が音をたてる程に下がり、感情がぶわりと鼓を断ち切るようにあふれ出した。
自分はいったい何に対してあれ程に心を揺さぶられてしまったのであろう。
「誰かに苛められでもしましたか?」
「いえ、いいえ」
ふるふると小さく首を振り、雪花はとってつけたように歪んだ笑みを浮かべてみせた。
「ごめんなさい。少し足が痛く――」
言葉は途中で宙に浮いた。
足が痛いと言った途端、有村が身をぐんっと沈めて雪花を横抱きに抱き上げたのだ。あまりのことに悲鳴をあげそうになり、ぐっと奥歯をかみ締めた。
「肩におつかまりなさい。安定するから」
「有村さまっ」
「部屋まで運んで差し上げますよ。今日の稽古の時に痛めたのですか? そういうことは先に言って頂かないと」
やけに明るい口調で言う有村が身を翻して歩き始めると、その騒ぎを聞きつけてミノが足早に駆け寄り「まあまあ、なんですか」と憤慨の声をあげた。
「ミノさん、雪花さんの部屋に床を用意してさしあげて下さい。どうも足が痛いとおっしゃる」
「だからって殿方が女人を抱き上げて運ぶなんていけません。雪花様を下ろして下さいな。あとはあたしが引き受けますから」
「いえいえ、大丈――」
大丈夫、と断りの言葉を告げる有村をさえぎったのは、やはり騒ぎを耳に入れたのか、風呂上りの嘉弘であった。
未だ乾かぬ髪を後ろに流した嘉弘は「かまわん。ミノ、有村に任せろ」と端的に言うと自分はさっさと自らの部屋に引き戻る。
ミノは不満顔であったが、主の言葉には逆らおうとせずに身を引き、有村の先導をするように離れへと歩き出した。
――やはり……
ふと、雪花の胸に飛来したのは確かに寂しさであった。
たとえ雪花が誰ぞの腕の中にあったところで、嘉弘は気にも掛けぬのだ。
そう思った途端、苦笑が落ちて雪花は身を伏せた。
これではまるで――気に掛けて欲しいかのようではないか。
***
雪見窓から入り込む青白い月明かりと、火鉢のほのかな赤みとが部屋のすべてだった。
ミノが整えた床に膝を抱えるようにして座る雪花の肩には綿入りの半纏。普段であれば一つだけの火鉢は、冬の夜は部屋を温める為に三つは置かれる。
床の中には陶器の湯たんぽ。
何から何まで贅沢に過ごさせてもらっている――それが、妾という立場であるからか、それとも山田の屋敷では使用人のすべてが似たような生活であるのかは知れぬ。
足が痛いと迂闊に言ってしまった為、ミノは医者を呼ぶと言い張ったが、さすがに慌ててそれは事態した。おかげでミノの手で足首に湿布を巻かれてしまったが、ジワジワと染みるようで今はそれを剥がしてしまった。
あのあと、床の上に雪花をおろした有村はミノによって早々に追い出された。
だから今は離れに一人。
ぽつりと一人きり。
すると頭に浮かぶのは、自らの心をかき乱した厨の声。
――嘉弘に隠し子。
今までそんな話が無かったことのほうがおかしい程で、動揺するのが間違いだろう。
身を丸めて、自分の心を落ち着かせようと雪花はゆっくりと呼吸を繰り返した。
何故あんなにも涙が出たのだろう。
何故……辛かったのだ。
心が鋭い切っ先で引き裂かれたかのように。
裏切られたかのように感じてしまった。
なんと滑稽なことだろう。
裏切るとは何だ。自分と嘉弘との間に何がある――自分は嘉弘を……憎んでいる筈だ。憎み、憎まれる間柄に裏切られるなどというものは無い。
父を殺され、この身を苛まされる恨みを抱き、嘉弘を殺めてしまいたい程の感情を抱いている筈で。そして、嘉弘は……ただ、ただ、
「どう思っているというの?」
あの男は、自分をどう思っているのだろう。
憎んでいる訳では無いだろう。
憎む理由が無い。
蔑む? 煩う?
嘉弘が自分を抱くのは――ただの衝動か。
頭の中が煮えたぎり、おかしくなってしまいそうだ。
自分は――つっと涙がもりあがり、頬を伝い、顎先にたまり、ぽたりと落ちた。
何故、こんなにも辛いのだろう。
嗚咽を押し殺して膝を抱え込む腕の中に顔を押し込むようにして更に身を丸めると、小さな囁きが入り込む。
「……さん」
そっと小さく、けれど確かに。
慌てて顔をあげ、辺りを見回した雪花は左手の庭に面した雪見窓のある部屋の障子を手を伸ばしてそっとずらした。すると、隣の部屋――庭に面する障子に大きな手がとんとんっとその表層を叩くようにするのを見た。
慌ててぐいと涙をふき、綿入り半纏を胸元であわせるようにして「有村さま?」と信じられぬ気持ちで問えば、庭に面した障子が開く。
「遅い時刻にすみません。失礼は承知ですが……少しあがって構いませんか?」
穏やかな言葉に、雪花は慌てて布団の上から立ち上がり「どうぞ」と応えていたが、夜も宵――隣の部屋に床の延べられた部屋に男を招くなど、後で考えれば褒められたことではない。
だが突然の来訪に慌てていた雪花はそんなことすら考えず、床にある火鉢を一つ移動させ、元からある火鉢に火を移した。
「そろそろ雪が降りそうですよ」
有村が言いながら、火鉢のぬくもりを求めるように手をかざす。その手には饅頭の包みが一つ。
「ふかし饅頭。食べましょ?」
はいと手渡されたそれは、冷えた指先がじんじんと痛むほどに温かい。雪花は先ほどまで泣いていたことすら忘れ、思わず笑んだ。
火鉢の上に鉄瓶を置き、その中の水がしゅんしゅんと音をさせるのを聞きながら二人でふかし饅頭を食べる姿は誰が見てもおかしかろう。食べている当人である雪花も滑稽に思え、口元を緩ませた。
「雪花さん」
「はい」
「何か、おつらいことでもありますか?」
饅頭が残り半欠――穏やかに掛けられる問いかけに、雪花は素直な気持ちでその瞳を見つめた。
心臓が早鐘を打ち鳴らし、耳朶の血流さえも感じられるほどに神経が張り詰める。
いったん口を開き、そして閉ざしと繰り返す雪花に、有村はそっと自らの手の平を差し出し、雪花はおずおずとその手を左手に受け、残りの饅頭を膝に置き、右手の人差し指でそっと文字を綴った。
言葉を封じたあの頃のように。
使い慣れた自らの言葉を。
「有村さま、私が有村さまに稽古をつけてもらっているのは――
本当は、父の仇をうちたいと願ったからなのです」
父の仇……父を殺した、山田浅右衛門を。