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母屋の一番奥に当たるのが嘉弘の部屋だ。
床の間にはミノの趣味で季節の花を描いた掛け軸がつるされ、刀置きが置かれている。雪花は持っていた刀をそっとそこにかけ、着替えをしている嘉弘とそれを手伝うミノに頭を下げて部屋を辞した。
言われずとも、この後に続くのは酒だ。
嘉弘は大酒のみではないが、帰宅すればすぐに酒を飲む習慣があり、その後には風呂と決まっている。今ごろは下男が風呂を沸かせているだろうし、飯炊き女が夕餉の仕度、ついでに酒の肴の準備に追われているだろう。
雪花は厨へと向かい、暖簾だけがさげられたそこに顔を出した。
熱燗の香りがぷんと鼻をつく、そして米のぐつぐつという音。中では馴染みの飯炊き女のはなと共に、見知らぬ男が談笑していた。
「ああ、雪花さん。熱燗はもう少しまって頂戴」
はなが菜ばしを手に雪花に言う。雪花はこくりとうなずきながら、食器棚から酒の猪口と幾つかの皿などを漆塗りの膳に並べる。
「あれ、随分と可愛らしい嬢さんがいるもんだ」
男は突飛な声で言う。
「およしよ六さん」
はなが苦笑するが、男は続けた。
「おれはぼてふりの六ってもんさ、あんたは?」
「およしったら」
雪花は話し掛けられても答えることができない。いや、できるのだろうが、口を利かずに四年と半分。今更口を利こうなどと思わない。
だから眉に皺を寄せて相手を見やるしかできず、男は不快そうにケッと舌を鳴らした。
「なんだいなんだい、お高く止まってやがんな。
俺みたいな男にゃ声もかけられねぇって?」
「おやめったら! 雪花さんは口が利けないんだよっ」
慌てたはなの言葉に、ろく――六蔵は拍子抜けしたように瞳を瞬いたが、やがて「へぇ」と口にした。
「すまないね、雪花さん」
困ったように言うはなに、雪花はなんでもないことだと首を振り、だが六蔵は何を思ったかニヤニヤと口元を緩めた。
「ああ、あんたが噂の口の利けないお妾さんってヤツだな」
さすがにこの言葉にはなは青ざめた。
――口の利けない妾、それはこの屋敷の女中達が雪花のいない場で彼女を言い表す言葉で、六蔵にそれを告げたのは誰でないはなだ。
「ばっ」
慌てたはなだったが、雪花は静かに出来上がった熱燗を膳に乗せ、用意されていた酒の肴と共にそれを引き取った。
「口が利けないどころか、耳も駄目なんじゃねぇの?」
と六蔵があけすけに言うが、雪花はそれすら気にしない。はなはどうしたらよいものかと雪花と六蔵とを見比べていたが、雪花はさっさとそんな厨房を後にした。
厨ではなの怒声が聞こえてきたが――そんな陰口、この数年で慣れてしまった。
ミノだとてあからさまに雪花に当たることもある。
この屋敷に来た当初などは、せっつくように「なんで旦那様がお引取りにならなけりゃならないんです? 罪人の娘なんて……まったく、おやさしい限りですが、この先いくらだってそんな子供は出るんですよ? どっかに奉公にでもだしちまえばいいんですよ」
幾度もそんなことを言われたが、嘉弘は何も言わなかった。
そもそも、彼が雪花を引き取ったのは優しさなのだろうか?
罪悪感? それとも、哀れでも催したのだろうか。
自らが切った男の子供が、苦界に売れるのを哀れんだ?
――何故、なんて問うこともできずにただ時だけが流れる。
そのうちにミノなどは諦めた様子だが……いまだもって雪花の立ち位置は理解できるものでは無い。
酒をもって嘉弘の部屋へと訪れると、すでにその居住まいは着流しになり中庭を見る為にか、縁側で片膝をたて、もう片方の足は軽く曲げて内股につくような状態。背は障子の縁に預けている始末だ。
雪花はそんな相手の前に膳をおき、一礼した。
そのまま部屋を去ろうとしたのだが、珍しく嘉弘は庭先に向けていた視線をつっと雪花へとめぐらせ、猪口を手にぐっと雪花へとむけた。
「……」
注げ、というのだろうか。
雪花は眉をひそませ、だが静かに膳に用意した手ぬぐいで熱い徳利を掴むとその猪口に酒を落とす。
嘉弘は小鉢の中の一つである塩をもう片方でつまみ、猪口の縁をなぞるようにおくとそれをくっと呑んだ。
――この呑み方は奇妙だと思う。いつも思うのだが、熱燗ならば枡酒にでもすれば良いと思うのだが、この男は決まって小さな猪口で飲むのだ。
「雪花」
名まで呼ばれた。
ますますいつもと違う。
雪花は小首をかしげた。
「おまえに良いものをくれてやろう」
男の低い言葉に雪花は瞳を瞬く。
猪口を膳に戻し、嘉弘はすっと自らの横に置かれた桐の箱を引き抜いた。
確かにそこに置かれていたが、まさかそれが自分宛だとは思わなかった雪花は少し驚いた。
桐の箱は細長く、何も書かれていない。中央を綺麗な組紐で結ばれた品だ。
雪花はおそるおそる手を伸ばし、その紐を解いた。
かたりと音をさせて出てきたものは、綺麗な金と銀とで花を描いた包みだ。細長い包みは見事な造りをしている。さらにそれを紐解いて現れたのは、懐剣。
漆塗りの鞘に収まった鍔の無い短い剣。
どくりと心臓が音をさせた。
「使い方は判るな?」
嘉弘は静かに言うが、雪花は手の中のずしりとくる重みに意味が判らない。
「どう使うかはおまえしだいだ」
――どういう意味?
問いかけようと口が動いたが、言葉を忘れた喉はからからに嗄れたように音を発しない。
「下がれ」
嘉弘は短く命じた。
その一言で全てを遮断し、嘉弘は自ら酒を注いで視線を中庭へと向けた。
まるで、雪花などその場にすらいないかのように。