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嘉弘の機嫌が悪い。
元より機嫌など良いのか悪いのか判りようの無い男であるが、このところの嘉弘の機嫌は最悪の部類に値する。
秋も半ば、あの日嘉弘に用があると訪れた坊主が来訪して以来、千住平河町にある山田浅右衛門の屋敷の主は、毎日という訳ではないが帰宅するようになった。
――坊主と嘉弘の話とやらは夜半遅くまで続き、その日は雪花が嘉弘に呼ばれることは無かった。
だが、それ以降は戻れば決まって雪花を召し上げる。
その様子は苛立ちを隠そうとはせず、雪花は自らの体に残る気だるさとなかなか消えぬ鬱血跡にうんざりとしていた。
あの日、あの時に自ら向けた刃は、今も帯に突き差してはいるものの、あの時の衝動のままに自らにそれを向ける気には到底なれはしなかった。
死は身近で、そしてまた遠い。
臆病な自分にどこか寂しい笑みを落とし、鉄瓶の水足し用にと水桶を運ぶ雪花は、人の話し声に気づいた。
もともと他人の噂話になど気にかけぬ雪花ではあったが、ふと道場のほうより聞こえた門下生の声に自然足を止めていた。
「――まったく、酔狂なことだよな」
「いやいや、だが流石当代だ。こんなことは居合い抜きの達人である当代にしかできまいよ」
褒めているのか、それとも畏れているのか判らぬ口調で言う青年達の笑い声に、雪花は小さくまぶたを震わせ、一度首をふっていた。
「どうしたね」
水桶を手に離れに戻ろうとしていた雪花は、突然掛けられた言葉に危うく桶を落としてしまいそうになった。
その桶を、袈裟姿の坊主が片手を伸ばして押さえ込む。
苦笑で雪花を覗き込み「悪い時に声をかけたな。すまん」と目尻の皺を深くした。
雪花はその笑顔に、思わず今しがた思っていた事柄をゆっくりと口にしていた。
「人の腕は……一度切り落とされても、またつくのですか?」
何の脈絡もなく問われた言葉に、面前の相手は驚いたように目を見張ったものの、雪花の手から水桶を受け取ると離れへと向けて歩きながら口を開いた。
「俺はそんな真似はしたことは無いが――嘉弘はもう幾度かそんな真似をしているな」
――雪花も以前そんな話を耳にしたことがあった。
山田浅右衛門嘉弘がそれまでの山田浅右衛門と違い『首切り浅』として名を馳せる理由に、腕の付け替えに成功しているというのだ。
その見事な居合いにより断ち切られた腕を、他の人間の腕に差し替える――それは神のように恐ろしき事柄として読売で持てはやされた。
勿論、それを付けた医師の技も賞賛されてはいるが、その太刀傷こそが誉めそやされているのだ。
「だが、良いことでもあるまい」
「――そう、なのですか?」
「これは人間を使った児戯に等しい。医者が聞いたら怒るだろうがな。腕が使い物にならなくなった男から腕を切り、罪人として死ぬヤツから腕を切り取ってつけるのが神やら仏やらがすることか? ぞっとせんな」
ぶるりと身震いをした坊主は、ふっと鼻を鳴らした。
「新しく腕をつけるほうはいいさ。だが切られるのは罪人だ。死人の腕なんぞ誰も望みはしない。生きたまんまの人間の腕を切り落とすなんざ、なんぎなことさ」
その心底から嫌だという言葉に、雪花は少し前を行く坊主の肩口をみながら思うままに口にした。
「生きたまま――山田浅右衛門は人を殺すというのに?」
同じことではないかと問えば、坊主はぴたりと足を止め、真顔で雪花を眺めたかと思うとゆっくりと首を振った。
「雪ちゃん」
その呼び方は、子供の頃以来のものだ。
親しげに、愛しげに、相手は瞳を細めて諭すように囁いた。
何故、一度しか顔を合わせたこともない相手がそのように自らに対するのかわからず、雪花はなんとなしに怯えを滲ませた。
意味の判らぬ親切程恐ろしいものは無い。
「山田浅右衛門は、一太刀で命をほふる。悲鳴すらあがらぬよ――どうすれば苦しみすら与えずに殺すことができるのか、よく知っている。
首の間の骨と骨とを見極めて、力加減を誤らず、首の薄皮一枚残して一息に刀を振るう。苦しめたい訳ではない。
悪意もって殺したい訳ではないんだ」
「……」
「だが、生きたまま腕を断ち切るのは――嘉弘にも辛いことだろう」
辛い――嘉弘が、辛い?
向けられた言葉に、雪花は理解できないとばかりに瞳を瞬いた。
嘉弘は鬼だ。
人を殺す鬼――人を殺し、富を得る悪鬼。
その嘉弘が……辛いことなど、あるのであろうか。
考えにも及ばなかった事柄に、雪花は驚愕し、何事かを言う為に口を開こうとすれば、ついで二人の間に声が落ちた。
「先代、いらしていたのですか?」
離れで待っていた筈の有村が、雪花の戻りが遅い為にしびれを切らしたのか中庭を歩いて来るのを目に留め、ついでその口から吐き出された言葉に雪花は面前の袈裟姿の男をはっきりと凝視していた。
「……先代、山田浅右衛門……」
呆然とつぶやけば、坊主姿の男は柔和に笑んだ。
「嘉継だ。今はもっぱら名白と名乗っているがな」
なんだ、判らなかったのか? と笑う相手を見つめながら、雪花は我知らず懐剣に触れていた。
懐剣の先端でまろい鈴がちりりと音をさせる。
浮かんだのは――この男もまた鬼だという思いと、そして――春に、あの散りゆく枝垂桜の下に見た墓だった。
突如として桜の下で抱きすくめられた腕。
囁かれた言葉が、背筋をなぞり上げて雪花はぎゅっと強く自分を抱きしめた。
そうしなければ、何かを――失ってしまいそうで。