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庭の片隅に棒切れでつっと線を引く有村に、雪花はぽつりと問いかけた。
「先代のことですか?」
「はい。亡くなったものとばかり」
口を利くようになったものの、未だぎこちなくぽつりぽつりとしか言葉を操ろうとしない雪花の言葉は、唐突ですらある。
それをきちんと拾い上げ、有村は二本目の線を引いて棒切れを近くにほうった。
ぱんぱんと手を打ち鳴らし、手についた砂を落とすかのような仕草をして、ついでその手を雪花へとむける。
それを合図として有村の立つ庭先に向かい、雪花はその手を取った。
「先代が出奔したのは、かれこれ……五年か六年か」
有村は雪花に線の場所に立つように示し、自分ももう片方の線に立つ。以前の円の中の鬼事と似たように感じで説明し、手ぬぐいを取り出してその端を雪花の手に握らせ、そして自らも反対側を握った。
「力の強弱をつけて、相手を動かしてみましょう。
雪花さんはとにかく体力をつけなくてはいけませんからね。
足は動かしてはいけませんよ。足が動いたほうが負けです――先代は、時折訪れてはおりましたが、離れを訪れることは無かったので顔を合わせることは無かったのでしょうね」
話の合間に本日の訓練という名の児戯を説明し、微笑んだ。
「まずは力いっぱい引いてみて下さい」
雪花はなかなか剣の稽古に移らないことに苛立ちを覚えながらも、この日々の稽古という気晴らしに慰められていることも事実だった。
「先代がこの屋敷を出たのは本当に唐突なことで、手紙ひとつ残して出ていかれたものだから御前が『あやつは死んだものとする』とさっさと墓までしつらえたのです」
先代のことを語りながらも、軽く強弱をつけて雪花の力に拮抗させる。雪花は自らの体制を崩されないように力を合わせながら、時折なんとか有村を動かすことはできないものかと紐を緩めたり引いたりと悪戦苦闘してしまう。
下らぬ児戯だとは思うものの、それでもやはり自分の腕の力が多少はついている気にはなる。真剣に励む雪花を楽しそうに眺めながら、有村は先代山田浅右衛門嘉継のことをぽつりぽつりと口にしてくれた。
「何故、お坊様に」
「そのような心境であった、ということだと思いますよ」
ふっ、と有村が手元の紐を緩めたことに雪花は慌てて身を堅くした。足は動かすまいと力を込めれば、逆に上半身がぐらりと揺らぐ。その肩を支えるように有村は紐を持つ手とは違う左手を伸ばし、がしりと強く雪花を支えた。
「一度、先代と話したことがあります」
有村が雪花をその腕に抱きとめ、ただ静かに語りかけた言葉が雪花の中で幾度もこだました。
「もう部屋が満ちてしまって窮屈すぎる」
嘉継――今は名白と名乗っているあの人が言ったのだと。
一人殺めたおりに、枕辺で一人の人が立った。
人の命とはげに重きものなりと――ならば重々受け止め、夜にはひとつまたひとつとその業を受け止めようと。
だが気づけば部屋には収まらぬ程のものが立ち、背に掛かる重さに耐え切れぬ。
ある夜とうとう、部屋の窮屈さに苦笑が漏れた。
「仕方なし、なれば共に外に行こうか」
そうして気づいた時には出家していたのだと。
「先代は以来あまりこの屋敷には近づかなかったのですが」
そっと雪花の肩から手を離し、有村は苦笑した。
「強い方でしたが――私の知る限り、一番強いのは御前なのでしょう」
飄々とした吉次が一番強い。
そう有村は評したものだが、では嘉弘は――山田浅右衛門嘉弘は強いのか、弱いのであろうか。そう、問いかけることを雪花は躊躇した。
「当代は」
その躊躇を見透かすように、有村は小さく微笑を落とし、まるきり独り言のようにつぶやいた。
「未だ子供なのです」
雪花にとって、まるで天と地とがひっくり返るのではないかという連続であった。
嘉弘の心を思い、辛かろうという名白。
嘉弘を子供だという有村。
そんなことを今の今まで考えたこともない。
嘉弘の――鬼の心など考えるなど馬鹿らしいとさえ思っていたのだ。
そも、嘉弘に心――その心根。
雪花の内でぐるぐると巡る思いが、帰宅した嘉弘の前でぽつりと落ちた。
「旦那様は、お辛いのですか?」
差し出された猪口に酒を注ぎ足し、咄嗟に出てしまった言葉。驚いた様子の嘉弘と、そして自分の言葉に驚いた雪花はお互いに視線を合わせた。
雪花が真っ向から嘉弘の面立ちを見ることは滅多に無いことで、雪花は有村の口にした「子供」という言葉を打ち消した。
視界に飛び込んだ嘉弘は、今はいつもの通り頭の後ろで結い上げた髪を解き、背に流している。その黒い艶やかな髪に縁取られる輪郭にも、目元にも子供らしい甘さなど一切存在していない。
切れ長の眼差しは厳しく、薄い口元を更に薄く引き結び、口角をあげるようにして笑みの形を示す。
「何をもって辛いという」
「申し訳、ありません。あの、機嫌が……お悪いように思いましたから」
なんとも情けない言い訳か。
雪花が動揺に視線をそらせようとすると、嘉弘は猪口をかたりと盆に乗せ――その淡くにごる酒に人差し指を浸した。
「機嫌は良い――いや、どうであろうな」
くっと喉の奥で笑いながら、嘉弘は雪花の顎を掴みあげて濡れた指先でその唇をたどった。
ぬるい酒の香りと強い酒精とが雪花の口の中に滴り、雪花は身を震わせた。
自分の軽率さが相手の怒りを買ったのであろうかと怯えが滲んだが、しかし嘉弘は雪花の唇をゆっくりと指先でなぞり、唇の間に指を潜ませていきながら、まるで猫のように喉を鳴らして囁いた。
「悪くはない」
言葉の通り、嘉弘の不機嫌はその日以来霧散した。