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鬼の棲む家   作者: たまさ。
35/52

1

 曇天――確か、そのように言うのだと、いつだったか教えてくれたのは誰だったであろうか。

 うす曇が一面にたちこめる空は重く低く、ほぅっと息を吐き出せば、それは白い湯気へと転じていく。

初雪こそまだ降り始めてはいないが、その声もやがてそう遠くない頃合に耳に届くことだろう。

苔の生した地面の所々に亀裂が走り、霜柱がざくりざくりと音をさせ、庭に植えられている寒椿の蕾がふっくらとふくらみ、そして――


「母上」


ふるりと身を震わせた雪花へと、簡素な道着に木刀を下げた元服前の少年は、楽しげにそう口にした。


***


 激しい耳鳴りが雪花の身を貫き、息をすることすら困難になる程の混乱に眩暈がした。

玉砂利を蹴散らしていた足が止まり、振り返ったのは自分の意思であったのか。それとも、何か別のものであったのか。

 雪花はまるで自分のこととは思えぬその動きを、どこか遠い場所で感じていた。

「おまえの父が何故死ななければならなかったのか、考えたことはあるのか?」

突然現れた千葉惣次郎は荒げていた声音を和らげ、もう一度問いかけた。

「父君が今のおまえを見て喜ぶと思うのか」

 いったい、この男は何を言うのだろうか。

雪花はまじまじと相手を見返し、喉元へと競りあがる引きつれるような笑いを感じていた。


――父の望みならば知っている。

父は、母に自害を求め、そして、雪花へはその白刃を向けた。

今の雪花の現状を一番嘆くものがあるとすれば、それはおそらく誰でないその父であろう。今はこの世にいない。山田浅右衛門によってその命を屠られた父。

 自らの手で殺すことのできなかった娘が、自らを手がけた男の妾として生きている。そんなことを喜ぶものなどいよう筈がない。

 だが、それを指摘してどうだというのだ。

いまさら、何かが変わるのか。あの時、何もかもを失った小娘に何ができたというのか。

ただ惰性で流されていた後ろ暗さが後押しするように、雪花は耳に熱を感じつつも何事かを言いかえそうと口を開きかけたが――その時、憤りであがる体温を諌めるように、とんっとその肩に手が触れた。

「どこの誰だか知らんが、うちの娘に何の用だい」

 どこか飄々とした口調は確かに名白(なしろ)のもので、その声を自らの背に聞いた雪花は何故か突如として羞恥を覚えた。

 先ほど胸に膨れ上がったのは、おそらく身勝手で理不尽なものなのだ。

千葉の家には千葉の家の事情があり、またそれは雪花にも理解のできる事柄であった。武家とは、そういうものなのだ。

 汚名に塗れた家の娘など嫁にできる訳もなく、たとえそれが年端も行かぬ娘といえど軽々しく手を差し伸べることもできない。千葉の家に背を向けられたその時に、雪花は理解していた筈だ。相手を恨んだ気持ちが多少あったとしても、そのことを引きずっていたことはない。


そう、思い込んでいただけ。

もう二度と会いたくなど無かった。

ましてや――その口から正論など聞きたくもない。

そう思ってしまう自分が、たいそう醜く思えて、身がぎゅっと固く縮こまる。自分のこの気持ちはなんと浅ましい。

 あげく、そんなみっともない自分を名白に見られるなど。

「私は――」

 躊躇をにじませつつも、面前の惣次郎が口を開いた。

だが、名白は面前の男など知らぬ気に、ふいに雪花の肩を二度軽く叩き、雪花の体の向きをくるりとひっくりかえして「雪や、ケチがついた。帰って、茶を入れてくれ」と雪花を抱え込んだ。

 カビの匂いと抹香の香りとが雪花を包み込み、その事柄に面食らう雪花に、先ほどまでは正面にいた惣次郎が今となっては後ろ手であわてて声を荒げたが、名白はそれをさえぎるように飄々と制した。

「おまいさんが誰だろうと知らんが、うちの娘を泣かす権利などありはせん。俺の居合いも鈍っちゃいるが、お前ごとき切れぬ程なまくらにもなってない。坊主と言っても生臭坊主。それ以上一言でも喋ろうもんなら――俺の隠し刀を見る羽目になるぞ」

 がしゃりと錫杖を打ち鳴らして威嚇した言葉はその場を支配し、名白はゆったりとした様子で雪花を連れ、寺の石階段を下った。

 温かで大きな手が雪花の二の腕を掴み歩んでいくが、やがて足をとめてその手も離れた。

「よけいな真似であったかな」

「いえ……いいえ」


 一瞬、あのまま惣次郎と二人でいたならば何があったのだろうかと雪花は考えた。

柄にも無く怒鳴り声をあげていたか、泣き叫んでいたものか――いいやしかし、父の罪について知ることができたのかもしれない。

 つきりと胸が痛みをにじませ、雪花は視線を伏せた。


知りたい。

そしてまた、知りたくない。

藩に追われるなど並大抵のことではなく。妻に自害を迫り、娘すら手にかけようとしたならば更にその罪は大きなものであろうと思われる。


 知りたい。

そしてまた、知りたくない。

二つの感情がせめぎあい、自らのうちで煮えきらぬ。

父の罪を知った時、もしかしたら自分は――自分の命があることを嫌悪するかもしれない。そしてまた、もしや更に……山田浅右衛門へと殺意をくすぶらせるのかもしれない。


 雪花は無意識にそっと、自らの帯へと差し込まれている懐剣に触れた。


――ちりんとまろい鈴が鳴る。




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