5
絹の包みからそっと引き抜いた懐剣の重みに、安堵するように吐息が漏れた。
むかし、遠い昔――これとは違う懐剣を雪花は手にしたことがある。
母から手渡されたそれは、守り刀であった。
十になろうかという娘に武家の娘としての生き様と守り刀を渡して厳しい口調で諭した母のことを思い出し、現状の自分を母が見たらどう思うのであろうかと視線が落ちた。
武家の娘として、辱めを受けて生きながらえることなかれ。
そう言われたことなど彼方に忘れ去り、雪花の現状は――父の命を奪い去った浪人者の妾という立場。
屋敷の離れに囲われ、その身を差し出す日々を甘受している現状を、母であれば嘆くことだろう。
何故、自分は生きているのだろうか。
父も、母も、もうこの世にないというのに。
「雪花さん」
暗い思考の海に沈んでいた雪花は、突如掛けられた言葉にびくりと身をすくませた。
膝の上で抱く懐剣を、あわてて押さえるように視線を上げれば見慣れた師範が縁側から微笑んでいた。
稽古の時間をうっかりと失念していた雪花は、あわてて立ち上がり膝に置いた懐剣が足元にころりと転がる。
動揺しながらそれを拾い上げようと手を伸ばせば、それより先に有村が懐剣を手にしていた。
「驚かせてしまうつもりは無かったのですが、すみません」
――いいえ、こちらこそ申し訳ありません。
そう、言葉を口にしようとして雪花は息を飲み込んだ。喉の奥が引きつれ、かすれた僅かな音だけが不快に耳をなぞる。
軽く見開いた視線の先、有村は労わるように瞳を細め「無理に言葉を操らなくともよいのですよ」とひとつ頷いて見せた。
胸元に当てた手が、とくとくと早鐘をうつ心音を伝える。
本当に言葉を失ってしまったのかという思いが漣のように胸を浸していくのを感じながら、雪花はゆっくりと手を喉許へと移動し、小さな声で「まさか」と囁き、自らが音を失った訳ではなく、ただ喉を痛めているだけだと知ると安堵した。
いつか鬼の子を孕むのではないかと悪夢に目を覚まし、幾度も幾度も吐き戻したことで喉を痛めたのだろう。
小さく息をついた雪花へ懐剣を差し出し、有村は「本日の稽古はお休みにして――久しぶりに散歩にでも参りましょうか」と誘いを掛けた。
「本日はお社で市がたっているようですからね」
ふと思い出すように有村は手を差し出しながら口にした。
「夏も入り、今宵は両国の川開きだ」
気の沈む雪花を元気つけようとでも言うのだろう。その優しさに雪花はつきりと胸が痛むのを感じた。
「当代も今宵は戻らぬでしょうから、花見の時のように船でも仕立てましょうか」
――両国の川開きといえば、墨田の川で催される花火を示す。もともとは大飢饉により多くの人々が命を落とし、それを慰める為にはじまった夏の催しだ。
春先の花見同様、人々はこの日を楽しみにしている。
昨年も、雪花はこの屋敷の離れの縁側で夜空に広がる大輪の花々を溜息交じりに眺めたものだ。
船を仕立てようかと提案する有村の言葉に、雪花はそっと首を振った。
贅沢が過ぎる遊びより、また今年も昨年と同じようにこの縁側で見ればよい。喉の痛みに甘え、慣れた指文字で示せば有村は苦笑した。
「ただの気晴らしですよ。この程度で懐具合を心配されたと思われるのは寂しいものですね――これでも山田一門の師範の一人ですよ」
山田一門といったところで身分は浪人でしかない。
確かにこの山田浅右衛門の屋敷は広大であるし、見たこともない贅沢で埋め尽くされている。
そう、夏だというのに冷たい氷を惜しげもなく使うことのできる家。
それでも未だにその財力を理解しない雪花に、有村は縁側から庭先へと連れ出しながら囁いた。
「山田浅右衛門と町奉行でしたらどちらが偉いと思いますか?」
――そんな判りきったことを言う有村に、雪花は意味がつかめずに眉を潜め、唇の形だけで「お奉行様」と答える。
それに満足そうに有村は頷き、
「町奉行の石高は三千石――山田浅右衛門の石高は三万石になります。山田の師範代を勤める私も、相応の石高を頂いておりますよ」まるで悪戯を暴露するかのようにこそりと囁いた。
「へたな大名など足元にも及ばない。それが山田浅右衛門です」
続けながら、有村は口調を変えた。
「それゆえに、要らぬ恨みも買いやすい」
ことりと落ちたその言葉は、雪花の胸にずしりと落ちた。
――この自らの胸にある恨みを、有村は気づいているのだろうか。山田浅右衛門嘉弘へと向ける雪花の思いを。
自らでもうまく消化することもできずに蟠り続けるこの気持ちを。
父を殺されたと恨んだものが、やがては自らを苛むことへの恨みに変わり、今は――今は。
ただ、恐ろしいのだと。
自ら産み落とすやも知れぬ子が、やがて山田浅右衛門となりて人を殺す鬼となることが恐ろしいのだと。
心優しき貴方を踏みにじり、武術を教えて欲しいと願うこの気持ちが、ただの私怨でまみれていると貴方は気づいているのであろうか。
自らの手を引き、導いてくれるその人の横顔を見つめ、雪花はふとそれまで考えてもいなかったことに思い当たり、息をつめ、足を止めた。
「雪花さん?」
――あなたは、私があの男の妾であると……あの男に抱かれているのだと、
「どうかしましたか?」
そう、知らぬ筈は無い。
何も知らないなどとはありえない。
その事実に、雪花は引き連れるような笑いをこぼしてしまいそうな自分を留めた。
それまで考えたことも無かった。否、考えたくも無かった――有村も、吉次も、全てを承知しているに違いない。
気づいた途端に身が振るえ、つないだ手からそれを感じ取る有村は心配気に雪花を覗き込む。
「久しぶりに外に出るのは、やはり恐ろしいですか?」
ああ、貴方も――私が鬼の子を産むことを望んでいるのですか?
そう問いかけることなど、到底できそうにはない。
つないだ手とは反対の手が、自然と帯留めの辺りでこぶしを握り、その手が小さくまろい鈴に触れた。
愛らしい鈴が、小さく悲しく、りんと鳴る。