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夏の肌にまとわりつくような暑さにうっすらと汗をかきながら散歩から帰宅した雪花をまっていたのは、顔をしかめたミノであった。
散歩の途中、顔色を白くした雪花を有村は近くの池へと誘い、その木陰で涼をとりながら少しばかり時間を過ごしてしまった。
はじめのうちこそ様々な思いに胸がつぶれるような気持ちを味わっていたものの、気を遣う有村に雪花は精一杯微笑を浮かべて見せようと応えた。
そんな二人が普段と同じように正門より足を踏み入れた途端、そこを掃き清めていた下女のおぬいがまるでお化けでも見たとでもいうように弾けるように体をそらし、慌てて屋敷奥へと声を荒げたのだ。
「ミノさんっ。雪花様がお帰りになられましたっ」
今まで幾度か散歩に出たことはあるものの、このように大声でその帰宅を吹聴されたことはなく、驚愕した雪花が一歩後ずさり思わず有村の背に隠れようとしたところで、女中頭のミノが珍しく足音も高く正面玄関を訪れた。
「どちらまで行かれていたのですかっ」
眉を潜め、棘ばかりを含ませた台詞に、
「すみません。今日は稽古のかわりに散歩に――市で大福を買いましたよ。如何です?」
苦笑交じりに有村が言えば、ミノはきつい眼差しで有村を睨みつけた。
「旦那様が許されているから、ミノが言うことではありませんが。ミノは雪花様の稽古だとて反対なのですよ」
敵意すらむき出しで叩きつけられる言葉は本来では珍しい。そして、それに対する有村でさえ、平素であればにこやかに対処するであろうに、このときばかりは様子が違っていた。
「言うことで無いと理解なさっているのであれば、黙ってらっしゃればいい」
有村らしからぬ辛らつな台詞に、雪花は驚いて一歩前に立つ有村をみあげていた。
近くにいた下男下女までが思わず身をすくませるが、しかしミノは眉間に皴を刻ませ、ふんっと鼻を鳴らしてみせた。
「とにかく、雪花様。旦那様がお戻りです。早く帰宅のご挨拶をなさってくださいませ」
ぴしゃりと言葉を続けられ、雪花は狼狽した。
本日は両国の川開きだと有村が言っていた言葉がよぎる。その日は夜空に大輪の菊花のような美しい花火が打ち上げられる夏一番の催しといってよい。
そんな日に嘉弘が屋敷に戻ることなど滅多にあることでは無かった。
有村自身も嘉弘が今日この日に帰宅するとは考えていなかったのだろう、雪花を振り返り、困惑するように苦笑を落とした。
「当代が戻るような刻限まで連れまわしてしまいましたね。お疲れではありませんか?」
「雪花様おはやくっ」
急かすミノの言葉に、雪花は慌てて玄関をあがろうとし、有村は履物を脱ぐ為に雪花の手を支えてやりながら小さな――ほんの小さな声で囁いた。
「約束を違えてしまいますね、すみません」
その言葉に、雪花は未だ引き連れるような声を何とか駆使し、相手に届くかどうかすら判らない小さな囁きで返した。
「お気になさらないで下さい」
――今宵、離れで吉次を誘い花火を楽しもうという約束がちらりとよぎり、残念な思いがじわりと雪花の胸に滲んだ。
本来であれば、尋ねたいことならばある。
けれどそれを口にしてどうだというのだろうか。
触れずにいてくれる優しさに――雪花は瞳を伏せて甘えることを選んだ。
そう、たとえ相手の全てが善でないとして、いったい何ほどのことがあろうか。自らだとて到底善なる生き物ではないというのに、相手にそれを求めることなど愚かしい。
――表面上のことといえど、誰より自らを気遣ってくれるのは有村と、そして吉次に他ならない。
その二人さえ鬼だ悪だと決め付けて、それでどう生きていけようか。
雪花は淡い微笑でその場を辞し、急かすミノに追い立てられるようにして屋敷の奥にある嘉弘の私室の前で膝をついた。
廊下、板の間にすわり、閉ざされている襖を軽く両手の先を揃えて少しばかり開き、ついで間をおいてすらりと開く。
本来であれば声をかけるのであろうが、雪花はもともと口を利かぬ時からの慣れでその一連の動作を無言で通す。
後に続くミノは良い顔をしないが、ミノは近頃では嘉弘の前で雪花を叱責したりはしなくなっていた。
「――ただいま、戻りました」
引きつる喉を駆使して小さく告げてゆるりと視線をあげると、そこにいたのは雪花の良く知る着流し姿に片膝をたてて座る嘉弘である。
部屋の縁側近くにすわり、朱塗りの盆に酒と肴――寛ぐ時にそうするように、今は髪すら結い上げずにちらりと横目で雪花を見た。
「具合は……」
もともと口数の少ない嘉弘だが、ふいにそんなふうに口を開く。
雪花がきょとりと瞳を瞬くと、嘉弘は苦いものでも口にしたかのように口元を引きつらせ、忌々しいという様子で視線を流し、庭へと向けた。
部屋には虫避けの菊線香の香りがくゆり、雪花の鼻腔に触れる。
「具合はもうよさそうだな。外出できる程になったのであれば」
平坦に言われる言葉に、まさか相手が自分の身を案じていたのかと雪花は眉を寄せた。
「旦那様、有村様に言ってくださいませ。未だ病み上がりだというのに外にお連れになられるなんて」
ミノが嘉弘に向けて口を開くが、嘉弘は親指と中指とではさんでいた小さな猪口をくいっと呑みきると、無言で雪花へと差し向けた。
そうされるといつもの常で、雪花は嘉弘の許へと近づき猪口を酒で満たす。
その二人の様子に満足するように、ミノはとんっと膝を叩いた。
「今夜は天気もよろしいですし、きっと素晴らしい花火があがりましょう。楽しみでございますね」
言いながらミノが部屋を出て行くと、途端に二人の間には沈黙が満ちた。
それは普段通り――これといって会話がある訳ではない二人だ。
嘉弘は酒を呑み、そして雪花は無言でそれを注ぐ。
ただぼんやりと外を眺めている嘉弘が、なんだかやけに憎らしく思えて雪花はどんどんと不機嫌が蓄積していくのを感じていた。
二杯、三杯と酒は嘉弘の口へと消えていく。
たかが二杯の酒で頭が霞む覚えを抱く雪花にとって、嘉弘は信じられない程の大酒のみだ。この面前の男が酔うということはありえるのだろうか。
そして、酔ったその時は――この恐ろしい鬼でさえも容易く命を脅かされたりするのであろうか。
そう考えた時、まるで自分が勧めるこの酒が――毒酒にでもなったかのように震えが走り抜けた。
「どうした」
まるでその考えを見透かすようにふいに言われ、危うく雪花の手の徳利が大きく震える。
そう、もちろんこれは毒では無い。ただの酒だ。
だが、この酒を多く召した後――酔いつぶれてしまった男を殺すことは、容易いのではないだろうか。
雪花は何故か気持ちが大きくなるような、笑いたいような気持ちでその視線をあげ、挑むように嘉弘を見返した。
「御酒は、いかがでございますか」
その眼差しを受けた男は、すっと切れ長の眼差しを更に細く瞳孔すら細め、口元に笑みを浮かべて見せた。
二人の奇妙な緊迫した視線が絡み合い、嘉弘の喉が小さな音をさせ――
嘉弘は無言で杯を示した。