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ぷつりと犬歯で糸を切り、雪花は糸の残る針を針山へと突き刺した。
昼間の間にすることといえば、有村との稽古とは名ばかりの児戯を終えれば雪花のできることなどたかが知れている。
時にはこっそりと自分の部屋として自由に使うことの許されている離れを軽く掃除することもあるが、それをミノに見咎められると叱責を受けることとなるし、以前「役割を果たしていない」と下女が叱られたとも聞く。だから自然と雪花は自分に許された範囲のことに対して、随分と腕をあげることとなってしまっていた。
「やぁ、うまいものだね」
縫い目のそろった羽織の布地を、確認するように手のひらでなぞっているところで声を向けられ、雪花は驚いて尻を浮かせそうになった。
縁側の日当たりの良い場でのこと、縫い道具と冷めた茶を並べて黙々と縫い上げていた羽織を、無遠慮にぐっと握ったのは、突然のことに何かすがるものを求めた為だ。
「名白、様」
相変わらずくたびれた袈裟姿に錫杖を持っている名白は、それまで気配ひとつ滲ませてやいなったというのに、がしゃりとわざわざ錫杖の先端に通された遊環を打ち鳴らした。
人の良さそうな笑みを称え、無遠慮に縁側に座る。
突然の来訪もすでに幾度目か。さすがに慣れてきてはいたつもりでも、このように足元もしのばせて来られると、元来人を苦手としている雪花にとって喜ばしいことではない。
「嘉弘は良い嫁子をもったものだ」
その言葉に、雪花はとくとくと未だ早鐘を打ち鳴らす胸元に手を当てて、どう応えればよいものかと逡巡した。
――いいえ、わたくしは妾にございます。
「だが。雪ちゃん……私は未だに納得しきれていないのだが。あんたは納得できているのか?」
雪花がどう伝えれば良いものだろうと眉間に皺を作っていると、視線を羽織へと向けたままの名白が重苦しい口調でそう口火を切った。
「まだあんたは年若い――義弘と一緒になってまだ一年にもなっていないとミノなどはいっていたが」
名白としてもどうやら気の進まない話題であるのだろう、重苦しく低い口調で落としていた言葉が、やがて深い溜息でかき消された。
「いや……女子に言うようなことではあるまいな。夫婦の定めたことであるなら口を出すのも野暮というものだ」
勝手に話題を振り、勝手に自己完結した名白は肩を上下させて落としていた視線を上げると、にっこりと笑んでみせた。
「気晴らしに外にでんかね?」
「……」
あけすけな程の笑顔は吉次に通じるものがあるが、この面前の人物が嘉弘の父親であるという現実は、雪花にとって受け入れがたいものであった。
嘉弘も時折笑みらしきものを浮かべることがあったが、それは雪花の知る限り到底穏やかなものではない。
唇を薄く引き延ばし、ただ口角を引き上げるようにして示す笑みはむしろ恐ろしさを感じさせ、雪花の背に寒いものを走らせる。
この父と、そしてあの祖父を持ち――何ゆえ嘉弘はあのような冷淡な男に育ったのであろうか。
「雪ちゃん?」
「お供、させていただきます」
雪花は膝の上の羽織を一度撫で、そっと小さく応えた。
外に出るのは好きではない。
まったく知らぬ市井の人たちを見ると、未だに動悸が襲い掛かる。
それがただの被害妄想であることは理解している。誰も雪花のことなど知らぬし、少しも気にかけてなどいる訳がない。
有村に連れ出された時も、嘉弘に散歩だと連れまわされた時にしても、誰も雪花を笑うものなどいなかった筈だ。
それでも外に出ると思えば身の内が冷える。
ただ――このままでいて良い訳が無いのだと、雪花にも判っていた。
***
屋敷の裏門から出て、目抜き通りを歩く。
居並ぶ店店の間口は狭いが、それは税の取り決めによるもので、店の奥は長く広く作られているのが主だ。
そんな中、やはり山田の屋敷といえば破格の造りをしている。税など気にもかけていないという作りは、すでに一区間使う勢いであり、雪花としても最近やっと山田浅右衛門が他から抜きん出ているものだと理解し始めていた。
雪花は名白の半歩後ろを歩き、そして名白の足元を見るようにして周りの人々から意識を切り離そうとした。
「まったく江戸は人ばかりで頂けない。先だって陸奥のほうに足を運んだが、城下町の人間がこの有様を見たら腰を抜かすだろうなぁ。あちらは純朴で、優しくて人がいい。逗留先の子せがれは多少固いところがあるが、良い若者だった」
がしゃりがしゃりと遊環を鳴らし、カカと笑う名白は、それでも雪花の歩調に合わせてゆっくりと歩き――やがて彼が雪花を伴って訪れた場といえば、墓である。
「……」
長く続く石組みの階段を渡り、どしりと構えた寺門を潜り抜けた先、それは春に嘉弘が雪花をつれて訪れたあの墓であった。
「大きな声ではいえぬが、ここにな、私の墓がある」
まるで冗談や秘密の話でも打ち明けるように、身をかがめてこっそりと囁いた名白の言葉に、雪花は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、ついで――小さく笑みを浮かべた。
「存じ上げてございます。枝垂れ桜の下にある、囲いのあるお墓でございますね?」
「なんだ、知っていたか」
「一度、旦那様が連れてきてくださいました」
まさか親子そろって同じ場所に連れて来てくれるとは思いもしなかった雪花だ。
あげくそれをさも秘密めかして言う名白がおかしく、雪花は久しぶりに声を出して笑い、その様子に名白は面喰らったように片眉を跳ね上げ、同じく笑った。
「中身の無い墓だが、時折のぞきに来る。なんとなしに放っておくのが忍びなくてな」
生前に墓を造るのは未だ珍しい事柄で、世俗に馴染んでいるものではない上に、この嘉継の墓に至って言えば、嘉継の意思とは無縁に造られたものであった。
「本堂に挨拶してくるから、先に行っていてくれ」
名白は雪花に気安くそうつげ、雪花は外で一人ということに不安を覚えはしたものの、ここは人が多くいる場ではないと心を落ち着かせ、うなずいた。
もともと名白の墓がおかれているのは、本堂からそう離れた場でもなく、本堂の砂利道には作務衣姿の見習いが竹箒をゆったりと動かしている。
雪花は途中、野にある花を摘んでよいものかと小僧に勇気をもって問いかけ、許された場の花を幾つか手折り、抱えて墓へと足を向けた。
中に人が入っていなかろうと、墓参りは墓参り。
以前来た時はそれは見事な枝垂桜が場を華やかにしてくれたものだが、今はそれもないだろう。雪花は摘んだばかりの花の花弁をそっとなぞり、心のうちで父母に祈るように参ろうと定めた。
彼等の墓は――おそらく無いのであろうから。
「雪」
しんみりとした心持であった雪花は、玉石を蹴散らすようにして足を止めた。
「雪花だろう?」
その名を呼びかける者がいるなど、ほんの少しも予想だにしていなかった雪花は、ざかざかと近づく男の存在に瞳を見開いた。
あまりの驚愕に手折ったばかりの花が、その場に散ることにも気づかずに。