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鬼の棲む家   作者: たまさ。
29/52

7

 徳利で三つ。

純粋に嘉弘の腹へと消えた酒量に雪花は息をついた。


雪花が帰宅の挨拶に顔を出した当初は、部屋にはほのかに虫避け用にと菊線香が焚かれ、その香りが満ちていたものだ。

だが半刻足らずも過ごせば、その香りが鼻をくすぐることも無い。

酒の肴として並べられた焼き魚や煮物の香りをも打ち消す程の酒臭が満ちる。

だというのに、縁側、障子の縁に背を預けて片膝をたてて黙々と酒を飲む男は、相も変わらず涼しい顔をさらして酒を喉の奥へと流し込んだ。

 以前吉次が酒を召した時は、その頬を赤く染めて口元はいつもよりも緩んでいたものだ。

だが、嘉弘は当初と変わらず酒をくいくいと干していく。

 その酒に毒は無く、その酒精にすら酔いを示さぬ男の様子に雪花の唇から吐息が落ちた。

――嘉弘の口の端がゆがむ。

「どうした、酒が尽きたか?」

 障子の枠に背を預け、縁側に片足を投げ出して座る嘉弘が口の端を持ち上げて意味ありげに笑う。

 まるで雪花の心内など全て見透かしているという相手の様子に、雪花は唇を噛み、軽く腰をあげて転がる徳利を丸盆へと移し、無言のままに身を起こした。

――途端、その腕がつかまれ、引かれ、ガシャリと徳利が音をさせる中、雪花の体が嘉弘の腕に囚われる。

 短い悲鳴は未だかすれ、逃れようともがいたその時にひゅっという奇妙な音が耳にかするように届いた。


一拍音が失われたものの、ドンっと低く地すら揺るがす重い音が全てをさらい、闇夜を照らす光量が満ちたのを皮切りに、幾つもの閃光が星すら攫い夜空を染め上げた。


 片膝を立てた姿で座る男に背後から抱かれる形で、雪花は空に広がる色彩に心を奪われた。

 花火の開始を知らしめるように、続けて三発の花火が打ちあがる。

いくつかあるという花火を生業とする者達が毎年その美しさ、大きさを競う為に年々その催しの規模は自然と大きくなっていく。

 まるで巨大な太鼓を力強く鳴らすかのように響く花火の音に身をすくませつつも、その美しさに雪花は嘉弘の腕の中にいるということすら忘れ、感嘆の溜息を零した。

「別にはじめてではあるまいに」

 耳元で囁く言葉に、はじめて嘉弘に抱きすくめられていることが体をなぞり上げ、雪花は狼狽した。

 嘉弘の囁きが雪花の産毛を揺らし、その手がするりと胸元に忍び込み、刀を扱う硬い指先が乳房に触れる感触に雪花の血の気が一息に下がった。

――ぶわりと心を占めたのは、赤子の姿。

 額にこんもりと盛り上がる異形の角を持つ、鬼の赤子。

やがて大きくなるその暁には、誰より恐ろしい人を殺す悪鬼となるべく子供。

「や……っ」

 雪花はひゅぅと喉から掠れる音をだし、相手の腕から逃れようと宙をかいた。


打ち上げられる花火も、音も――届かぬ程に恐ろしき思いが全身を満たし、雪花は傍らにある漆膳を掴み取り、それをがしゃりと倒しながらもがいた。

「どうした。これも慣れたものだろうに」

 冷ややかに言う男の腕が強く雪花を引き戻す力に、雪花は胸元の手を退けようと手を走らせ、その指が――絹袋に包まれた懐剣を引き抜いた。


「鬼などっ、人を殺す子など産みたくないっ」

 

悲痛な叫びで首をふり、幾度も手許を危うくしながら引き抜いた懐剣の白刃が向いたのは――雪花自身の首筋であった。 

 その時、雪花の思考はきちんと定められたものではなかっただろう。ただ、本能のままに、相手が憎いのではなく、ただひたすらに――やがて産まれる筈のわが子を山田浅右衛門にしない為に自らができることとして刃が向いた。


 これで良いのだ。

武家の娘として、こうして自ら命をたつことが。

もとよりこうするべきであったのだと。

その安堵感と気持ちの高まりに、雪花は懐剣に力を込めるその瞬間、ふわりと微笑を浮かべてみせた。


 大飢饉の折に失われた幾多の命を慰める為の花火が打ち上げられるその下で、雪花の懐剣が彼女自身を捕らえる寸前、嘉弘は転がる徳利を彼女の腕へと投げつけ、驚愕に生まれた隙を突いてその手首を捉えていた。

「阿呆が」

 忌々しいとばかりに吐き出される言葉は舌打ちに混じり、嘉弘はすばやく懐剣を遠く投げ捨てると雪花をその場で組み敷き、その頬を打ちつけた。

「おまえが産む子が俺の跡を継ぐなどと、浅慮なことだな」

 吐き捨てられた言葉と、じりじりと痛みを訴える頬に雪花は瞳を見開いた。

「安堵するがいい――おまえの産み落とす子が山田浅右衛門を名乗ることなど、何があろうと、ありはしない」

 傷口にゆっくりと浸み込ませるかのように落とされる言葉。

自分の上に圧し掛かる男の背後に、大輪の菊の花を見ながら雪花はその言葉をどこか遠く聞いていた。


 自ら産み落とす筈の子が山田浅右衛門を名乗ることはない。


 安堵できる言葉であるはずだ。

 安堵できる言葉であるはずだというのに、雪花は自らのうちのどこか深い場所に小さな棘を突き立てられたかのような痛みが走るように感じていた。




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